35.恋心(ノア)
───あの時の子だ。
懐かしい学生時代の思い出が胸を過ぎった。
新入生の諍いの仲裁に入ったのは、3年である私の学年の男子にも密かに人気のある、2年生の伯爵令嬢だった。
年下とはいえ、家格が上の侯爵令嬢に向かっていくなんて。
少し心配になり、何かあれば助けに入れるように様子を見る。しかしそれは杞憂だったようで、彼女は相手に理解できるように説明し、和解させた。
感情的になっていた令嬢達はすっかりと大人しくなり、なんなら憧れの眼差しになっている。
その勇気ある行動、場を荒立てない機転。そして、理屈で責めるのではなく、それぞれの立場に寄り添った思い遣りのある言葉でもって二人を笑顔にさえしてしまった。
姿勢の良い凛とした立ち姿に優しい笑み。耳障りのよい落ち着いた声。
なるほど。人気が高いのもよく分かる。
何だろう。偶然、森で美しい景色を見つけた時のような、そんな気持ちが胸に広がる。
誰にも見せず、そっと仕舞っておきたい。……でも、自然は決して自分のものにはならない。
そんな───
「ノア様、待たせましたか?」
声をした方に振り向けば、婚約者であるトレイシーが立っていた。
「いえ、私も来たばかりですよ」
「よかった」
フワッと微笑む姿は出会った頃とはずいぶんと変わった。
人形みたいだった少女は、今では感情の乗った笑顔を見せてくれるようになってきた。
「何かいいことでもありましたか?」
「分かりますか? 今日の授業で───」
トレイシーが嬉しそうに今日の出来事を話してくれるのを聞きながら、さっき見たほんの少しの感動は、そっと胸にしまった。
「それがノアの初恋なのね」
ドクターがニヤニヤと揶揄うように言ってきた。
「え? 違いますよ。その頃は婚約者がいましたし、ただこう、なんでしょう……憧れ? というか、ただ、綺麗だなと感動した? そんな感じのものです」
そう、それだけ。だって、トレイシーがいたのに、そんな思いを持っていたら最低じゃないか。
……これ以上、あの子にとって酷い人間にはなりたくない。
「初恋なんてもっと可愛らしく考えなさいよ。それに、心惹かれるなんて一瞬じゃない。思考で止めるのは不可能よ? その後に理性で止めてるのだから問題ないんです!
初恋はその子。でも、ノアは婚約者をちゃんと大切にしているから、それは一瞬で終わった。ただそれだけのことよ」
……でも、初恋だなんて。
「せっかくだから本当の恋にしてしまったら?」
「……何を言っているのですか」
「だって3年も経ったんでしょう? いい加減あなたも新しい恋を始めてみたら?」
恋? 私が? ……そんなことありえない。
「私は駄目ですよ」
「その子だって今頃後悔していると思うけど」
「止めてください。……どうして。今までこんな話はしなかったじゃないですか」
「ノアが頑固だからねぇ。でも、あなたからそんな話を聞くのは初めてだったから。
あなたの心をもう一度動かしてくれるんじゃないかなって期待くらいしてもいいでしょう?」
この少々口が悪くて人の良いドクターとの付き合いももう3年。まるで姉のように私を気に掛けてくれることには本当に感謝している。
「期待しないでください。言ったでしょう。たぶん、私は女性が駄目です」
「試したこともないくせに」
「そういうことは試しでするものではありませんよ」
そういうお仕事の方には申し訳ないが、この考えは変えられない。
「あなたはいい人よ。誰を好きになってもいいの」
ドクターが本当にそう思ってくれているのは分かっている。でも……あなたは何も知らないから。
「ドクターも本当にいい人ですね」
ニッコリと笑って言えば、さすがにドクターは諦めたようだ。
「もうっ! 本当に頑固なんだからっ!」
そう文句を言いながらも紅茶のお代わりを淹れてくれる。本当にお人好しなのだ。
それでも、ドクターとの話があったせいか、つい、あの子の……クロート伯爵令嬢の噂が聞こえてくると、気になって話に加わってしまう。
時折見かける彼女は、どこか張り詰めていて、以前のような柔らかな笑顔が消え、隙を窺わせない笑みへと変わってしまったことがどうしても気に掛かるのだ。
「付き纏い?」
「違いますから。ただ、少し気になっているだけです」
王太子殿下の侍女だからか? でも、そういう緊張感とも違う気がするし。
「久し振り、覚えてる? って気軽に話し掛ければいいのに」
何を言っているのだろう、この人は。
「一度も話をしたことのない、学年すら違った私を覚えているはずがないでしょう」
「だってノアは覚えてるじゃない」
「私は「あ、初恋だものね?」
被せて来る辺りが本当にもう……。
ドクターの中ではすっかり彼女が私の初恋の人になってしまったようだ。
だが、しばらくして信じられない噂を聞いてしまった。
「彼女がラザフォード伯爵の恋人?」
まさかその名前が出てくるとは思わなかった。ドクンドクンと動悸を感じる。
……彼が? いつから……、彼女が変わった原因はまさか……? いや、違うはずだ。変わったのはもっと前。
でも彼だってあれからずっと婚約者すらいなくて。それなのに、突然彼女が? それとも、彼女だからなのか。
変わってしまった彼女の張り詰めた、何者をも拒もうとする笑顔。そしてラザフォード伯爵が彼女の恋人として突然登場した。
嫌な符合だ。まさか……でも、そんな最悪な偶然が起こりうるのか?
もしそうなら。いや、女性に対してそんな疑いを掛けるなんて最低なことだ。
だけど、彼らの恋の噂は絶えず、このまま結婚するのではないかと言われ始めた。
結婚。……あのラザフォード家に嫁ぐ。
トレイシーを傷付けたあの家に?
彼女なら大丈夫だろうか。賢く、強い彼女なら。でも、今もずっとキリキリと張り詰めていて。このままポッキリと折れてしまいそうなのに?
どうしても気になり、話をしに行こうか、それとも、とウロウロする日々。これでは本当に付き纏いなのでは? そう不安になってきた頃。
会ってしまった。それも最悪な出会いだった。
それでも、何とか知り合いにはなれた。
ラザフォード伯爵とは何も始まらなかったと聞いた。
私のことを先輩と呼ぶようになった。
ただの知り合いから友達へと変わっていく。
少しずつ彼女の心が緩んできたのが嬉しくて。
それを見て幸せを感じることが心苦しい。
「大丈夫よ、ノア。あなたは幸せになりなさい」
「……ドクター、……ドクターでも」
「シャノンを守って。私からの頼みよ」
頼みだなんて──
トレイシー。……私は幸せになってもいいだろうか。
どうしても、彼女の側にいたいんだ。
彼女は強い人だけど、強い人は傷付かないわけではないから。だから、私では役に立たないかもしれないけれど、側で支えるくらいはできないかな。私はそれだけで幸せなのだけど。
ごめん。たった三年しか経っていないのに。
君が大切だった。守りたかった。それなのに、こうして違う女性を大切にしたいと思ってしまった。
「彼女の笑顔が嬉しかったんだ」
やっと心からの笑顔が増えた。あの笑顔を守りたいんだ。
酷い、酷いとトレイシーの声が聞こえる気がする。それでも、私は……
彼女に恋をしてしまったんだ。