20.ある家族の物語1
突然、何かが変わった。
侍……シャノン嬢が倒れたと聞いた。一緒に食事に行く予定が流れた。
それは仕方のない事だ。彼女の体の方が心配だから。
ただ、翌日信じられない噂を聞いた。
彼女を医務室に運んだのがノア・セルヴィッジだと。
あの二人は知り合いだったのか?
確かに、年齢は一つしか変わらず、同じ王宮で働いているのだ。知り合いであってもおかしくはない。
だが、よりによって、なぜあの二人なんだ。
トレイシーの元婚約者。ノアはとても誠実な男だった。妹の結婚相手として申し分なく、二人が幸せになることを楽しみにしていたのに。
事件が起きたのは、彼らが学園を卒業するまであと一年という頃だった。
突然、トレイシーの様子がおかしくなったのだ。
もともとおっとりとして口数が多い方ではなかったが、極端に会話が減り、部屋に閉じこもるようになった。
特に、私や父上に会うのを嫌がり、しばらくは様子を見ていたが、あまりの態度にいい加減話をしようと肩を掴んだら悲鳴を上げられた。
ノアも何度か見舞いに来てくれたが会うことは叶わず、ひと月近くも部屋に引きこもっていた。
それでも、少しずつ態度は軟化し、ときどきではあるが、学園にも通えるようになり。理由はまったく分からなかったが、このまま元の生活に戻れるならばと、私達家族はただ見守るばかりだった。
それからひと月近く経ったころだっただろうか。メイドから信じられない報告があった。
『トレイシーの月の障りが来ていない』
男の私にはよくわからなかったが、多少ずれることはあるらしい。
妹もそのタイプらしく、ひと月のずれは今までもあったそうだ。だから気付くのが遅くなってしまった。
メイドからの報告は、すでに2ヶ月近くも過ぎてからだった。
ひと月も引き篭もり、その後も不安定なトレイシーのことだ。たぶん、精神的なものではないかと思った。いや、違う。皆がそう思いたがった。
だってまさかトレイシーが? あの誠実の塊のようなノアが? とても信じられない。
ようやく落ち着いて来たのに、今、妊娠の疑いをかけて医者を呼ぶのはどうなのだろう。
まずは私がノアにさりげなく話を聞くことにした。
だが、ノアの反応を見るに、妹とは手を繋ぐくらいしかしていないのでは?と、疑いは霧散した。
ノアとトレイシーは政略ありきの婚約だが、二人はとても仲がいい。
だが、男女の親しさというよりも友人としての仲のよさという雰囲気なのだ。まあ、結婚してからゆっくりと変わっていけばいいと思っていた二人は、やはり友情の域を抜けてはいなかった。
では、ただの精神的なものから来るズレか。
それともまさか……
私達は悩み、ようやくトレイシーに話をしたのは、メイドの報告から半月も経ってからだった。
信じられないことに、トレイシーは男に襲われたと言う。
「なぜ今まで黙っていたんだっ!!」
トレイシーの心配と家の体面、今後のことなど。
父もかなり動揺していたのだろう。
だが、怒鳴られたトレイシーはガタガタと震え、泣き出してしまった。
すべてを聞き出すまでに長い時間を要した。
それは信じられない事に学園内で起こったという。
夕方、図書室に寄った帰り。黄昏の中、あの子は空き教室で犯された。固い床の上で、何の優しさも思いやりもなく。ただ、言葉だけは『好きだ』と何度も言っていたらしい。
か弱いトレイシーはろくに抵抗もできなかったようだ。
そのあまりの恐怖のせいなのだろう。トレイシーは相手の顔が分からないと言うのだ。自分にのしかかる男の顔は真っ黒で、ただただ悍ましく醜悪なモノであったと。
このままでは、ただの不貞での妊娠になってしまう。父は焦っていた。何せ相手がいないのだ。
せめて相手がいればその男に責任を取って娶らせることもできたが、それも叶わない。
純潔を奪われ、誰の子かも分からない赤子を身篭った女では、このまま婚約続行もできない。
悩んだ末に、トレイシーは病のために休学。婚約も解消することになった。
ノアはかなり反対した。こんな時こそ将来の伴侶に寄り添うべきだと。
何とありがたい言葉なのか。
だが、腹にはすでに赤子が育っているのだ。会わせるわけにはいかなかった。
トレイシーは信頼できる使用人を付けて、別荘に隔離された。病気療養の名目で。
今後どうするか。皆が頭を悩ませていた。だが、信じられないことに、トレイシーは子供を自分で育てたいと言い出したのだ。
何を馬鹿なことを。赤子は玩具ではない。ままごと遊びではないのに。
相手の分からぬ、自分を不幸にした象徴である子どもを愛せるというのか? ありえないだろう!
それに、不義の子を抱えた女を誰が娶ってくれると言うんだ。それともお前が一人で育てられるとでも? その金はどこから出る。伯爵家か? 家名に泥を塗り、さらに迷惑を掛け続けるのかっ!!
先の見えない不安に父も苦しんでいたのだ。
それがトレイシーの夢見がちな言葉で爆発してしまったのだろう。
何とか宥めようとするも、父の言葉は止まらなかった。
子供は産まれたらすぐに養子に出す。お前も体が戻ったら結婚させる。子供が生まれない家の第二夫人なら喜ばれるだろう。お前は身篭ることが出来ると証明済みなのだから。
そんな言葉をトレイシーにぶつけた。
妹はただ静かに涙を流していた。そのお腹は少し膨らんでいた。
私は、トレイシーに何と声を掛ければいいか分からなかった。
そんなことはさせないから安心して産めばいい?
だが、そんな未来は来ない。父の言っていることは真実だ。
今のトレイシーは火遊びに失敗して子を身篭った身持ちの悪い女と噂されてもおかしくない状態なのだ。
私だってお腹の子を本当に愛せるだなんて信じることができなかった。
それに、こんなことが世間に知れたらトレイシーだけでなく、伯爵家まで笑いものになり、陰口を叩かれることになるだろう。
だから、諦めろとしか言えなかった。たとえ後妻でも、また、子どもができればきっと幸せになれるからと思うしかなかった。
それから三日後、トレイシーは赤子と共に天の国に旅立ってしまった。