9. 地獄からの逃亡
― 前回のあらすじ ―
中野ブロードウェイ隠世
睦樹はダニエルと共にエレベーターで屋上を目指す
待ち受けるは、ヴァレフォールと出花隼
一方シーンは別のとき、別の場所にフォーカスする
ささやかだけれど幸せな、幼い二人の日常は、ある時を堺に突然終わる。
恐怖と苦痛、さらに飢餓により、暗澹たる灰色の日々に塗りつぶされていった。
飢えは命に関わる深刻な問題だった。
学校がある兄には、まだ給食があった。
パンなどを妹のために持ち帰り、こっそり分け与えていた。
家に居座る大きな男が、すべてを支配する恐怖の大王だった。
始めは優しく、妙にチヤホヤし、二人をいろいろな所に連れて行ってくれたりもした。
しかし、本性を表すのには、さほど時間はかからなかった。
男の手と足が暴力の象徴だった。
ささいなことで殴られ、蹴られ、泣けばそれが煩いと叩かれた。
これもまた、ともすると命に関わる問題だった。
母親は止めには入るが形ばかりで、何の効果もないことを少年は知っていた。
強く止めれば、今度は母親が殴られる。
美しい顔に痣が残れば、店に出ることもできなくなり、一家の収入は途絶えてしまう。
兄は妹が殴られているとき、それを止めに入ることの出来ない自分が、情けなくて悔しくて、それでも泣くのは卑怯だと思って涙を堪えた。
ある日、妹が腹を蹴られ、しばらく起き上がれなかった。
このままでは殺されると、兄は決意を固め、計画を実行に移すことにした。
翌日妹が動けるようになると、その手を取り、二人で地獄の家を後にしたのだ。
久しぶりに得た自由。
街路樹の木の葉が風にざわめく。
白い雲がちぎれながら形を変えていく。
小さな花々が懸命に咲いている。
いつも見慣れたありふれたものが、何もかもが新鮮で、輝いて見えた。
ふたりきりで、何をしても楽しかった。
公園のタコの滑り台、ブランコ、ジャングルジム。
初めて猫に触る。
スリスリしてくるので、撫でてやるとゴロゴロいうのに驚く。
抱っこしようとして逃げられた。
しかし夜の帳が降りると、ふたりは街の中で浮いた存在となった。
一日分の食料はなんとか確保していた。
逃げる二人には寝る場所もなく、最初の夜は公園の滑り台を兼ねたタコ型遊具のトンネルの中で、抱き合って眠った。
翌日妹は怠そうだった。
家にあった財布から、なけなしの金をはたいて、焼きそばパンと牛乳を買って公園で食べた。
今夜はちゃんとベッドで寝かせてやりたい、そう兄は考えていた。
閉店近くに大きなショッピング・センターに入ると、ふたりは人目を盗んでさっとワゴンの下に入り込んで隠れた。
じっと息を潜めて待つ間、妹は兄の膝枕で眠ってしまった。
兄は妹を見つめながら、何をしてでも妹を守り抜くと、決意を新たにした。
夜も更けてから、二つの影はそうっと動き出した。
※ ※ ※ ※
「燕、出てきていいぞ」
声を殺して妹に伝える。
「………」
「ダイジョブだよ、ダレもいない」
「こわいよ、おニィちゃん」
「こわくないって」
「くらいから…おばけがでるよ」
「おばけなんか、いつもみたいに、ボクがおっぱらってやる」
「でも、こわいよぉ」
「ほんとにダイジョブだって」
少年、出花隼は、本気でそう思っている。
人間に比べたら、お化けなんか別に大したものじゃないと。
実際彼は、奇妙な存在に何度も会っているし、燕もそうだった。
あるとき怖がる燕を守るため、隼はそうした異形の者を睨みつけ、妹に手を出したら殺してやるぞと念じた。
すると、そのお化け――赤い縁取りのある白面に、目鼻口もないとろっとした顔をした奴は、ヤモリのようにへばり付いていた窓から離れ、夜の闇に消えていった。
これが最初に得た、異形に対する勝利の感覚だった。
以後はそうした者に出遭うたび、脅して追い払っていた。
それを繰り返しているうちに、ただ払うのではなく、命じるられるようにもなった。
たとえば、家に居座る男を呪い殺せと。
命令どおりに、お化けは男を襲った。
しかし、たいした影響を与えられなかった。
せいぜい二日酔いがずっと続くとか、パチンコで勝ちが無くなるくらいだった。
お化けなどより、暴力男の方がよっぽど怖くて実害あるのだ。
燕は恐る恐る、ワゴンの下の垂れ幕から出てくる。
ふたりの目はすでに闇に慣れており、非常灯の灯りで充分動けた。
隼は懐中電灯も持っていたので、何かを良く見たい時はそれを使ったが、警備員に見つかると何もかも失うことになるので、慎重に用いた。
「静かにな、燕」
「うん……」
「お腹へったろ?」
「うん」
まずは食料の調達だ。
衣料品売り場の3階から、食料品の1階まで降りなくてはならない。
二人は聞き耳を立てながら、慎重に階段を降りていった。
幸い、といっていいのか、このショッピング・センターには、監視カメラがあまり設置されていない。
隼は覚えていたカメラの視線に気をつけながら、お菓子売り場にたどり着いた。
「さあ、おかし食べほーだいだぜ!」
「ウキャー!」
「しー、声が大きい」
「ごめんなさい……」
「ちょっと待ってろよ、今買い物カゴを取ってくるから、ここから動いちゃダメだぞ」
「うん」
買い物かごを手に入れ、途中でパンやチーズやハムをいただき、妹の待つお菓子コーナーに戻った。
しかし、燕は、我慢できなかったようだ……。
「おい、ここで食べちゃだめだろ」
「らって、おなかすいたもん」
「しょうがないなあ、クズを落とすなよ」
自分は食べるのを我慢し、聞き耳を立てる。音の無いのを確認し、ジュースのキャップをゆっくりと開け、妹に渡す。
「ん」
妹がうまそうに飲むのを見て、ほっとため息をもらした。
食べかけの袋をカゴに入れ、カスを足で陰に追いやる。
「さあ、行くぞ」
ふたたび小さな盗賊たちは、慎重に歩を進める。
そして三階に戻ると、子供服売り場で物色したときに、お気に入りにした服を盗み、タグをカッターで切ってその場で着替えた。
最後に寝具売り場までやって来た。
「すごいだろ、どのベッドで寝てもいいぞ」
「おっきー、ふかふかー」
燕は、はしゃいでベッドの上で飛び跳ねる。
しかし、急に顔をしかめてうずくまった。
「どうしたんだ?」
「なんか、おなかイタイ」
「いっぱい食べたあと、急にとびハネるからだぞ」
「うん……みぎのかたも、イタイかも」
「ダイジョブか? ちょっとここで横になりな」
「うん……」
少女にとって、男から受ける暴力による痛みの方が、だんぜん酷かった。
なので、我慢できる痛みだった。
ふとんの中に入ると、やがて安らかな寝息を立て始めるのだった。
少年はまんじりともせずに、その傍らで見張っていた。
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少年と少女の明日はどうなる?
第15章10話は、令和6年11月17日公開予定!




