エーリカ・アースキン 第四話
新婚生活が始まって、三ヶ月。
思っていた通り、アンリとの生活は悪くなかった。悪くないどころか、幸せとさえ言える。
アンリは、王族なのに偉ぶったところがない。私に対して、横柄な態度をとることもない。一緒に寝室に入るときは、ドアを開けて私をエスコートしてくれる。私が何かに失敗しても、決して怒ったり馬鹿にしたりすることもない。いつも優しい笑顔で、私に微笑みかけてくれる。
新婚生活が始まったとき、ひとつだけ、アンリにお願い事をされた。
「俺の前では、前髪を上げていて欲しいな。綺麗なエーリカを見ていたいんだ」
私は素直に、その言葉に従った。
新婚初夜は、心臓が破裂するほど緊張した。当たり前だが、私は、男の人の前で裸になるのは初めてだった。
アンリは、緊張で体を強張らせている私を、優しく抱き締めてくれた。あやすように頭を撫でてくれた。肌と肌が触れ合ったとき、驚くほど心地よかった。彼の体は、顔に似合わず鍛え上げられていた。その体から、怠惰だの無能だのという言葉は連想できなかった。
初めての性交渉は痛かったけど、悪い気分ではなかった。王族が夜の床の勉強もしているというのは、本当なのだろう。あるいは、顔に似合わずアンリが経験豊富だったのか。
アンリに対して、物語のような恋心を抱くことはない。結婚相手を選ぶこともできなかった。現実なんてこんなもんだ、とも思う。男を知ったせいか、ジョシュアはどんなふうに女を抱くんだろう、なんて妄想することもある。
それでも、この結婚生活は幸せだった。
新婚から三ヶ月の間、アンリは毎日私を抱いた。私も、毎日彼を受け入れた。そんな生活をしていたのだから、当然のように私は妊娠した。
妊娠が分かり私を抱けなくなっても、アンリは変わらず優しかった。侍女に交じって料理をし、私に食べさせてくれた。私の部屋の掃除もしてくれた。私が欲しがった物を購入するために、侍女達と買い出しに行くこともあった。寝る前には、必ずおやすみのキスをしてくれた。
妊娠から十ヶ月ほど経って、私は出産した。元気な女の子だった。出産は、本当に死ぬかと思うほど痛かった。誰かが「鼻からスイカを出すくらい痛い」と言っていたが、大げさではなかった。
娘が産まれた直後、アンリは、涙ぐみながら私を撫でてくれた。
「ありがとう、エーリカ。お疲れ様」
出産で疲弊した私を、アンリは、一晩中看病してくれた。水が欲しいと言えば駆け足で持ってきてくれたし、お腹が空いたと言えば、たとえ真夜中でも軽食を作ってくれた。
アンリは、世間では「怠惰な第七王子」なんて揶揄されている。けれど、そんなことを口にする人達は、彼の本当の姿を知らないんだ。
アンリは優しい。怠惰なんて言葉とは正反対に、私のために動いてくれる。
アンリは逞しい。私の調子が悪いときは、軽々と私を持ち上げ、ベッドまで運んでくれる。
アンリは賢い。彼の作る料理は、種類バリエーション共に豊富だ。さらに、彼の料理を食べていると体調が良くなる。きっと、体にいい物を料理しているのだろう。侍女達が、彼に料理を習っているくらいだ。
娘の世話は、王家から派遣された乳母がしてくれた。けれど、アンリは、全てを乳母任せにしなかった。娘をあやし、寝かしつけた。母乳をあげるのはさすがに無理だけど、それ以外の子守は問題なくこなした。
娘が産まれて半年ほど経つと、私の体調は完全に戻った。出産というのは、想像以上に体にダメージを与える。それでもここまで調子が良くなったのは、アンリが私を大切にしてくれたからだろう。
恋愛感情があるわけではない。望んだ結婚相手でもない。それでも私は、アンリに何かしてあげたいと思うようになった。私は彼ほど優秀ではないし、何でもできるわけではない。けれど、私にできる限りのことは。
私の妊娠中や出産直後に、アンリは、私の体調に合った料理を作ってくれた。それなら私も、彼のために何か料理を作ろう。
そう決めると、私は、侍女達に料理を習い始めた。一緒に食材の買い出しにも行った。
アンリは私に、外では顔を隠して欲しいと言っていた。
「エーリカは綺麗だから。心配なんだ」
どうやらアンリは、私が他の男に口説かれることを心配しているらしい。
心配なんてしなくても、大丈夫だよ。そう、アンリに告げた。好いた惚れたの感情はなくとも、彼のことは大切に思っている。娘までいる。そんな状況で他の男に走るなんてことは、絶対にしない。
「大丈夫だよ。私は、あなたの妻なんだから」
アンリを安心させるように言ったが、それでも私は、外では前髪を下ろした。私の心なんて、彼には見えない。だから、安心させてあげたかった。
度々侍女達と買い物に行き、料理の練習をした。娘の面倒も、乳母に手伝ってもらいながら見た。アンリと私と娘の三人で、遊ぶこともあった。
私が料理を作ると、アンリは大喜びしてくれた。作った本人が言うのも馬鹿みたいだけど、彼の料理に比べたら、美味しくなかったと思う。彼は、全部食べてくれたけど。
結婚生活二年。娘が産まれて一年が経った。
この頃から、アンリの様子が変わり始めた。
ううん。彼の様子が変わり始めたのは、もう少し前だ。私が外に出るときに、前髪を下ろしてほしいと頼んできたときくらいから。
アンリは時々、悩んでいるような顔をしていた。眉間に皺を寄せて、どこか遠くを見つめて、何かを考え込んでいた。
そんな日々がしばらく続いた後、決定的にアンリが変わった。
アンリは、子守や家事の隙間を見つけて、勉強をするようになった。勉強だけではなく、武術や剣術の訓練をするようになった。
少しだけ、彼が勉強に使っている本を見たことがある。はっきり言って、何が書いてあるのか分からなかった。兵法や戦術の本だということは、かろうじて分かった。
アンリが剣を振る姿は、素人の私から見ても凄かった。体の軸がブレずに移動し、剣を振るう。動く速度は、まるで瞬間移動だった。剣の太刀筋は、閃光のようだった。
つくずく、噂というのはアテにならない。この人のどこが、無能で怠惰なのか。勉強や剣術を真剣に学んでいる。記憶力も運動能力も、私の知る限りでは一番優れている。
アンリは凄い人だけど、他の王子達はもっと凄いとでも言うのだろうか。だとしたら、王家の人達は人間ではない。怪物の一族だ。
優秀で優しい夫。恵まれた経済力。生活をサポートしてくれる、侍女や執事や乳母。可愛い一人娘。紛れもなく、どこからどう見ても、幸せな家庭だ。
それなのに、アンリは何に悩んでいるというのか。どうして、王位を争うわけでもないのに、あんなに努力しているのか。
私には、何も分からなかった。アンリに聞いてみたが「ただの、実家にいた頃の習慣だよ」なんて誤魔化された。
何も分からないまま、平穏なままで。
月日は流れて。
娘が三歳になった頃だった。
「少し長い期間、家を空ける」
そう、アンリが言い出したのは。
次回は明日(10/4)の夜に更新しますm(_ _)m