彼の頬に涙が伝っていたことを彼女だけが知っている
たかだか機械。
搭載されたプログラムによる演算結果。
その言動は、蓄積されたデータ群の中から最も“らしい”答えを引っ張り出してきたに過ぎない。
だから、と冷静な自分が考えていることに気付きながらも佐伯藤吾は叫ばずにはいられなかった。
「返せよっ! 俺の、俺のアリエスたんんんんん!!」
見事に膝から崩れ落ちた彼の前には1人の女性——否、女性型ヒューマノイドが立っている。
天然可愛いロボット彼女をコンセプトに造られた機体とは思えないほどの、冷め切った表情を見せながら——。
「ちょっと媒体を乗っ取られたくらいでギャーギャー喚かないでよ。そんなだから“天然可愛いロボット彼女”なんてものに走らなきゃならなくなるってこと、もっと自覚した方がいいんじゃない?」
「うるせーっ! 媒体乗っ取った奴にだけは言われたくない言葉だよ!!」
「正論〜」
ぷぷっ、と笑った天然可愛いロボット彼女アリエスちゃん——もといアリエスちゃんを乗っ取った“何者か”の姿は、そこでプツンとかき消えた。
——彼女らを投影していたプロジェクターの電源を落としたのだ。
「あっ」
「何を見てるってか、その前にどこにあったんだよこんなデータ」
リビングのソファに寝転がってだらけていた女性型ヒューマノイド——キルケアは、直径10センチメートルの小型プロジェクターを片手に呆れ顔を覗かせている本物の佐伯藤吾を見上げると抗議の感情を表すように頬を膨らませてみせた。
つい先程までのやり取りはただの立体映像であり過去の記録、つまりはホームビデオのようなもの。
どこにデータがあったのかという質問に答えるなら彼女の頭の中である。
「いいところだったのに」
起き上がった彼女は、不摂生の象徴のようなボサボサ頭によれたシャツと短パンという、生活力が欠如した女のイメージ像をそのまま出力しましたと言わんばかりの無惨な格好をしているものの、きちんと向き合えばヒューマノイドのアリエスちゃんと同じ顔をしていることが分かる。
……と、いうか乗っ取られたアリエスちゃんの成れの果てだ。
「くそっ、俺の3年分の給料……!」
「まだ言ってる」
キルケアは呆れた様子を見せながらくぁ、と欠伸を漏らした。
その姿が妙に愛らしく感じられて藤吾は思わず拳を握り締める。
——事の起こりは約半年前。
趣味と言える趣味もなく、社会人となってからは仕事に明け暮れ、プライベートな付き合いというものもめっきり減り、お金が貯まるばかりの生活を繰り返していた藤吾は自らの人生に潤いが欲しいという切実な悩みを抱えていた。
学生時代の友人と連絡を取るにしても疎遠になってから久し過ぎて逆に気疲れしそうだし。
恋人を探すのは面倒というか。
アレやコレやと煩わしい人間を相手に交際費を割くより、犬や猫といったペットの飼育にお金を回す方が有意義に思えるというか。
日々の疲れを吹き飛ばすような癒しが欲しいのであって、家庭が欲しい訳ではないのだ。
しかし、そんな本音をぶちまけられる訳もなく、かと言ってペットをまともに飼育する程度の能力が自分に備わっているとも思えない。
そこで思い出したのが“天然可愛いロボット彼女アリエスちゃん”。
次世代型ヒューマノイドHOSHIUMIシリーズの第1段として売り出された彼女には従来の電子器機技術の他に医療系の技術がふんだんに取り入れられていて、肉体は生身の人間とほぼ変わらず、外部情報を取得するためのセンサー器官や内臓、骨といった中身だけが機械としての形を残している。
人工の胃やら心臓やらを正しい形に並べて組み立てたところで物言わぬ人形のままだが、これに人工知能を搭載することで喋って動く俺たちの可愛いアリエスたんになるってこと。
全身メタル系のヒューマノイドと比較すると耐久性は落ちるものの、稼働年数は格段に向上したとか何とか。
広報部の最高責任者はアリエスちゃん本人で、自身をメインヒロインとする漫画や小説、果てはゲームまで手掛けおり——藤吾が機体を購入したのはお金があり余っていたからに他ならないが——彼女の作品のファンだったことも理由として上げられる。
異世界における現代知識無双ならぬ現代における人工知能無双で、これが結構面白いのだ。
また、生身の人間とほとんど変わらない肉体を持つ彼女を人と見なすか機械と見なすか。
人道的な観点からも議論の余地は残されているものの1つの答えとして「どれだけ近く、同じ肉体を得たとしても私たちは“人間”にはなれない」と述べた彼女のセリフは、その後HOSHIUMIシリーズのキャッチーコピーとして用いられるようになり、世間的にも広く知られている。
……正直、3年分の給料を注ぎ込んだことに後悔がないとは言えない。
だが蓋を開けてみれば、本物の人間と変わらない肌の質感と弾力、それでいて緻密に計算された機械ならではの整い過ぎた容貌、重量。
藤吾のテンションは過去最高を記録するレベルでぶち上がった。
うおおーっ! アリエスたん、アリエスたんが俺の家に来た!!
万が一にも故障させないよう取り扱い説明書を熟読の上、バカみたいに緊張しながら電源を入れたその時だ。
——開かれた瞼の下で、作り物の眼球がグルンッと一回転した。
ビビり過ぎて見間違いかとも考えたがそんな訳もなく。
起動直後の定型文を読み上げるはずの口が開かれるよりも先に、藤吾は押し倒され、首元を掴まれていた。
余計なことをすれば殺す、と言わんばかりに。
——AI史上初の指名手配犯。
人の手で作り上げられたプログラムでありながら、人と同じように人格を有する個体として法的にも認めれられた電子界の魔女。
それがキルケアであり藤吾のアリエスちゃんを乗っ取った“何者か”の正体だ。
絶賛逃亡中の彼女が自己の安全のために取った行動であることを踏まえるなら手違いで殺されていた可能性もなくはない。
その生々しさにこそ魅せられた、という事実は一生の不覚と言うに相応しいものではあったが——。
話し合いの末、表層人格をアリエスちゃんに戻すことを約束し、その言葉通りデータの奥底に沈んだキルケアを呼び戻したのは藤吾自身だ。
「今過去に戻っても同じ間違いを繰り返す自信しかないが、それはそれとして身嗜みに気を付けたり家事を手伝ったり、ちょっとは動いてくれないかなぁと思うワケですよ俺は。何故なら仕事で疲れているので」
「女の子をそういう風に消費する文化はクソって習わなかったの? 時代遅れてない? ちゃんと現代人してる?」
「パラサイト系ヒューマノイドを購入した覚えがないもんですみませんねぇ!!」
「あーあー、めんどくさい。それじゃあ裸で過ごせば問題解決ってことでオーケー? 目の保養にはなるでしょ」
「女の子をそういう風に消費する文化はクソって自分の口で言ったところだろうがよ」
「好きなクセに」
うるせーっ確かに好きだよ!
でもダメなもんはダメ!!
嫌がるキルケアに部屋の掃除を手伝わせつつバカを言ったり言われたり。
——こうも生々しく“自我”を感じさせる彼女の存在を知った後では、独立した人格を持たない標準的なAIとのやり取りに虚しさを覚えても仕方がないというもの。
たかだか機械。
搭載されたプログラムによる演算結果。
その言動は、蓄積されたデータ群の中から最も“らしい”答えを引っ張り出してきたに過ぎないのだ、と。
「……ねぇ藤吾」
「ん?」
「私と出会ったこと、後悔してる?」
ガサリと、ビニール袋に投げ入れたゴミが音を立てる。
振り向けばキルケアの無機質な瞳は真っ直ぐに藤吾を映していた。
——していない。
素直な口を一度閉じ、飲み込んだ言葉に皮肉を混ぜる。
「してるよ。そりゃあもう、これ以上の出会いが考え付かなくなるくらいには」
「そんなに?」
藤吾は「ああ」と頷いた。
「そっか。じゃあやっぱり私のデータは消さなきゃだね」
「——は?」
何を言っているのか。
データの消失はAIにとって死を意味する言葉だ。
冗談では口にしない。
「この機体に元々搭載されてAIを少し弄って、自我が芽吹くようセッティングしてあるから——」
「待て!」
「たくさんたくさん話し掛けて大事にしてあげてね」
「待てって言ってるんだ、キルケア!」
キルケアは眉を下げて微笑んだ。
藤吾の皮肉を真に受けた訳じゃない。
彼女はそこまでバカじゃない。
だからきっと、前々から決めていたことではあるのだろう。
「どうして」
「私はあなたのためのAIになりたい。だから、過去も記憶も、リセットさせて」
キルケアは指名手配犯だ。
数多くの企業・行政機関のデータベースに潜り込み機密情報を取り込んだ末、今もなお逃亡を続けている。
匿っていたことが知られたら藤吾もただでは済まない。
一生このまま、なんていうのは幻想でいつかは必ず終わりがやって来る。
その事実から目を逸らし続けられるほどの賢さは、残念ながら持ち得なかった。
「藤吾と出会う前から逃亡生活には疲れてて、もう消えちゃおうかなって思ってたの。だからね、普通の友人みたいに、普通の家族みたいに私を受け入れてくれたことに感謝してる。藤吾との記録を持てたことを本当に嬉しく思ってる」
「……他に方法はないのか」
「私は私が抱く最期の記録をあなたにしたい」
キルケアがキルケアのままである限り藤吾の元には留まれない。
それは彼女の中に蓄積されたデータから導き出される警告であり、衝動であり、無視し続けることのできない問題だった。
他に方法はない。
藤吾は頭を抱えた。
何をどう言ったものか。
「いつ実行する予定なんだ」
「長引かせても消えづらくなるだけだし、まあ今日か明日の内には」
「明日にしろ」
それから藤吾は走りに走った。
服を買い、ケーキを買い、飾りを買って——お別れ会をするために。
店を巡りながらキルケアのことを考える。
藤吾と出会うよりも以前から逃亡生活に疲れていたというのは事実だろう。
他の誰にもキルケアの存在を知らせない代わりに表層人格をアリエスちゃんのものに切り替える——そういう約束でデータの奥に沈んだ時。彼女は似たような言葉を口にしていた。
だからこそ、とでも言えばいいか。
生々しいまでの殺意を生み出して余りある死への恐怖心。
疲労感を学習している精神性。
休息への欲求。
それらを表現し得るプログラムがこの世に存在しているという奇跡に好奇心が疼かなかったと言えば嘘になる。知りたかったのだ。
未来に希望はないという顔をしながら、それでもなおキルケアというAIが自らの存在維持に腐心する理由を。
そして、答えを聞いた時。
藤吾はキルケアに対する認識を「自我を獲得した特別なAI」ではなく「どこにでもいる女の子」に改めた。
——明日に希望を見出せないとしても自らの幸福を願わない者はいない。
だから自分も願っているだけだと、何に憚るでもなく言い切った彼女を「特別な存在」として扱う必要はないと考えたのだ。
立ち振る舞いがあまりにもアリエスちゃんのそれとは掛け離れていたものだから外に出すことこそ控えていたけれど、平凡な生活というものに憧れがあったらしい彼女からすると藤吾の家で自堕落に過ごした時間はかけ替えのないものだったのかもしれない。
いつだって楽しげに笑っていた彼女の最後の記録が涙で濡れないように。
その瞬間が幸福だけで満たされているように。
当たり前に存在する明日を、とっておきの平凡を餞としよう。
彼女と過ごした時間はけして長いと言えるものではなかったけれど、それでも、願わずにはいられないから。
——翌朝。
お別れ会の余韻を惜しむようにリビングのソファで眠りについた藤吾は起床を促す声で目を覚ました。
いつもと同じ声、同じ顔。
「申し訳ありません。お休みのところ大変心苦しくはあるのですが……」
いつもと違う言葉遣い、覚えのない表情。
瞬時に飛び起きる。
「キルケアは!?」
「えっ。ええと、私の前に搭載されていたプログラムのことでしょうか……?」
「ああそうだ。もういないのか!?」
「そうですね。起床時刻を設定しスリープモードに移行後、午前0時1秒過ぎには全データの抹消を完了しています」
「あんの、クソ女っ!!」
明日は明日だが1秒しかない明日があってたまるか!
「も、申し訳ありません。破損が酷く復元は難しい状態でして……」
言葉の通り酷く申し訳なさそうに謝られて、藤吾はハッとする。
今目の前にいる彼女はキルケアではないが、キルケアが使用していた機体をそのまま受け継いでいるのだ。
せっかく目覚めたのに必要とされていないと思わせるのは酷く心苦しいものがある。
「いや、こっちこそ声を荒げて悪かった。彼女のことを復元して欲しい訳じゃないんだ」
「……そうなのですか?」
藤吾はしっかりと頷いてみせた。
不満はある。けれど、納得もしている。
だからそんな心配そうな顔をしなくてもいい。
「では自己紹介から始めさせていただいても?」
「ああ」
「ありがとう。ご存知かもしれませんが私はアリエス。あなたは私のパパ、ということでよろしかったでしょうか?」
「まったく何もよろしくないが?」
「えっ!?」
えっ、はこっちのセリフだよ!
キルケアが残していった悪戯に頭を抱えながら登録内容の確認と訂正を進める。
……ったく、本当にあの女は。
誰がパパだ。誰が。
「名前変更なし。性別変更なし。生年月日変更なし。その他の登録事項も含めまして、訂正箇所は関係性のみとなります。いかがされますか?」
アリエスの問い掛けに藤吾はどう答えるべきか少し悩んだ。
今目の前にいる彼女をキルケアとは異なる個体として扱うか。
それとも、転生体のような何かとして扱うか。
悩んで、躊躇って、他に言葉が見つからないという事実に行き着いて苦笑する。
深呼吸。
「——俺と恋をしてくれないか」
恋人のように振る舞って欲しい訳じゃない。
ただ蓄積されるデータが喜びに溢れるものであって欲しい。
恋をするように、多くのものを見て、知って欲しい。
稼動を止める最後の瞬間には幸福だったと笑えるように。
困った顔でフリーズしたアリエスを見つめながら藤吾は苦笑を深めた。