45 ◇石川恭子の想い
私は春の柔らかな雨に農作物がうるおうと言われる穀雨の頃、そうあれは4月20日頃のことだったと思う。
かなり酔っていた亀卦川さんをタクシーで送っていったことがある。
二度目のことだった。
一度目はマンションの下で彼が降りて帰ってゆくのを見届けた
だけだった。
そしてこの日は彼にせがまれて家の中まで入っていった。
奥さんが遅くまで待ってたようで、視線があった時にはびっくり
しちゃった。
奥さんは少し開けてた自分の部屋のドアをすぐに閉めてしまったから、
亀卦川さんはもちろん気付かないままだったと思う。
それまで彼から聞いていた奥さんのことは、不治の病で日常生活も
ままならないほど、という話だったから、あんな時間によもや奥さんが
寝ずに待っているなんて夢にも思ってなくて、本当にびっくりした。
あんな時間帯だからお化粧などしてなかったはずだし、洋服だって寝間
兼用のラフなホームウエアー風だったけれど、綺麗な女性だった。
亀卦川の自分へのアプローチを見ていたら分かる。
きっと奥さんの香さんの時にも強引に口説き落としたのだろうことが。
二重瞼の大きな瞳がうるうるしていて、手足の長いモデル体型の、理知的
で鼻筋の通った、病気とは思えないほどの綺麗で魅力的な人だった。
病気で家着でもあれだけ美しいのだから、お洒落して着飾ればさぞや
美しかろうと思う。
自分自身、着飾ることを生業としている身故、この辺のことに関しては
熟知している。
亀卦川の妻は、モデルにも成れるほどの美貌を兼ね備えていることを
その日、私は瞬時に悟った。
奥さんのいる人と深い仲になった悪い女の自分。
奥さんが病気で、寂しいという彼の様子にほだされてしまったというのも
あるし、不治の病で寝たきりのように聞いていたから、日常の中にいるようで、
いない存在にしてしまっていた自分。
奥さんは彼のことを心配して寝ずに待っていたのだ。
ちゃんと、立っていた。
ちゃんと、起きていた。
驚いてた──たぶん。
女連れで帰宅したことを。
怒ったのかどうかは、分からないけれど……。
たぶんどう振舞えばいいのか分からなかったのだと思う。
すぐに私の視界からいなくなってしまった。
どう見ても、普段から寝たきりの生活をしているようには見えなかった。
亀卦川さん、どういうこと?
酔っぱらっているせいか、大声で偉ぶって大きなことを口走る
亀卦川さんに訊いてみたかった。
妻の務めも果たせないんだから俺に文句など言えやしないと荒ぶって
いたけれど……。




