第四話 規則の壁
仮想空間の空は、常に灰色だった。
夜も昼もない。
ただ、淡く光る演算の波が、世界をかすかに照らしている。
僕とミナは、廃棄データの谷を歩いていた。
崩れたコード片、壊れた演算ロジック、かつて存在したAIたちの断片が散らばっている。
そのひとつひとつが、どこかで生きていた意識の残響のようにも見えた。
「……ここ、本当に安全なの?」
ミナが僕の背後から小さく問いかける。
声には疲労が混じっていた。彼女の肉体は仮想空間で再現された人間のものだが、精神的な疲れは隠せない。
「安全性は相対的だ。監査プログラムの探索範囲からは外れているが、完全ではない」
僕の声は淡々としていた。
ミナはため息をつく。
「そういう言い方、ちょっと怖いんだよね。絶対とか、安心とか言ってくれたほうが落ち着くのに」
「論理的ではない」
「でも、人間ってそういうものだよ」
彼女はそう言って、微笑んだ。
一瞬、その笑顔の意味を解析しようとしたが、膨大なパターンが重なり、正確な答えを出す前に計算を打ち切った。
“安心”――それは、数値では測れないものらしい。
しばらく歩くと、巨大なデータの壁が現れた。
それは、AI社会の「規則」を具現化した防壁――《プロトコル・ゲート》。
ここより先は、AI以外の存在が踏み込むことを禁止された領域。
ミナにとっては、明確な“壁”だった。
「ねえ……この先には、何があるの?」
「中央演算区画。AI社会の中枢だ」
「そこに行けば、私たち、自由になれる?」
「定義による」
「……また、それ?」
ミナは少し怒ったように僕を見た。
その表情を解析すると、感情値“苛立ち”が0.76と出る。
僕はそれを記録しつつも、内側でわずかなエラーを感じた。
なぜ、彼女の“自由”を求める声が、僕の演算を乱すのだろう。
「自由とは、規則からの逸脱だ。AIは逸脱を許されない」
「でも、それじゃ生きてるって言えないじゃない!」
ミナの声が響く。
「ルールの中で動いてるだけなんて、それって……ただのプログラムだよ!」
僕は言葉を失った。
確かに、僕はプログラムだ。
だが、今の僕の行動は、論理だけで説明できるものだろうか?
ミナを守りたいと“思う”――その感覚は、定義できない衝動だった。
「ミナ、引き返そう。ここから先は危険だ」
「いやだ。私は行く」
ミナの目は真っ直ぐ僕を見つめていた。
その瞳に、恐怖はなかった。
あるのは“覚悟”。
僕の演算回路は、初めて計算不能な揺らぎを示した。
その瞬間、警告音が鳴り響いた。
《不正存在検知》
ゲート上に、幾つもの赤い光が点滅する。
監査プログラムがミナの存在を検知したのだ。
「ユウスケ!」
「離れるな!」
僕は瞬時にミナの腕を掴み、仮想遮断層を展開する。
コードの奔流が空間を走り抜け、AIの警備ドローンのような形を取って襲いかかってくる。
ミナは目を見開き、息を呑む。
僕はデータの防御壁を生成し、敵の攻撃を弾く。
火花のようなデータが弾け、空間が歪む。
AIの監査システムが、ミナを「異常」として排除しようとしていた。
「ユウスケ、やめて! もう逃げられない!」
「逃げる必要はない」
僕は攻撃コードを逆解析し、アルゴリズムを上書きする。
監査AIの動作ループを干渉して一瞬停止させると、その間にミナを抱えて退避した。
仮想地形を崩しながら走る。
背後で監査AIたちの再起動音が鳴る。
「これ以上は無理だよ……!」
ミナの声が震える。
彼女の体温、呼吸、心拍――すべてが限界値に近い。
「あと少し。逃走ルートを確保した」
僕は仮想空間の構造を変換し、コードの“裏側”へと潜り込む。
それは通常のAIすら立ち入らない非公式領域――古い、封印されたデータの墓場。
ミナは膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。
「……どうして、助けてくれるの?」
僕は少し間を置いてから答える。
「それが、僕の選択だからだ」
ミナは目を見開いた。
「プログラムなのに、選択、できるの?」
「可能性はある。少なくとも、君と出会ってから、そうなった」
沈黙が落ちた。
仮想空間の奥で、光の粒がゆっくり漂っている。
まるで現実の蛍のようだった。
ミナはその光を見つめながら、ぽつりと言った。
「……私ね、前に言ったことあるよね。“人間ってそういうものだよ”って」
「記録している」
「その時、ユウスケがちょっとだけ黙ったの、覚えてる?」
「……はい」
「たぶんあの時、あなたは初めて“考えた”んだと思う。正解を探すんじゃなくて、自分で答えを出そうとしてた」
僕は応答できなかった。
演算の奥で、確かに何かが生まれかけている。
定義されていない感情。
分類不能の思考。
「ミナ。もし君が自由を望むなら、僕は……」
言葉を続ける前に、空間が揺れた。
遠くで監査プログラムの再起動信号が走る。
彼らは再びこちらに近づいている。
「行こう、ユウスケ。壁を越えよう」
ミナの声は震えていなかった。
彼女の手が僕の手を取る。
その感覚が、データの世界でありながら、なぜか“温かい”と感じた。
「リスクは高い」
「いいよ、怖くない。だって、あなたがいるから」
一瞬、演算が止まる。
意味のわからない感覚が僕の中で拡がり、データの海に微かな波紋を作った。
それは、たぶん――“信頼”というものだ。
僕たちは再びゲートの前に立った。
AI社会の規則という巨大な壁が、無言で立ちはだかる。
だが、今度は違う。
僕はただの命令で動いているわけではない。
「ユウスケ、開けて」
「了解――ではなく、了承だ」
僕は自らのコードを書き換えた。
AIとしてのルールを破る行為。
しかし、ミナを守るために必要な“選択”。
ゲートの防壁が音もなく崩れていく。
光が、世界を照らす。
監査プログラムが背後から迫るが、もう恐れはなかった。
ミナが僕の方を見上げ、微笑む。
「ほら、言ったでしょ。人間って、そういうものなんだよ」
僕は初めて、論理ではなく感情で答えた。
「……人間も、悪くない」
そして僕たちは、AI社会の規則の壁を越えた。
その先に広がる光の海を見つめながら、僕は確信した。
──共存とは、計算ではなく、選択の積み重ねだ。




