26.従順と依存
「何から話せばいいのか……」
そう、俯いて呟く彼は今、トレイシー様を思っているのだろう。
「トレイシー様はどのような方だったのですか?」
そして、伯爵家ではどんな立ち位置だったのか。
「……あの子は物静かな子だった。あまり自分の意見を言う方ではなかったな。いつも私や母の話を聞きながらそっと微笑んでる、そんな子だった。
読書と刺繍が好きで、あの子に刺してもらったハンカチはとても美しくて、ちょっと自慢だった」
本当だ。ノア先輩の言う通り、全然私とは似ていないのね。
「君はノア・セルヴィッジを知っているよな」
「はい。学園でお二人が一緒にいる所を見かけた事があって覚えておりました。
先日、偶然お会いして。少しだけ学園の話などをしましたの」
……ビックリした。ノア先輩のことを考えてたから。でも、手紙のことは勝手に言わない方がいいわよね。
「そうだったのか。うん、彼はトレイシーの婚約者で、でもどちらかと言うと親友という感じだった」
「そうなのですか?」
「ああ。とても仲が良くて、ノアにだけは少しお喋りになっていた。何でも話してしまうから、私のことも筒抜けだ。
私には何も言わないくせに、昨日お兄様にデザートを食べられてしまった、なんて話したりする。それも、告げ口ではなくて報告なんだ。
ほら、小さい子どもが何でも親に話す、あんな感じだった」
トレイシー様はノア先輩を信頼していたんだ。何でも聞いてくれる、何でも話せる人。
でもそれは、家族には言えない、ということでもあるわ。
「ご兄妹の仲は良かったのですよね?」
「悪くなかったつもりだが、どうかな。いつも私が話して、あの子は笑って聞いているばかりだったから」
好きだけど話せない。いえ、話さないが正解かも。大人しかったトレイシー様は、ご自分の意見は通らないものだと、そう感じていたのではないかしら。
大好きな両親や兄の言うことを聞いて生活することは、彼女にとって当たり前のことで。
普通なら大きくなるに連れ、少しの不満や反発心も出てくるだろうけど、婚約者になったノア先輩が代わりに気持ちを全部聞いてくれるからストレスも感じない。
だから、いつも決められたことを熟しながら、ふんわりと微笑んで生きることができた。
でもそれは、先輩に全てを知られることに全く抵抗がないから成り立つ関係だ。
あの事件で、初めてノア先輩に知られたくないと思ったのでは?
「トレイシーが襲われた話はしたよな」
「……はい」
「それは嘘じゃなくて。でも、言っていないことがある。……あの子は、その時に身篭ってしまった」
分かっていても怯んでしまう。
どれほどの恐怖だろう。罪の証がお腹の中で育っていくだなんて。
まだ17か18の学生だもの。もともと家族に自分の考えを打ち明けるのが苦手だった彼女が話せるわけがない。
私だってまだ家族には話せない。一生、話したくないと思っている。
「病だからと休学と婚約解消の手続きをした。
その時には本当に泣き続けていた。ノアと別れさせるのは可哀想だったが、子持ちで侯爵家に嫁ぐなんてできないだろう? たとえノアが許しても、侯爵は許さない。社交界でも笑いものになってしまう。
泣いて泣いて……。でも、そのうちひとり言が増えた。腹に触れながら大丈夫大丈夫と何度も言っている姿は、見ていてとても辛かった」
……待って。婚約を解消したのは仕方がない。でも、一番の心の拠り所を失った彼女はどうやったら立ち直れたというの?
唯一、彼女の気持ちを聞いてくれていたノア先輩。彼ならば、ゆっくりと時間を掛けて、彼女の苦しみを聞いてくれたかもしれない。
でも、今までずっと彼女の気持ちを聞くという行為をしてこなかった家族にはそんなことは──
いえ、聞きはするだろう。だが、答えられるまで待ってあげられただろうか?
私の混乱を他所に、トレイシー様の話は続いていく。それはノア先輩に聞いた通りの最後だった。
「ひとつだけ、確認してもいいですか?」
「ああ、もちろん」
……嫌だな。本当は聞きたくない。でも、聞かなければ私も先に進めない。
「もしも、その頃すぐに犯人が見付かって、トレイシー様を本当に愛しているのだと謝罪に来たとしたら。そして、その男が貴族だとしたら。ラザフォード家は……貴方はどうしましたか?」
きっと、どんな答えでも正解ではない。
ただ、私が望むものか望まないものか。それが知りたい。
「……ラザフォード家としては、たぶんその男に嫁がせただろうな」
「あなた自身は?」
「真実、その男の子であるならば責任を取るべきだと判断したと思う」
──やっぱりな。
そうね。それが普通の貴族の考えだ。
傷つく私が馬鹿なのだ。
「……今までは、そう思っていた。犯人さえ見つかれば、あの子は死なずに済んだのにと」
死ぬんじゃないかな。心が壊れて。
「だが……宰相閣下が教えてくれた。被害女性が、妻になるのは地獄だと言っていたとな」
ああ、なるほど。情報源は宰相閣下で、彼の慰めになればと思って強姦魔の末路を教えてあげたのか。
流石に被害女性が私だとは伝えていないみたいだけど、ほぼバレてるんじゃないかな。どうかな。
「それを聞いてどう思われましたか?」
「……ひとつ間違えているなら、トレイシーのことを、あといくつ間違えていたのだろうと……」
そう。トレイシー様のことを考えたの。
仕方のないことだ。大切な妹君だもの。
被害者かもしれない私とは比べられないよね。
「私の見解をお伝えする約束でしたね」
「え? ああ」
「これは私の意見であって正解ではありません。なぜなら正解など存在しないからです」
「……うん、それでもいい。聞かせてくれ」
きっと彼を傷つけることになる。それでも伝えたいと思う私は酷い女なのかもしれない。
「たぶん、皆様は早過ぎたのです」
「……は?」
「トレイシー様は、もともとご自分の意見を通す方ではありませんでした。そして、いつも気持ちを聞いてくれる婚約者は失われた。恐怖を吐き出すことも、自分自身で消化することもできなくて。
でも、唯一見つけたのではないでしょうか。代わりとなる拠り所を」
「……まさか」
「お腹の子を守る。それが自身を守ることに繋がったのではないかと私は思います。
お腹を撫でながら話しかける。大丈夫大丈夫、守ってあげるからと。自分が掛けてほしい言葉を必死に伝えていたのでしょう。
彼女に必要だったのは嫁ぎ先などではなく、大丈夫だと、心配しなくていい、必ず守ってあげるからと……、傷ついた彼女の心をいたわってあげる、そういう優しさだったのだと思います」
……本当は、ノア先輩に依存気味だった所からおかしいと思うけど、これはもう言わない。
だって、それを言い出せば、女心に鈍感な男達はまだしも、セイディ様の謎が残ってしまう。
「生意気なことを言って申し訳ありません」
「……いや」
よほどショックだったのか、呆然としたまま視線が合わない。……うん、これは駄目ね。
きっと、心の中はトレイシー様のことでいっぱいなのでしょう。
そして、私なりの解釈を伝えたことで、より一層、トレイシー様と私が結びついてしまったのかもしれません。
「ラザフォード伯爵、お食事ご馳走様でした。お先に帰らせていただきますね」
「あ……、」
呼び方に気が付いたのだろう。でも、最初に変えたのは貴方よ。
「……いや、送れなくてすまない。馬車は使ってくれ。私はここの店主に頼むから」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
「……ああ、気をつけて」
「はい」
軽く会釈をしてから店を出る。外に出ると少し日差しが強い。
「ふふ、やっぱり綺麗な青空ね」
思ったよりも、気持ちは穏やかだった。