18.最後の手紙
ぼろぼろと泣き出した私に、セルヴィッジ様はそっとハンカチをテーブルに置いた。
「どうぞ使ってください」
慌てて部屋を出てきたため、ハンカチ一つ持っていない駄目令嬢だ。これで王太子殿下の専属侍女だなんて恥ずかし過ぎる。
「……ありがとうございます」
ハンカチからはやっぱり仄かに香水の香りがする。何となく落ち着いた。
「どうする? もう止めてもいいのよ」
「……いえ。続きをお願いしてもいいですか?」
ここまできたら最後まで聞いてしまいたい。トレイシー様からの手紙も気になるし。
「私は学生の頃、伯爵のことが嫌いではありませんでした。トレイシーとも仲が良かったですし、頼りになる方だと思っていました」
それなら今と変わらないと思う。それなのに何が駄目になったの?
「トレイシーが病気になったと伝えに来た時も、とても苦しげで……よほど重い病なのだと思いました。
それでも私は待つつもりでした。だって誓いの言葉にあるじゃないですか。病める時も健やかなる時もって。それなら婚約者に対しても同じでしょう? でも、私が待っていることが心の負担になるからと言われて……。そこまで言われてはどうすることもできず、結局私は婚約を諦めたのです」
何か……何かおかしくないだろうか。
ここまで思ってくれる婚約者だったのに、どうして嘘を吐いてまで別れさせたの?
「手紙を読んでようやく分かりました。……トレイシーは身篭ったのです」
何てこと……。それが婚約解消の理由なのね?
「手紙には、子どもは生まれたらどこかへ養子に出され、自分は子が生まれない家の第二夫人になることが決まったと書かれていました。そして、それが耐えられないと……」
「では、自殺の原因は──」
「自分も、これから生まれてくる赤ちゃんも、まるで道具のように扱われることに耐えられないからと。赤ちゃんは自分が連れて行くからと書かれていました」
……それは、何と言えばいいのだろう。
正しくはない。その子の人生を母親だからと勝手に決めつけて殺してしまうなんて絶対に正しくはない。
それでも……。そこまで追い詰められてしまったことが悲しい。
あなたが羨ましいだなんて思って、本当にごめんなさい。辛かったに決まっているのに。死にたくなる程苦しかったのに。
ラザフォード家の判断は、貴族としては正しいと言いたくはないけれど、家を守るためにそうする場合があることを知っている。
でも、ユージーン様が? セイディ様がそんなことを?
……いえ、その頃はまだお父君が爵位を持っていて、ユージーン様達は逆らえなかったのかもしれない。
「こんな話をして申し訳ありません。何度も悩んで、あなたのもとに向かおうとして、でも引き返して。
だからあの時も偶然……」
ああ、だから。私達が出会ったのは、偶然だけど偶然ではなかったのね。
「今では誰が悪いという話ではないと思っています」
「……はい」
「それでも、それらをすべて隠して普通に仲間と笑っている彼を見て……どうして、と」
ずっと蚊帳の外で、すべてを知った時には彼女は儚くなっていて。誰にも話せずに苦しんでいたころにユージーン様を見つけてしまったの?
「笑っている人が皆、本当に幸せとは限りません。彼も心の中では後悔しているのかもしれない。苦しんでいるのかもしれない。
……でも……彼は私を見て笑ったのです。まるで、彼女が生きている頃のように嬉しそうに。
それが……どうしても、耐えられなかった」
それまで耐えてきたものが一気に噴き出すことは私も体験した。とても辛いよね。
「なぜ、私に?」
「あなたは女性ですから。今はユージーン様が伯爵を継がれましたが、先代はまだご健在です。
あの時の判断は誰が決め、誰が賛同したのかは分かりません。ですが、あの家で女性の地位は低い。傷ついた娘より、家の体面を一番に考え、家のためなら娘を切り捨てることのできる家だったと、知っておくことは大事かと思いました」
本当にむずかしい問題ね。自死を選んだということは、トレイシー様の気持ちは無視されてしまったということだけは確かなのだろう。
でも、家のことを一番に考える貴族家は多いと思う。それでもこうして忠告してくれるということは、まだ、話せていない何かがあるのかもしれない。
でも、どうして見ず知らずの私を心配してくれるの? まさか、あなたも私のことに気づいた? それとも、また、トレイシー様の身代わりなのだろうか。
「……私とトレイシー様は似ていますか?」
たぶん、私が男性を苦手と感じていることに気づいてる。トレイシー様と同じだと思っているのかもしれない。
「いえ、まったく似ていないと思います」
「え……」
「え? 誰かに似ていると言われましたか?」
「いえ、ただ……」
強姦されたことが同じだから。
「ふわっとしたトレイシーと違って、あなたはとても落ち着いていて、しっかりと芯のある女性だと思います。
あなたは学生のころから優秀だったので、私の学年でもたまに噂されていたんですよ」
知らなかった。私にそんなモテ期があったの?
「その若さで王太子殿下の侍女に抜擢されるなんて素晴らしいことです。でも、偉ぶることのない、気さくな方だとも聞きました。
……すみません、決して付き纏いではありませんから!」
「大丈夫ですよ」
学園での話は気にはなりますが。
「ただ、凄くしっかりしていると、辛いことがあった時に、我慢して我慢して我慢して、いつかポッキリと折れてしまわないか心配でした」
この方は本当に私を心配してくれているのだ。誰の身代わりでもなく、私自身を。
「……色々と気にかけてくださりありがとうございます」
「いえ。余計なことをしたのに怒らないでくださり、こちらこそ感謝します」
お互いにお礼を言い合い、何となくおかしくて笑ってしまった。
「これでおしまい?」
「はい。先生、お付き合いくださりありがとうございました」
「美味しいシャンパンを所望する」
「分かりました。よいのを持って来ましょう」
無料ではなかったのですね、ヒルダ様。
「で? 夜会はどうしようか」
「……そうですね。一度、殿下に相談してみます。これくらいの会話なら平気ですが、夜会ですものね」
「それがいいわね。パートナーは?」
「あ」
「もしかして伯爵なの」
「…………はい」
これは、すぐにでも彼と話をしろと言うことかしら。でも、家の事情に踏み込むのもどうなのか。
別に本当に婚約するわけではないし。でも、ヒルダ様達は知らないわけで。
「……本当にここでの話は秘密厳守なのですよね?」
「もちろんよ」「私も口は固いです」
「実は、伯爵との噂は嘘なのです」
「えっ!?」
「ちょっと高位貴族の方に付き纏われていて、その人避けのために伯爵が偽りの噂を流してくださいました」
そこまで言うと、セルヴィッジ様が真っ青になってしまった。
「……私は何ということを……」
そうですね。伯爵家に嫁ぐと思って心配してトップシークレットを教えてくれたのに。
「私もここでのお話は絶対に秘密にしますから!」
「はい……、よろしくお願いいたします……」
ああ、萎れている。どうしよう。
「あの、私はこうしてお話ができて嬉しかったんです」
「ですが、」
「見ず知らずの私のために、こんなにも心配してくれる人がいるって、あたたかな気持ちになりました。本当にありがとうございます」
これは彼への慰めではなくて、本当の気持ちだ。グラグラしていた自分の気持ちが、彼の優しさのおかげでしっかりと固まった気がする。
「少し落ち込んでいたんです。でも浮上できました」
「……それなら良かったです」
私は、ゴミ屑がどこまでも私を身代わりにしようとすることに耐えられなかったのかもしれない。
グローリア様の代わりに、あの夜の見知らぬ令嬢の代わりに。あの男は本当の私なんか欠片も見ていない。
「いいわね。そうやって自分の気持ちを正直に話すことは、考えを整理するためにもとてもいいことよ。
少しずつでいい。ゆっくりと吐き出して、心の中を整理していきましょうね」
「整理……、ですか」
「そうよ? ぐちゃぐちゃに突っ込んで蓋をしても駄目。それではいつまでも残ってしまうでしょう。
大変かもしれないけれど、少しずつ片付けて、不用品はきちんと処分しなきゃね。侍女様はお片付けが得意でしょう?」
そうか。無理矢理忘れるんじゃなくて、整理して処分するのか。
「……できるでしょうか」
「できるわよ。そこに、ちゃんとできた子がいるじゃない?」
「子って年ではありませんよ」
そうなのね。あなたはもう、乗り越えたのね。
「師匠と先輩とお呼びしたい」
「師匠は嫌よ、可愛くないじゃない」
「先輩……新鮮かもしれません。では、ノア先輩でお願いします」
「ノア、変態臭いよ」
「あはははっ」
久しぶりに思いっきり笑う事ができた。