1. ヴィランとヒーロー
くたびれ、すり切れた善男善女の肉体を、安らぎの家へと送り届けた列車の轟音も今は絶え、その鉄路の熱もようやく冷めたころだ。
仄暗いバーのカウンターは、時間を気にしない特権階級のステージとなっていた。
今夜もまた、酩酊の詩人が飽かずに詠う。
一杯、一杯、復一杯……と。
欲望、憤懣、悲哀、快楽を、酒精とともに酌み交わしながら夜は更けていく。
そんな眠らぬ街の片隅、夏の残り香する歌舞伎町の裏通りを、冴えない風体の青年がひとり往く。
腕まくりしたよれよれのサマーコートの下は、Tシャツ一枚。
モスグリーンの猫背を、さらに丸めるような前傾姿勢。
擦り切れた青い革靴が、せわしなく働く。
乱れた前髪から覗く黒瞳は、何も映じぬかのように虚ろだ。
しかしその闇の深さは、真理を求める隠者のそれのようだ。
未だ昏く霧に閉ざされた、朧な景色のその先を、じっと見すえるその瞳にも似て。
踊るように、挑むように、彼は路上の人々を避けながら先を急ぐ。
やがて青年は賑やかな通りから外れると、人影もまばらな小路へと吸い込まれていった。
よれたコートの薄っぺらい裾が、風をはらみながら丁字路を鋭角に折れると、そこは狭い路地裏だった。
くたびれた青い革靴が、ようやく停止する。
ザリ――と、残暑した砂利を踏みしめた先には、いくつもの小さな白い人形たちが、転がり散乱していた。
丸い頭部から直に広がった可愛いスカート……手足はない。
なんとも味のある表情が、ひとつひとつに油性ペンで描かれている。
今どきは、めったに見られなくなった気象呪物――てるてる坊主だ。
軒下に吊るし、長雨が終わるのを祈願する。
深緑色した紙の手さげ袋からこぼれ落ちて、黙して横たわり、その身の不幸にも微笑みながら静かに耐えている。
さらに向こうには、派手な服装の男の背中がふたつ並び立ち、その足元には、哀れな老人が転がっていた。
ボロをまとう老いた浮浪者が、男たちの一方的な暴行を受けているところだった。
「――テルオさん」
乱れ髪した頭が声を発すると、その寝ぼけたような相貌に、人並みの表情が降りてきた。
相馬吾朗 生成AIによるイラスト
彼の名は相馬吾朗。
表の世界では、特にこれといった肩書はない。
深夜にこうしてフラフラしているのは、裏の世界での仕事――のようなもので、それも今回は時間外労働ともいえるだろう。
その仕事に、労基が適用されればの話だが。
相棒でもあり、案内者でもあるヤドゥルからの、緊急呼び出しに応じて駆けつけてみれば、この有様だった。
ここは悪漢に襲われる罪も無いお年寄りを、颯爽と登場した主人公が救出するシーンが期待されるわけであるが……。
だがしかし、相馬吾朗は焦っていた。
彼はその期待に応えることができそうにない。
なぜならこの世界の彼は、からっきし腕っぷしの弱い、ポンコツであったからだ………。
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※本作品には、著者の関わったことのある他のコンテンツに似た設定が使われることがありますが、あくまでも完全に独立した別作品としてお考えください。
※また、本作品はフィクションです。実際にある地名などが登場しても、それは現実とは異なる小説だけの設定です。




