籠絡楽々我爱你
「最っ低……! 女の子だと思ってたのに……!」
「ごめんねぇ、でもさー、‘‘こっち‘‘の姿のほうが気を許してくれると思ったんだよネ♡」
貼り付けたような笑みを浮かべ、ものすごい力で私を寝台に縫い留める桃花ちゃん――いや、素性の知れぬ目の前の男とは、3か月ほど前にネットの海で知り合った。
サイト上で何度か簡単なやり取りを続けていくうちに、ふたりしてシャネルの新作バッグがどうだの、来年のミラノコレクションがどうだのと、なんとなくファッションやコスメの趣味が似通っていることが分かり、リアルでも会ってみませんかとなったのが運の尽きだった。あれは、よくなかった。
つい先ほども、2人でのんきに、横浜中華街をおそろいのチャイナドレスで練り歩いてきたばかりだったというのに。
実際、初めて生で見る桃花ちゃんは、煮詰められた砂糖でコーティングされたお菓子みたいに完璧な甘さを内包していたように思う。彼女の唇から紡がれるちょっとカタコトっぽい日本語でさえも、彼女の魅力を最大限に引き出す演出のような……さらに怖いのが、桃花ちゃんはただ可愛いだけじゃないのだ。色も白くほっそりした指先からは、独特の妖しさというか、色気までもが伝わってきて。桃花ちゃんに対して私はどこか、恍惚としたような感情を抱かざるを得なかった。
「でも驚いたヨ。今まで蝶よ花よと大事に大事に育てられてきて、警戒心が強ぉくなってるはずのお姫様が、あんなにあっさり我を招待してくれるとはネ~」
……悔しいけど、彼の言うとおりだ。同性だからと言って(実際は男だったけど)、初対面の人間を気軽に家に上げるべきではなかったのだ。私は「蝶野製薬の令嬢」としてあるまじき失態をしてしまったことに猛省する。私はただ、ベッドの上でみじめに男を睨むことしかできなかった。
「あはは、こわ~い。これからも桃花チャンって呼んでいいんだヨ☆」
ここぞとばかりに、わざとらしく言ってのける彼が、背中あたりまでの髪を一つに束ねただけで、一気にチャイニーズマフィアのそれに見えてしまうんだから恐ろしい。
「……このっ、無礼者…………! こんな手荒なことして、許されるとでも思っ…………ふあ、ぁっ」
続く言葉を制するかのように、変なところを甘噛みされて、情けない声が漏れ出てしまう。
男はどこか嬉しそうに、私を小馬鹿にしたように、耳のそばで低くささやいた。「そんなにハニートラップが嫌なら……」と。
「別に拷問でも良かったんだヨ? なんならそっちの方が得意だしねー、我♡」
「……いくら、ほしいの」
「んー? 我はただ、姫様のお父上が作ってるって噂のクスリについて知りたいだけ。だからさあ、キミがあんまりゴネてるとー、ほんとに逝かせちゃうカモ!」
どこに隠し持っていたというのか、ナタのように大きな武器をちらつかせてくる桃花に内心呆れつつ、私はふいっと目線をそらした。
「父様とは、もう何年も口をきいてないわよ」
吐き捨てるみたいに言う私に、桃花の瞳孔はゆっくりと開いてゆく。
観察されている、と思った。
「あの人の考えることなんて、娘の私にわかるはずがないわ」
「そうだったんだ……ああ、可哀想な姫様……」
同情でもするかのような口ぶりで、私の頬をやさしく撫でる桃花の声音には、どこまでも感情がなかった。
私はため息をつきながら、ベッドから身を起こした。目の前の男がメロドラマなんて高尚なものに興味を示さないことくらい、とっくに知っている。
「……あの薬の作り方が知りたいなら、私に着いてくれば?」
ほんの一瞬、桃花の眉がピクリと動いた気がした。
「およよ、いいのー? 姫様的になんの旨味もなくない?」
「もちろん、ただとは言わない。あとで取引をしましょう」
「――無問題!」
元気な声が即答する。その顔には、馬鹿な小娘で良かった、と書かれているようだった。
父の書斎の本棚は、かび臭い地下室へとつながっている。私は7歳のころにこの忍者屋敷のような仕掛けに気づくことができたけれど、そのことをいくら父に自慢しようとしても、うるさいと言って追い出されておしまいだった。少しだけ、ほろ苦い思い出に胸がちくりと痛んだような気がしたが、すべてはあの狸親父が招いた結果なのだ。自業自得といえば自業自得だろう。そもそも、金に目がくらんであんな麻薬まがいの薬を作ってしまう時点で――いや、いまさら考えても仕方のないことはよそう。
背後をちらりと見やる。桃花はさっきから、気持ち悪いくらいに上機嫌だ。
「実の娘にも裏切られちゃうなんて、キミのお父上は愚かだネー」
私の思考を読み取るようにして、鼻歌まじりで桃花は言った。私はあえて、何も答えずに地下への階段を突き進んでいった。
*
お目当ての薬の成分表を桃花に渡したところで、肩からどっと力が抜けていったような気がした。これで、蝶野製薬の企業秘密と悪事は、大々的に知れ渡ることになるだろう。そうなれば、私もこれまでの生活を普段通りに送ることは難しくなるはずだ。
素直に、やっと終わるんだ、と思った。やっと私は、しがらみから解放される。その場にへたり込む私を一瞥して、桃花は薄く笑った。
「協力してくれてありがとー、姫様。これで我も、安心して本国に帰れそうだヨ」
桃花はずずいと、私に迫る。やわらかい毛先が、額をくすぐる。
「それでぇ、対価って結局なんなの? あ♡ もしかして姫様、さっきの続きがご所望だったり~?」
「……れてって」
腰をかがめて、私に耳が近づけられた。
「連れてって。私を、あなたの国に」
私の切実な声がよっぽど予想外だったのか、桃花は大きく体を反らせた。
「どうせもう、日本にはいられなくなってしまうだろうから――いたいけな少女に、実の父親を裏切るよう仕向けた責任。桃花ならきっと取ってくれるわね?」
桃花は相変わらず、真意のまるで見えない綺麗な顔を保ちながらも、考えるようなそぶりを見せた。
「我の生きる世界で一番安いのは、キミみたいな娘の命なんだヨ? それでも、虎たちの尾を踏まないって約束できるの?」
「も、もーまんたい……! 危なくなった時は、あなたが私を守ってちょうだい。お代はその都度、ちゃんと支払うようにするわ」
私、こう見えてお金だけは人一倍持ってるのよ――! と、あまりの私の必死さに、桃花も折れるしかなかったのか、お腹を抑えるほど豪快に彼は笑った。唇の隙間からちらりと、八重歯がのぞいていた。
「あははっ、やっぱりキミってサイコー! ……いいよ姫様。覚悟ができたなら、一緒においで?」
今まで聞いたこともないような、やけに甘ったるい声が耳に心地よくて。私は、エスコートするみたいに差し出された右手を、おずおずと取る。
この、桃花というひとりのスパイに対する――恋なのか焦燥感なのか、それともただの好奇心によるものなのか、今はまだよく分からない胸の高鳴りを、私はこれからたしかめにいこうと思う。危険な旅路になることを、覚悟のうえで。