エーリカ・アースキン 第五話
ひょうたん型の大陸。
ひょうたんのくびれの辺りは、凹凸の少ない砂丘になっている。二つの国の国境となっているくびれ。
大陸にある、二つの国。北のノース王国。南のサウス王国。
この二つの国は、昔は一つの国だったらしい。ところが、王位継承の際に骨肉の争いが勃発し、第一王子派と第二王子派に分裂した。第一王子派は新たな国を建国し、大陸の北側を領土とした。
こうして、大陸に二つの国が生まれた。
両国は、今は冷戦状態だ。
戦争が起こると、国の経済状況は大きく揺らぐ。多くの人の命が失われる。国力が大きく割かれることになる。
だから、両国とも戦争に踏み出せない。どちらの国も、相手国を疎ましく思いながらも。
冷戦状態ではあるものの、しばしば、国境付近で小競り合いが起こる。大きな争いではない。両国の、国境警備隊同士の争い。国境を守る騎士や傭兵による争い。
そんな状態が、もう八十年ほども続いている。
「国境付近で、国の警備をしたい」
アンリがそんなことを言い出したのは、娘が三歳になって三ヶ月ほど経った頃だった。テーブル席で、私と向かい合うように座って。昼食後のお茶を飲みながら。
「どうして? 王様とか、他の兄弟からの命令?」
「違うんだ。父さんの命令でも、兄さん達の命令でもないよ」
今の生活は幸せだ。何不自由なく暮らせる。夜の生活だって、新婚の頃ほどではないけど、三日と空けずにしている。娘は可愛く、最近はよく喋るようになった。
「おとーさんはすごいね」
私を真似て、娘がよく口にする言葉。
可愛い可愛い、娘の姿。
でも、娘にそう言われる度に、アンリは少し悲しそうな顔になっていた。
「俺は、全然凄くなんかない。君にも、娘にも誇れない父親なんだ」
私の質問に答えるアンリは、苦虫を噛むような顔になっていた。一児の父になっても変わらない、可愛いとさえ言える顔立ち。その眉間に、皺を寄せていた。
「君も知ってるだろ。俺が、陰で何て言われているか」
『怠惰な第七王子』
他の王子達に比べて、無能で、無気力で、王位継承にまったく絡むことのない王子。
アンリと四年も一緒に暮らした。だから私は知っている。彼は、決して無能でも無気力でもない。けれど、世間の評価と私の主観は、まったくの別物だ。
「俺ひとりなら、誰に何を言われても気にならなかった。実際に、王位争いに参戦するつもりもなかったし。王になんてなるつもりも、なりたいとも思ってなかったし」
これはアンリの本心だろう。結婚と同時に王家を出たことが、彼の気持ちを物語っている。
「怠惰だろうが、無気力だろうが、別に良かった。実際、適当に生きてきた。王位になんて関わらずに、ただ適度に義務をこなして。適当に結婚して。適当に生きていられればいいと思ってた」
話しながら、アンリは私に手を伸ばしてきた。テーブルの上に置いた私の手を、両手で優しく包んだ。
「でも、考えが変わったんだ」
アンリは、両手で包んだ私の手を、キュッと握った。優しく。温もりが伝わる程度の強さで。顔に似合わない、少しゴツゴツとした手。
「エーリカ。君を愛してる。娘のことも愛してる」
気弱そうでいて、可愛らしい垂れ目。そんなアンリの目には、強い光が宿っていた。じっと、私を見つめている。こんなに真剣な彼の目を、私は見たことがない。四年も一緒に暮らしてきたのに。パーティの場でプロポーズされたときも、こんな熱っぽい目はしていなかった。
「君達を愛してるから、君達が誇れる人間になりたい。誇れる夫であり、誇れる父になりたいんだ」
アンリの意図が、ようやくわかった。彼は、今の自分を恥じているんだ。だから、誇れる何かを得ようとしているんだ。自分自身のためではなく、私達のために。
国境では、騎士の称号を持つ者が指揮を執り、傭兵が警備を務めている。そこで職務を全うすることで、アンリも騎士の称号を得られる。『怠惰な第七王子』などと呼ばれることのない称号。
妻が誇れる夫になれる。娘が誇れる父になれる。
私は、アンリに対して恋愛感情はない。だから、彼と離れるのが身を裂かれるほど苦しい、なんてこともない。物語のような、離れ離れになるくらいなら死を選ぶ、などという情熱もない。
けれど、緩やかで温かい愛情はある。離れるのは寂しい。同時に、心配でもある。たとえ、もう何十年も、大きな争いが起こっていないと言っても。
少しだけ、私は考え込んだ。打算的な思考で。
国境の最前線は、多少なりとも危険が伴う。でも、王族であるアンリが最前線に出ることはないだろう。そんな役割は、傭兵がやるものだ。
王族だから、出世も早いだろう。たぶん、半年もすれば騎士の称号を得られるはずだ。
たった半年。たった半年、家を空けるだけで。それで、アンリが納得できる身分を手に入れられるなら。
それなら、問題はない。
「うん。わかったよ」
アンリに手を握られたまま、私は彼に微笑みかけた。
「あなたの帰りを待ってる。娘と一緒に。だから、気を付けて行ってきてね」
しばらく寂しい思いをするだけで。ほんの少し我慢するだけで、今の幸せを維持できる。死ぬまで幸せでいられる。アンリが悩むこともない、平穏で緩やかな幸せ。
これから先の幸せを考えるなら、たった半年程度アンリが不在でも、問題はない。
せっかくだから、実家から持ってきた物語を久し振りに読んでみよう。妄想の恋にふけってみよう。その恋の相手は、もちろんアンリではない。
私は早くも、アンリが不在になったときのことを考えた。結婚前と同じように、妄想の恋に溺れることができる。彼には悪いけど、少しだけ楽しみになった。
アンリが帰ってくるまで、楽しみながら生活しよう。夜、娘を寝かしつけたら、そこからは私ひとりの時間だ。
浮気をするわけでもない。他の男に目移りするわけでもない。ただ、夫がいない間に、心の中で羽を伸ばすだけ。そんなささやかな楽しみ。
楽しみだ、と思ってる。
それなのに。
ただ、なぜか。
少しだけ、胸が潰れるような痛みを感じた。
ギュッと、押し潰されるような。
次回は明日(10/5)の夜に更新予定ですm(_ _)m