5.真の名・・・
令和6年8月19日公開
隠世の記憶喚起から、自分のベッドに戻った主人公。
居ても立っても居られなくなり……
すでに深夜、階下は静かだ。
リビングに降りると、思ったとおり、母さんが晩飯を残してくれていた。
猫のイラスト付きの置き手紙がある。
[ムッキー! グラタンがレンジに入ってるから良かったら食べてにゃ♡]
「にゃ♡って――……なんだよ」
そう呟くと、ぐうぅっと腹が鳴った。
朝サンドイッチを食べたあとは、さっきポテチを半袋食べただけだ。
(えい、腹が減っては戦も出来ぬ)
俺はオーブンレンジでグラタンのボタンをセットすると、冷蔵庫から冷たい麦茶をコップに注ぎ、ダイニング・テーブルの俺の椅子にどさりと腰掛けた。
そしてレンジの低い音が、やけに煩く聞こえるリビングで、麦茶を一気にあおると……
「ふぅーー……」
一回吐くごとに幸せがケツまくって逃げていくとされる、伝説の幸福バスター、大きなため息ひとつ。
さらに麦茶をもう一杯注いで一気にコップを空け、ふうーっと幸福バスター・ブレスもおかわりだ。
落ち着け……俺。
とっても大事なことだ。しっかりと考え直さなければならない。
「ムッキーか……」
母さんが、猿の声で怒っているんじゃない。
それが俺の、ちっさいころからの徒名なんだ。
そう、俺の名は犬養睦樹――だからムッキー、間違えようがない。
だけど彼女は、水生那美は俺のことを、「吾朗くん」―――「相馬吾朗」と呼んだ。
呼ばれる度にかすかに違和感を感じていたのに、なぜか違うと言い返せなかった。
ちゃんと否定できるほど、不思議なことに……あそこではそれが違うと、認識できなかったんだ。
これも隠世の影響なんだろうか。
それとも相馬吾朗が、俺の隠世ネームとかなのだろうか?
イヤイヤイヤ、そこまで回りくどい言い訳は必要ないだろう。
答えは極ごくシンプルだ。
相馬悟朗と犬養睦樹は別人である。
「チン!」
オーブン・レンジが食欲の地平から俺を呼んだ。
リビングは今や、うまそうな匂いで満ちている。
ミトンで皿の耳を持って、木の専用トレーにそれを乗せる。
熱々のグラタンを、ふぅふぅしながら口に運ぶ。
焦げたチーズとパン粉の馥郁たる香り。
ほろほろになった鶏肉が、マカロニとホワイトソースに絡まり、口中を幸せで塗布する。
麦茶でインターバルを取ると、ふぅふぅするところからリピートする。
俺と悟朗は違う人間なのだ。
犬養睦樹は、なぜかは分からないが、相馬悟朗が隠世で活躍する夢を見ていた。
そう考えれば部分的に記憶を失ったとか、面倒なことを考えずに説明がつく。
しかし、どうして彼女は俺のことを、相馬吾朗だと思ったんだ?
単純に、俺をそいつと勘違いしてるってことか?
幾らなんでもあり得ない、極端な勘違いだ。
俺がうっすらと知る限りの、彼女の隠れドジ属性をもってしても、120%不可能だと思う。
相馬吾朗は、俺と見た目がクリソツってわけなのだろうか?
世界には三人、同じ顔のやつがいるという――知らんけど。
その可能性も捨てがたいが、きっと何か致命的な認識のズレが、あるんじゃないのかと思う。
割れた花瓶を直し損なったみたいに、俺という別の破片が変なところに嵌り込んでいるのかも知れない。
その花瓶の破壊は、恐らく隠世での相馬吾朗の死によって、もたらされたのだろう。
では、当の吾朗はどこに行った?
隠世の中で復活したけど、動けない状態とか?
それとも彼は完全に死んでしまい、亡霊のような存在として、エーテルを求めて彷徨っているのだろうか?
イヤイヤイヤ、勝手に殺しちゃダメだ。
フツーに現世に戻っている可能性だってある。
どうかそうあって欲しいぞ。
だがしかし、いくら考えても結論は出るはずもなかった。
結局ここで悩んでいても、何も解決しない。
食べ終わった食器を洗い、不気味人形と細い金属をポケットに入れると、そっと家を出て鍵をかけた。
※ ※ ※ ※
夜気は秋の気配をはらんで、蒸し暑さまでは感じられないものの、まだまだ暖かい。Tシャツ一枚で充分だ。
静まり返った住宅地を、俺は駅前へと向かった。
まだ零時過ぎたばかりなのに、酔っぱらい数人とすれ違っただけで、駅前にもほとんど人気がない。
以前はもっと遅くまで賑わっていたのに。
それだけ殺テロ――通り魔テロが警戒されているのだろう。
閑散としたアーケードを進むと、向こうから阿波踊りの会の名前が入った提灯がたくさんやって来る。
父さんも入っていた地元の会のものだ。
俺も中学のころまでは、法被を着て踊りに参加したものだ。
しかし、高校生になると、ああした集まりがどうも苦手で、遠ざかっていた。
「こんばんは、こんな深夜に一人で何してるんですか?」
「一人で出歩くのは危ないぞ」
「こんばんは……いや、その、これから家に帰るところです」
提灯を掲げた集団は、どうやら集団で夜回りを行っているらしい。
殺テロが横行する中、有り難いことだが、邪魔されたくはない。
「家はどこよ?」
「あの、すぐそこ南三丁目なんで」
彼らは、一様にほっとしたような表情を浮かべる。
「急いで帰るんだよ」
「気をつけてね」
「あ、はい、ありがとうございま……」
俺がもごもご礼を言うと、安心したように歩き出した。
と、すれ違いさまに、ポンと肩を叩かれる。
「よ、彼女んトコか? 気ぃつけてなムッキちゃん!」
「え?」
と、驚いて振り向いたが、集団にまぎれて誰だか分からなくなってしまう。
どうやらご近所さんの誰かが居たらしい。
勘違いして見逃してくれたようだ。
俺、大人たちの顔をあまり見ないように、下向いていたからな。分からなかった。
それにしても、こうして地元の自警団が集団で警戒態勢を取るほど、事態は深刻ってことだろうか。
俺もせめてそのくらいは、社会貢献すべきなのかも知れない。
「イヤイヤイヤ、やっぱダメだわ」
集団苦手だし、どころか、人と話すのも辛いし、ニートだし、提灯持っておっさんらの中にいる自分を、まったく想像できん。
俺はひとり、パル商店街を奥へと進んでいった。
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※ ※ ※ ※
重大なズレに気がついた主人公、犬養睦樹。
深夜の高円寺駅前に赴く。
次回6話は、令和6年8月20日公開予定!




