2. 存在――主観から客観へ
自分以外に何もないのがダメなんだ。
ほかに存在するものはないかと思い、目を凝らした。
しかし、視界が悪く何も見えない。これは白い闇なのだ。
「目だけに頼ってはだめだ。何か感じろ! 心で感じるんだ!」
俺は自分に言い聞かせ「――何か在れ――」という願い、思念のようなものを空間に投射してみた。
するとそれは光となって、辺りを照らし出すのだった。
無に限りなく近い世界に、かすかに形象が現れた。
ぼやけた視界の中に揺れているのは、何かひらひらとした動きの……艶めかしい……魚のようなもの……
いや、あれはそうではなく、白い――手なのだろうか……?
腕をどこまでも伸ばし、伸ばし、その手を取ろうとする。
だけれど、なぜか一向に触れることすらできない。
見た目より、距離が遠いのか?
そう思うと、ずっとはるか遠くにも見える。
眼の前にあると思うと、手のシワまで見える。
だが、伸ばす手が届かない。
ならば近づこうとして足掻くと、まるで水中のように、蹴る足の力が伝わらない。
体が思った方向に動かず、緩やかに流されていくようだ。
白い手が行ってしまう。
「ダメだ! 追え、追うんだ!」
もたつく体にいらいらして、思い切って体を振ってみる。
水中だったら走るより進むだろう。
すると不思議と進んでいる手応えを感じて、もっと振ってみる。
バタバタとバタフライの要領で、スピードが上がる。
「いいぞ、頑張れ! もう少しで追いつきそうだ!」
振りはだんだん激しくなり、ビクビクビクととまるで痙攣の発作のようになる。
そしてついには狂ったようになって、自分でも止められない。
ギチギチギチと関節が、背骨が、筋肉が、とんでもない負荷に悲鳴を上げる。
喉も張り裂けんばかりに叫ぶ。
だけども、叫びが、喉からの叫びが耳に届かない。
体がふたつに引き裂かれるような苦しみが、暴走する振幅運動とともに延々と続いていく。
俺自身の存在が、ふたたび苦痛そのものと化した。
全身を貫く激痛が時空と等価になったとき、ふっと何もかもが軽くなった。
そうしてようやく俺は、体の自由を取り戻し、苦痛からも解放されたのだった。
足元にはもう一人の自分が横たわっていた。
本当に俺の体は、ふたつに引き裂かれたってことか?
これは死せる自分の肉体だろうか?
俺は死せる霊なのか?
死んだゆえに苦痛から解放されたのか?
そして、ここはどこだ?
今度は昏かった。
漠とした夜の闇の中のようだ。
やっと目が慣れてくると、周囲には霞のかかった空間が広がっているようだった。
いつの間にか俺は、奇妙にも重みのある霧の中を、手で掻き分けるようにしてひたすら前に、どこかに向かって進んでいた。
どれだけ長い時間そうしていただろう……時間の感覚が麻痺している。
それに致命的なほどに、記憶が欠落していた。
自分は誰なのか、それすら良く思い出せなくなっていた。
何でここにいるのだろうか?
曖昧模糊とした過去の記憶を探ろうとしていると、突然霧の中に一迅の風が巻き起こり、芳しい果実のような香りを運んできた。
ふと見ると、波打つ艷やかなもの――黒髪のように見えるとても長いもの――が、ゆらりゆらりと、濃灰色の霧中にたゆたうのが見えた。
どこに流れて行くのか?
手を伸ばしたが、またしても届かない。
距離感がつかめないのだ。
さっきもそうだった。
近くに見えても、あれはまだ遠くにあるようだ。
おぼつかない足取りで、その後を追った。
やがて少し明るくなった霧の中に、ひとつの人影が見えてきた。
それは陽炎のようにゆらめいていたが、確かに美しい少女の姿だった……。
彼女が驚いたように振り返ると、長い黒髪が秋の綿津海のように踊り、深海色のスカ―トのひだが波のように翻った。
その中から二本の白いものが、ぬるりと生えて揺れている。
白魚の指を生やした手首が、ハタハタと揺れて、手招いているように見える。
あれはきっと、最初に見た白い手なのだろう。
紺色の布が花開くように閃く。
一点目立つ赤色が輪舞しながら遠ざかり、グレーの闇に紛れようとしている。
赤い光跡を描くそれは――きっとスカーフだろう。
その残像が、鮮烈に目に焼き付く。
俺は慌ててその影を追いかけた。
知っている――――彼女のことは。
ずっと前から知っている……。
だけど、ちゃんと思い出せない。
頭がモヤモヤしていて、もどかしい。
懸命に腕を振り、脚を振り上げる。
気がつくと両足が、硬い地面を踏みしめていた。




