怪物のいる世界
トレイシーの独白です。
彼女の身に何が起こり、それをどう受け止めていたのか。
本編で彼女の視点を入れるのは難しかったので、番外編として書かせていただきました。
ただ、結末は本編で語られている通りですので、救いはありません。
それでもドンと来い! という強者のみお進みくださいませ。
ずっとずっとつらくて、かなしくて、
すべてが嫌だった。
硬い床の上に倒されて痛かった。
私を見下ろす男はとても大きくて、怖くて、気持ちが悪かった。
生温かい息が、体を這いずる舌が、私を掴む大きな手が、まるで私を食い尽くそうとする怪物のようで、私は恐ろしくて恐ろしくて、声も出せずにじっとしていることしかできなかった。
きっと本当に食べられたのだ。
だって痛かった。痛くて堪らないのにユサユサと揺らされて。怪物のうめき声が聞こえた気がする。
「好きだ好きだ好きなんだ」
まるで呪文のように私を雁字搦めにする。
「初めてだったんだね」
「もしかして君も俺のことを?」
「ああ、気持ちいいね」
分かるのに分からない言葉が怪物から飛び出す。
「……これで俺の物だ」
ニタリとわらった顔は醜悪で。
「……わたしは……わたしのものよ」
だってノア様がそう教えてくれたわ。私はお父様のものでも、お母様のものでもないって。
私は、私だけのものでしょう?
「なっ、……俺を騙したのか⁉」
怪物の言葉は本当に理解できないし、体の節々が痛い。
「だって抵抗しなかった! 同意したってことだろ? だからっ、……俺は悪くないっ、お前が! 逃げなかったお前が悪いんだっ!!」
それだけ叫ぶと、怪物は大慌てで私の足の間を拭い、床を拭き上げた。
「早く服を直せ!」
怒鳴られてビクリと体が震えた。
「言うなよ。誰かに言ったらぶっ殺すからなっ!!」
殺す──そんな言葉は初めてで。
恐ろしくて、泣きながら何度も頷いた。
「ああ、ごめん。大きな声を出して。
怖かったよな? 本当にごめん。大丈夫か?」
急に優しい態度に変わる。それにまったく付いていけず、ただ、震えながら大丈夫と答えた。
「ああ、やっぱり好きだ。可愛い、大好き」
そう言って抱きしめられた。どうして?
でも怖くて抵抗なんてできない。態度がコロコロ変わって次は殺されるかもしれない。
それから、ブラウスのボタンを留めてくれた。
リボンも直してくれて。
スカートのホコリをはらってくれる。
「俺を忘れないで。……裏切るなよ」
そう言って……。私は食べられたのだ。大きく開いた口が私の舌を食べた。
だから、私はもう誰にも何も話せない。
だって怪物に食べられたから。
ノア様、ノア様、どうしよう。
彼にすべてを話したい。そうしたら助けてくれるはずなのに。でも、話したら殺されてしまう。
怖くて、しばらくは部屋から出られなかった。
男の人が怖い。大きな体も、低い声も。
お父様も兄様すらも怖い。
忘れなきゃ。でも忘れるなと言われた。
……何を覚えておけばいいの? 嫌よ、だって忘れたい。私の心は私だけのものでしょう? そうよね? ノア様。
だから全部忘れる。何もなかった。私は何も見なかった。
しばらくは皆何があったのかと心配してくれた。でも、だんだんと苛つきを感じる。
不登校だなんてみっともない。
そう言われてしまうと、部屋から出ざるを得なかった。
久しぶりの学園はいつも通りで。
そして、怪物はいなくなっていた。
消えた……よかった!
これで元に戻れる。そう思ったのに。
「なぜ今まで黙っていたんだっ!!」
どうして……、家の中にも怪物がいた。
どうして、どうしてっ⁉
怒鳴り声が怖い。お父様もあの怪物と同じだ。私の気持ちなどお構いなしに怒鳴り、痛めつけるのか。
涙が止まらなかった。
「部屋から出ないように」
そう言われて幾日経っただろうか。
母と兄が部屋まで来た。メイドが荷物を纏め出した。
「お前の婚約は解消となった」
「……うそ……」
どうして? なぜそんなことに?
「腹に他の男の子がいるんだ。ノアと結婚するのは無理だろう?」
子ども? どうして? そんなの知らない。
「あなたはしばらく別荘で生活しなさい。今後のことは決まったら連絡するわ」
「……いやよ、ノア様に会わせてください」
「お願いだからこれ以上困らせないで! 侯爵家にこの不祥事を知られるつもりなの⁉」
……ああ、お母様も怪物だ。私を傷つけ、殺そうとする怪物。そうか。怪物だから私の話を聞かないのね。
「……兄様……お願い……」
「今すぐは無理だ。少しだけ待っていてくれ」
「本当に? 信じていいのね?」
「ああ」
怪物だらけの世界。兄様はどうなの? 信じていいのかしら。ノア様は?
別荘では何もせず過ごした。ただ、ひたすらに気持ちが悪かった。食べ物の匂いが気持ち悪い。水すらも吐き気がする。
ああ、私はどうなってしまったの。
もしかして、毒を盛られているのかしら。
怪物達が私を殺そうとしているの?
吐き気が治まってきた頃、気付けばお腹が少し膨らんだ気がする。あんなにも吐いていたのに。
何となくお腹を撫でる。
「大丈夫、きっと大丈夫」
でも、すべて嘘だった。
兄様は嘘つきで。ノア様は会いに来てくれなかった。
なぜか分からないけどお腹には赤ちゃんがいるらしい。不思議ね。もしかしたら、たった一人の私の味方なのかしら。
だから私が育てると言った。
その後は……何だっただろうか。怪物の咆哮が響き渡った気がする。
ああ、こうやって私は殺されるのだな。
どうしようか。そうだ。この子と逃げよう。
ノア様にだけ手紙を書こうかしら。
今までの出来事……何だっけ。確か、取り留めがなくてもいいって言っていたわ。ノア様なら全部聞いてくれるもの。
だからすべてを書いた。あの日から続く悪夢を全部。
怪物が私をガリゴリと齧る音が鳴り響く。
うるさいな。ノア様に伝えたいのに邪魔しないで。……えっと? 私は何を伝えたかったのかしら? 書いているうちにどうしてノア様は助けてくれなかったのだろうと不満を感じた。だからそれも全部書いた。痛くて気持ち悪くて怖かったのに、どうして助けてくれなかったの?
あれ? こんなことが書きたかったんだったかな。優しくしてくれたのに。私の話を聞いてくれるたった一人の味方だったのに。
ああ、でも嫌なの。吐き出しても吐き出しても止まらない。
もう、何を書いたのかよくわからないけど、しっかり封をして、『ノア様へ』と丁寧に宛名を書いた。
この手紙は届くのかな。でももういい。
この世界なんて私には必要ないから。
ノア様、さようなら。
私はこの子と違う世界に行くね。




