エーリカ・アースキン 第六話
夫婦で話し合ってから三日後に、アンリは家を出た。
アンリを見送りながら、娘は泣いていた。彼女が長い間アンリと離れるのは、初めてだ。大好きなお父さんが、不在になる。娘が感じている寂しさは、間違いなく、私よりもはるかに大きい。
とはいえ私も、アンリを見送るときは寂しさを感じた。四年間、毎日一緒にいた。アンリが作った料理を食べて。私が作った料理を、彼が食べて。侍女達と一緒に、家の掃除をして。乳母と一緒に、娘と遊んで。
特筆することもない、でも温かく幸せな毎日。いつも私に向けられる、アンリの優しい笑顔。抱き締められたときの、柔らかな温もり。耳元で囁かれる「愛してる」という言葉。娘と遊ぶ、子煩悩なパパの顔。
アンリは間違いなく、幸せな日々の要だったんだ。
出て行くアンリを見送った。その背中が見えなくなるまで、眺め続けた。今さらながらに、私は泣きそうになっていた。
これは、好いた惚れたという感情じゃない。そんな情熱的なものじゃない。あるべきものを失ってしまった寂しさ。当たり前のものが当たり前でなくなった、悲しさ。
無意識のうちに、私は感傷に浸っていた。ふと我に返って、苦笑してしまった。
どうせ、半年もすれば戻ってくるんだ。たった半年。それくらい、大したことはない。
自分に言い聞かせて、私は、娘を連れて家に入った。たった半年。その言葉を、何度も胸中で繰り返した。
アンリがいなくなってから数日、娘は落ち込んでいた。何度も「おとーさんは?」とか「いつ帰ってくるの?」と聞いてきた。まだ三歳の娘に「半年くらい」と言っても、伝わらないだろう。
「あなたが、もう少しだけお姉さんになれたらね。そうしたら、お父さんも帰ってくるよ」
そんな、子供騙しな返答をした。
娘は、私の言うことを素直に聞いた。必死にお姉さんになろうとした。私や侍女の手伝いをしようとした。買ってあげた人形に対して、お姉さんっぽく振る舞った。アンリの不在を、本当に寂しがる娘。将来はファザコンになってしまうのではないかと、心配になるくらいだ。
そんな娘と過ごしていたせいだろうか。それとも、これが私の本心だったのだろうか。
私が抱える寂しさは、日に日に大きくなっていった。
いつもいつも、アンリのことを考えてしまう。侍女と買い出しに行ったときも。料理を作っているときも。掃除をしているときも。洗濯をしているときも。休憩をしているときも。
アンリのことばかり考えていた。
食材の買い出しに出かけたときは、アンリが好きな食べ物のことを考えた。食事の用意をしているときは、アンリの好きな料理のことを考えた。部屋の掃除をしているときは、勉強しているアンリの姿を思い浮かべた。ベッドのシーツを取り替えているときは、アンリに抱かれたことを思い出していた。
夜になって。娘を寝かしつけて。ランプの明りで、物語を読んだ。宝物の本。情熱的な恋愛の物語。
昔は、この本を読んで妄想に耽っていた。背が高く美しい容貌の男性を愛して、愛されて、片時も離れない。情熱的に唇を交わし、肌を合わせ、互いを求め合う。時間なんて忘れて、ひたすらに愛し合う。そんな、情熱的な恋。
アンリが国境付近に行くと言ったとき、私は、久し振りに妄想に耽ようと思った。アンリではない――背が高い美丈夫な男性と、恋に落ち、恋に溺れ、恋を貫く妄想。恋愛の相手は、いつかのパーティで見た、ウッドビル侯爵子息のジョシュアのような男。
アンリと出会う前は、いつもそんな妄想をしていた。
それなのに。
物語を読んで私が考えるのは、アンリのことばかりだった。
アンリには、出会ったその日にプロポーズされた。あっという間に結婚が決まった。
でも、もし。
もっと違う出会い方をしていたなら。
私はアンリと、いつも妄想していたような恋愛をしていたのだろうか。初めて一緒に出かけたときは、手が触れるだけで照れてしまって。好きだから触れたくて、でも、好きだから触れられない。そんなもどかしい日々を過ごして。いつしか、勇気を振り絞って触れ合って。一度触れたら止まらなくなって。自分の唇で、彼の唇に触れたくなって。唇だけじゃなく、全身で彼に触れたくなって。
アンリとの恋愛を妄想すると、驚くほど幸せな気分になれた。幸せと同時に、体が火照ってきた。
この体の火照りは何なのか。私は、もう知っていた。知っていたけど、気付かなかっただけだ。
これは、好きな人を求める火照りだ。肌と肌を触れ合わせたい。そのまま二人で溶け合って、ひとつになってしまいたい。彼を飲み込んでしまいたい。彼に飲み込まれてしまいたい。
「アンリ」
無意識のうちに、声が出た。夫の名前。一番会いたくて、一番側にいてほしくて、一番触れ合いたい人の名前。
「アンリ」
彼の名が心地よくて、もう一回口にした。でも、二度目は心地よくなかった。彼の返答がないことで、実感してしまった。
今ここに、アンリはいないんだ。
私の両目から、滴のように涙がこぼれた。寂しい。悲しい。苦しい。辛い。夫の不在という事実に、胸が締め付けられた。ギューッと、強く押し潰されるようだった。
妄想に耽って。体が火照って。心地よくなって。でも、すぐに悲しくなって。色んな感情が目まぐるしく入れ替わったことで、私はようやく気付いた。
私は、アンリのことが好きだったんだ。
こんなにも、アンリのことが好きだったんだ。
自分の気持ちに気付いて。感じたのは、後悔だった。
どうして私は、アンリを行かせてしまったのだろう。彼が国境に行ったのは、自分にコンプレックスがあるからだ。
『怠惰な第七王子』
そんなふうに揶揄される自分を、恥じていたからだ。ひとりの夫として。ひとりの父として。家族を持つ者として。揶揄される男であってはいけないと、感じていたからだ。
どうして私は、アンリに伝えなかったのだろう。
『あなたは、素晴しい夫で、素晴しい父親だよ』
周りがどう言おうと、私達は、あなたを恥だなんて思わない。むしろ、誇らしい。その気持ちを伝えていれば、アンリは、国境には行かなかったかも知れない。
涙が出た。アンリは恥なんかじゃない。むしろ、恥ずかしいのは自分の方だ。こんなにも愛してる気持ちに、今の今まで気付かなかったのだから。妻なのに、夫の気持ちを汲み取れなかったのだから。
涙を流しながら、私は心に決めた。アンリが帰ってきたら、真っ先に伝えるんだ。たった一言。一言だけど、たくさんの想いを込めて。
『愛してる』
心から、自分の気持ちを伝えよう。
そんなふうに、思っていた。
そんなふうに思っていたのに。
訃報は、予測すらできず、唐突にやってきた。
アンリが国境に行ってから、四ヶ月ほどが経った頃。
王家からの使いが、自宅に訪ねてきた。
『約八十年ぶりに、サウス王国の兵が大きな戦いを仕掛けてきた。国境付近には大きな炎が上がり、数多くの死者を出した。その場にいた多くの傭兵や兵士、騎士の命が危険視されている』
知らせを聞いた瞬間、目の前が真っ暗になった。ふわりと、意識が遠のいた。
私の意識を呼び戻したのは、娘の泣き声と、自分の涙の感触だった。
次回更新は明日(10/6)の夜を予定していますm(_ _)m