9. 五次元研究所
― 前回のあらすじ ―
雑踏の中で国津神の第四使徒荒渡大地を見つけるが
彼には使徒の記憶が失われていた
その後中野ブロードウェイの探索で、商店街が活性化しているのを確認
そして四階の邪教儀式のあった部屋の前に立つ睦樹
ふつうの住宅っぽいデコラティブな扉は、以前と変わっていない。
俺は扉の前に立って、心を落ち着かせようとする。
しかし、あの陰鬱な音楽と異常な臭気を、ありありと思い出してしまうのだった。
狂気渦巻く邪教の儀式、そのヤバい祭壇が、この扉の向こうにあった。
ドン、ドン、ドン、ドン、ドン・・・・低音で刻まれる濁ったリズム、調子っぱずれの詠唱。
生贄にされた美しい女性――その全裸の肌の上に、大輪の花のように広がった血潮と肉。
そして、奴らの狂気が感染したかのように、俺は血を求めて殺しまくった。
槍が肉を貫き、ザク、ザク、ザクと、リズムが刻まれる。
血の海となった床に累々と、インスマス人たちの醜い裸の骸が横たわる。
魚介の腐ったような悪臭と、むせ返る血臭で、さながらの地獄絵図。
俺は今、その情景の只中に立っている。
口の中がカラカラになり、どっと汗が吹き出す。
自分のイメージの喚起力に、頬を歪ませ苦笑する。
(落ち着け、もう終わったんだ。きっともう中には何もない。誰も死んでなんかいない)
(そう、大丈夫だよ、睦樹君)
深呼吸をして心を落ち着かせる。
すると、さっきまで目にも入らなかった看板を見つけた。
それには、突拍子もない文言が記されていた。
[フルムーン五次元研究所]
(あ、あまりに怪しすぎる)
(うん、でも前はこの看板無かったから、中が変わったんだよ)
(そうだな……さあ、扉の向こうを確かめなくちゃ)
ちょっと待て、運命の扉を開くその前に、俺にはどうしてもやらなくちゃならないことがある。
スマホで撮影し、TReEにUPした。
[過浪レフター:
フルムーン五次元研究所@中野ブロードウェイ4階。一体中で何が起きてるんだ?]
好奇心が猫を殺すという。
九つの命を持っている猫さえ殺せるんだから、好奇心の奴どんだけキラーなんだ。※1)
現世時間では約二時間前、確かにそれで俺は殺されかけたんだが。
(今の俺は猫じゃニャイぞ)
語尾が変でも猫じゃない。そう自分に言い聞かせ、思い切ってカメラ付きインターフォンのボタンを押した。
シャンシャンシャン!
と鈴を鳴らすような音がする。
これがチャイムの音なのか?
「はい、ご予約の方ですか?」
女性の声が小さなスピーカーから流れる。
意外と音質がイイ。
「い、いいえ、ちょ、ちょっと、その、看板がぁ! ……気になったもので……」
「分かりました、少々お待ちください」
ダメだ、相手が女性だとインターフォン越しでさえコレか。
落ち着け国津神第三使徒。
呼吸を整えるんだ。
スハー……そう、使徒の呼吸、壱の型……鎮魂。
スハースハーしている内に、扉が開いた。
「いらっしゃいませ。ようこそフルムーン五次元研究所へ」
そこに立っていたのは、とんでも看板からは予想外の女性だった。
シックなワンピースの上に、黒のカーディガンを羽織った眼鏡の落ち着いた感じの優しげな印象だ。
変な訪問に嫌がる風もなく、明るい笑顔で対応してくれた。
「確かに、気になりますよね、この看板。うちは云ってみれば、探偵事務所のようなものなんですが、捜査方法がちょっと変わっていて、こんな名前にしてるんですよ」
「あ、はい……」
どんな捜査方法だ!
という内心の激しい突っ込み衝動を抑える。
いやむしろ突っ込み待ちなのか?
ああ、今突っ込めば俺のこのコミュ障の壁を打ち壊せる気がする。
ええい、進めムッキー!!
「五次元の力で捜査ってどんな……です?」
やった、言えた、すごいぞムッキー!
(君はやればできる子だよ)
(そう言ってくれるのは俺自身である君だけだよ……)
ほら、自分の中の別人格との対話なんて、こんがらがるだけじゃないか。
(そんなことないよ)
(とにかく今は君との対話より、眼の前の人だ)
「言葉で説明するとややこしいんですが……よろしいですか?」
「はい」
「では、ここで立ち話もなんですから、どうぞ中にお入りになってください」
「あ、その前に聞いていいですか?」
「どうぞ、構いませんよ」
「紺色のローブの変な人とか見ませんでしたか?」
「え? ローブって、バスローブですか?」
「イヤイヤイヤ、お風呂のじゃなくって………」
「修道士が着てるようなやつ……ですかね?」
「ああ、そんなので、頭が尖ったやつを着た怪しい人とか、出入りはないですよね? この界隈でも」
「それは魔術結社か何かのコスチュームでしょうか。そんな方は去年のハロウィンでも見たこと無いですし、この建物にもそうした組織は入ってませんよ。魔術グッズや書籍を扱ってる店はありますけど」
「ははははは、そ、そうですよねー、そんな変なヤツら、そうそう居ないですよね」
我ながら奇妙過ぎる質問だ。
だがしかし、そう、これも揺さぶりなのだ。
万が一、彼女が隠れクトゥルー信者だったとしたらどうだろう? 正直に答えるはずはあるまい。それでも揺さぶりによって、表情や言葉に何か変化がおきるはずだ。
俺はじっくりと観察した。
その結果………ぜんぜん分からんかった。
彼女はクトゥルー信者じゃないか、俺に探偵の素質がまるでないかだ。
榊 馨楽
(この人、あの生贄の人だよ)
(え? マジか?)
俺という意識より、アニマである無意識の方が覚えているってことか?
そう、アストランティアは俺が忘れてしまっていることを、よく知っているのだった。
確かにあのときは眼鏡をしていなかったし、全裸だった……その映像を思い出して彼女に重ねてしまい、俺は急に恥ずかしくなって俯いてしまった。
「? どうかされました?」
「いや……す、済みません……ダイジョブです」
(匂いもしないし、ここはあの教団じゃないよ)
そう、あの独特の磯っぽい腐敗臭はしなかったし、魔術儀式の香も血の臭いも無く、看板の怪しさ以外は何もかも正常だ。
ここに死体がゴロゴロしているってことは、どうやら無さそうだ。
これで俺が大量殺人の容疑者になることもない。
いや、ぶっちゃけ犯人だったか。
今まで生贄にされていた人たちも、殺されなかったことになった。
邪神教団自体がここに存在しないのだから、この先の未来に殺されたであろう人も救われる。
よしっ、世界改変大成功だ!!
そして眼の前にいるこの人を、俺が助けたってことになるんだろう。
彼女には助けられたなんて自覚はまったくない。
これは俺と限られた使徒たちだけが知ってる隠された真実だ。
使徒がどんなに命を張って戦おうが、現世の人はそれを知る由もない。
人知れず戦い、世界を改変し、人々を救う。
これって、厨二心を超くすぐる設定じゃないか。
今後も勝ってみんなの役に立てるか分からないけど、俺は使徒になって良かったと、初めて心から思った。
そんな熱い思いを秘めた俺は、するすると室内に通され、大きな執務机の前に置かれたモスグリーンのゆったりとした革張りのソファに座らされている。
「所長の望月が出かけてるんです。なので、私がお話ししますね」
そう言って彼女が名刺を差し出した。
「榊馨楽です。望月の助手を務めています。どうぞよろしくお願いします」
「あ、犬養睦樹です、あの、名刺とか持ってなくて」
「ぜんぜん構いませんよ。でも携帯とか、連絡先教えて頂けます? TReEがあればフレンド登録していただけると嬉しいです」
「あ、はい……」
俺は言いなりに自分の名前を紙に書いて渡し、スマホでフレンド登録をし合い、携帯の番号も交換してしまった。
リアルの俺は、相変わらずこんな感じで言われるがままだ。
この話の流れで不朽の名画とやらを売りつけられても、二十年ローンで支払い契約をしてしまうに違いない。
相手が美人さんだからってわけではない。
ふつうのオッサンでも、そんなに変わらないと思う。
若干修正値は入るだろうけど。
出された紅茶を啜り、見知らぬ味に驚きながら、カップの中の鮮やかな色を見つめる。
(美味しいね、この紅茶)
(うん、初めて飲む味だ)
慣れないと夏の草むらのような青臭さに戸惑うが、すぐにその味と香りに、なにかホッとするものを感じる。
何か気分が良くなるものでも、仕込まれているのか?
もしかして、このまま俺は眠らされ、気づいたときには目隠しに口にはギャグを嵌められて、全裸で椅子に縛り付けられてる、なんて邪神教団の別バージョン展開が始まる!
なんてこた、ナイだろうな?
ん?
そういえば、なんかクラクラしてきたキガス……
「紅茶、変な味でしたか?」
「い、いえ、とっても美味しいです、でも初めての味で」
「良かった、気に入っていただけて。これはディンブラというスリランカの紅茶なんです。すごく独特の香りでしょ?」
「へえ……」
いかんいかん、妄想モードが暴走しかけていた。
「あら? 犬養さん、うちの事務所の宣伝してくれたんですね」
「え?」
携帯を見ながらニコニコ笑う榊さん。
いったい俺が何を……って、あれだ! TReEで投稿しちまってる。
「あ、すいません! その、つい出来心で……今、すぐ削除します」
「いえ、いいんですよ、面白がってくれて。そのままにしてください。所長もそうした効果を期待して、命名したらしいですから」
「そう……なんですか」
「フルムーンは満月ですよね。所長の名前が望月で、満月のことなんです。だからって、五次元にフルムーンまでプラスしちゃって、よけい怪しさ爆裂ですよね」
爆裂なんて言葉使うんか、この人。ちょっと親近感。
まあ確かに、五次元研究所だけでもアレなのに、よっぽど変な社長だぞ。
「さて、じゃあその五次元のお話をしましょうか」
「はい、お、お願いします」
「三次元は分かりますよね?」
「ええ、この世界ですね」
「そうですね。ゼロ次元が点、点が動いていった軌跡が線となり一次元になります。さらに線が集まってできた面が二次元、そして面が重なってできた立方体が三次元ですね。では四次元はどうでしょう?」
「三次元の物質世界が、時間を連ねたもの――ですよね?」
「正解です。四次元は三次元空間が時間軸に連続して同時に存在する世界です」
ちょっと難しくなってきたぞ。まあ、でも想像付く。
「四次元の住民がいるとしたら、その人は時間を距離として捉えることができるので、移動するだけで、タイムトラベルをしているように私たちには見えるわけです」
「風景のように時間経過を見ることもできるとか?」
「ええ、きっとそんな感じなのでしょう」
はい、榊先生、なんか俺、良い生徒になれそうです。
「そしていよいよ五次元とは何か、ですね。さまざまな説があるそうですが、私たちは可能性の時空と呼んでいます」
「可能性……」
「ある瞬間に、誰かが取り得る行動は、何種類かありますよね? 四次元は時間の流れですから、その一連の選択の結果によって成り立っています。そこでは選択されなかった未来は存在しません」
「あ、もしかして、選択されなかった未来を含めるのが、五次元ってことですか?」
「そうです、その通り。犬養さんの理解が早くて嬉しいです」
「はは、榊さんの教え方が上手いんだと思います」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、私も教えがいがあります」
榊さんは眼鏡を人差し指でちょいと上げ、にっこりと微笑んだ。
註:※1) 「好奇心が猫を殺す」はイギリスの諺。curiosity killed the cat 過剰に興味を持つのは危険なことがあることの戒め。
※ ※ ※ ※
さて、このあと五次元研究所で何が起きるのか?
まさかディンブラ以外の紅茶も味わえるというのか??
次回、10話は、令和7年3月9日公開予定!!




