5. 霧のアーケード
肩で息する彼女の眉根には、まだ不安の色が残っていた。
それでも精いっぱいの微笑みで返してくれている。
ならば当然ながらそれに対して、できる限り力強く応えなくてはだ。
「あと少しだ! 頑張ろうな!」
「うん、吾朗くん」
俺の名を呼び応える唇が、やけに紅かった。
笑うと口角がキュッと上がる可愛い唇が、今はゆるく閉じられて、顎にかかる唇の小さな影がその赤を一層際立たせている。
しっとりと濡れたその紅色を見つめていると、吸い寄せられてしまいそうになった。
「イヤイヤイヤ……ダメだって」
思わず声に出してつぶやいてしまった。
「何が……ダメなの?」
心配そうに彼女が覗き込む。
まさか吸い寄せられて、キスしたくなったなんて、言えるわけがないだろう。
いや、もしそう言ったなら、彼女からしてくれるとか……あるかも知れない?
でも、やはり彼女を怒らせてしまうかもだし……。
イヤイヤイヤ、ダイジョブだ、彼女は怒るまい。
実際キスできないまでも、はにかんで俯くみたいな、とっても可愛い姿が見られるに違いない。
うん、それは間違いない。
そんな美味しいシチュエーション、逃す手はないじゃないか。
行け、チャンスだ俺!
「あ、あの……さ」
「なぁに?」
「キ……キ……キッ……キツネって、稲荷神社のお使いなんだよな」
ダメだ!! 俺はどうにもならんポンコツだ!!……まあ、知ってたけどな。
「この鳥居がずらーって並んでるの、稲荷神社の特徴だよな」
「そうね。宇迦之御魂神の神使が白いキツネなの。良くキツネが神様として祀られてるって勘違いする人が居るみたいだけど……あ、でも白狐を祀る稲荷神社もあるんだった」
「へえ、そうなんだ」
「それに神仏混淆の名残で、宇迦之御魂神の代わりに茶吉尼天を祀る稲荷神社もあるわね」
妙に神様系詳しいじゃないか。
これは適当なネット知識では太刀打ちできんと思う。
「さあ、吾朗くん、商店街から出なくちゃ。私を助けてくれるんでしょ?」
「そうだった。もう遅いし、急いだ方がいいな」
「うん、あの娘が戻らない内に、早くしよ」
「あのこ?」
「そう、急いで。キレたら何するか分からないから。ヤドゥルちゃんが足止めしてくれてるうちに、早く」
一瞬表情に陰がよぎるが、すぐに笑顔に戻って俺の手を取り、寄り添うように体をピッタリくっつけてきた。
その柔らかな感触にクラクラする。
このままこうしてずっと、二人きりの時を過ごしたい。
だがしかし、俺には彼女を商店街から救出するという、最優先の使命があるのだった。
心の中で小さく舌打ちして、歩きだした。
それに邪魔者の「あの娘」とやらも居るらしい。
そして味方らしい「ヤドゥル」ってのも気になる。
あれ? なんだ、誰もいないってこと無いじゃないか。
あの娘とヤドゥルがいるって、設定に矛盾があるぞ。
でもまあ、細かいことは気にせずいこう。
しかし妙なことに、鳥居を抜けたのに何故か足取りは重かった。
高円寺のアーケードはそう長くはない。
ここからなら一分も行けばすぐ出口なのに、なかなか着かないのだ。
空気がねっとりとして、彼女を引く手にまでまとわりつくようだ。
重くのしかかるような感触は、連なる注連縄の圧迫感を思い出させた。
無人の街に霧は深く静かに立ちこめていて、見慣れた街を異界へと変貌させる。
それでもやっと駅に面した商店街の、ゲートの辺りまでやって来た――と思う。
目の前にはJR中央線の高架線が走っているはずだ……。
だけども見えないのだ。
あまりに霧が濃く、辺りはぼうっとして色も形も不確かになり、鈍く淡く光るばかりだった。
一抹の不安が頭をもたげてくる。
それを打ち消そうと、彼女に声を掛けた。
「ほら、もうすぐだよ……○○」
あれ?
おかしい、彼女の名前は――……。
何で彼女の名前が、すぐに出て来ないんだ!?
それに何だって………何だってこんなにも霧が深いんだ?
何もかも、何もかもが、おかしいじゃないか。
それに俺は―――
「……――くん、離さないでって――、言ったのに………」
俺の手は彼女を握っていなかった。
「!!」
霧の中に消えゆく彼女の影を追って、何ごとか叫んで駆け出したとき、ガクンッ!
思いっ切り首が前に垂れた。
第7章は、短いですが、以上になります。
第8章、8/1公開!




