15. 片腕の隔たり
行かないで……
この言葉が何を意味するのか、たぶん俺は心のどこかで理解していた。
だがしかし、自分がその思いを受け止めることはできないのも、分かっているのだ。
「ダイジョブだって……任せてくれればいい」
俺ははぐらかして、あえて軽く応えるしかない。
黒衣が――烏羽の濡れたような光沢が揺れる。
不誠実な答えに、白い肩が震えたからだ。
足元をさまよう視線は、最後の躊躇いをなぞる――。
「行かないで……」
強力に呪文を重ねがけした彼女は、俺を追い詰める。
俺は自分を偽り、彼女の思いを理解していない振りを押し通した。
「君を疑った訳じゃないが、見張りのシンを配置しておいた」
「慎重……なのね」
「外からの干渉を警戒してね」
「……それ…で?」
「隠形はさせているが、中立を宣言してる歌舞伎城で、シンの召喚がバレるのはまずい。そろそろ行って回収しないとだ」
逃げ道を探しながら並べる言葉は、自分でも陳腐な言い訳にしか聞こえない。
「鍵は……」
「任せてくれ。鍵も匣も、俺が探しだすよ。約束する」
匣とそれを開ける鍵。
それさえあれば、彼女に掛けられた封印が解かれるのだ。
絶対に見つけてだしてやりたい。
「そう――じゃないの」
顔を上げたアヤの潤んだ瞳は、まっすぐにこちらを見据えている。
「そうじゃないって?」
「違うっ! 違うの……だって、それは、もうここにあるの、だから……」
「ここに? あるって?」
どういうことだ? 俺はなにか途方もない勘違いをしていたってことか?
ここにあるなら、すぐに悪魔どもを封印すればいい話だ。
「………」
唇だけが動いたように見えた。たぶん俺の名を呼んだのだろう。
髪飾りが揺れると吸気珠の光の粒がキラキラと踊り、ふたりの距離が不意に縮まった。
黒髪が肩の上でふわりともとに戻る。
蝋細工の透明な肌が上気して、ほんのり桜色に染まる。
深い柘榴の瞳は期待に大きく見開かれ、儚げな桜色の間からきれいな白い歯がのぞいている。
息を呑むようなその姿。
そのすべてが……繊細な顎の作る陰の下で、熱く息づく双の膨らみまでもが……今、何かを求めて声にならない叫びを上げている。
この世界で感情を隠すのは難しい。
なぜなら視る力をもった目には、情念がアストラル体のゆらぎとして人の背後に現れるからだ。
しかもその色は、まさに心模様を映し出す。
彼女のアストラルの炎が、抑えきれぬ内奥の熱量に煽られて、妖しく揺らめいた。
炎は淡い緋色に色づき、引き寄せられた精霊虫たちの火までもが桃色に染められた。
二人に残された片腕の長さの隔たりを越えてしまえば、すべてが終わり――そして始まるのかも知れない。
それは単なる色恋沙汰の話には終わらないはずだ。
彼女にとっては、たしかな裏切りの証になるのだろう。
俺にとっては太い絆を断つこと――これまで導かれ、そして目覚め、あの人と共に切り拓いてきた道から外れることを意味するのだ。
その道を歩むことは、重責であると同時に大いなる喜びだった。
だから、俺がそれを棄てる選択肢を選ぶことは決して無い――それがこの少女を救う唯一の手段だったとしてもだ。
今まで重ねてきた時を、絆を、今投げ打つわけにはいかない。
あの人の想いと、二人の約束のためにも……。




