2話
「さくら、そしたらお母さん行ってくるから。帰ってきたら、晩御飯の支度お願いね。味噌切らしてる分は、錦に頼んでるから。」
ぱたぱたと玄関に向かう母の足音に、私は歯ブラシを加えながら「はーい。」と声を上げる。
ドアの閉まる音がして、口の中の唾液を洗面台に吐き出した。歯磨き粉と混じった唾液は一部赤く染まっている。最近、力を入れすぎてよく出血するのだ。
うがいを何度か繰り返していると、末っ子のタツが朝食を終えて洗面所へ入ってくる。
「姉ちゃん、遅いよ。早くあけてくんないとユウキが迎えに来ちゃう。」
何度も入り口で足踏みをして、焦らせてくるもんだから、今日の寝ぐせ直しは諦めてさっさと弟に場所を譲る。
キッチンに入ると、もう一人の弟である錦が学ランを羽織りながらパンをくわえていた。
「おはよ。今日味噌忘れないでね。」
錦は眉を顰め「めんど。」とぼやく。私はそれを無視してグラスに牛乳を注ぎながら、冷蔵庫の中身からできる夕食のメニューを考える。
「さくら、今日コロッケ食べたい。」
身支度を終えたタツが、顔をのぞかせてかわいらしくおねだりする。
「仕方ないなあ。何時くらいに帰るの?」
「やった!今日は塾だから6時半くらいだと思う!」
そう答え終わると、タツは急いでランドセルを背負って、玄関に駆け出していく。そのまま間髪入れずドアが開いて、閉まる音がして、そのうちに外から小学生たちの騒ぎ声がし始める。その騒ぎ声に朝を感じていると、錦がうげ、とベロを出す。
「うわ。さくら絶対コロッケ焦がすじゃん、最悪。」
「うっさいな。嫌なら自分で作りなよ。」
錦は首をすくめながら食べ終えたパンくずを指で集めて皿にのせる。
「あ、そういえば父さん。今日接待だからご飯いらないって言ってたわ。父さんラッキーだな。」
ニヤニヤしながら食器を流し台に運んできた錦の肩を思い切りはたいて、私も朝食を食べるためにテーブルについた。
「じゃ、行ってきます。期待してるわ、うまいコロッケ。」
さっきの肩の復讐に頭をはたかれた。
睨みつけようと思ったらもうそこに錦はおらず、玄関でドアの閉まる音がした。いつも奴は逃げ足が速い。
朝食とお弁当は母の当番・夕食は私か弟の錦で交代制だ。悔しいかな、弟は料理がうまく、私はさほどうまくない。だから、私の当番の日は決まって錦から嫌味が飛んでくる。
早番の父、日勤の母、小学生の龍紀、中学生の錦、の順に家を出ていき、朝のこの15分が唯一、1人で穏やかに過ごせる時間だった。
カウンターキッチンに飾られた家族写真を見ながら、あまり似ていない家族たちに思いを馳せる。
母と、お父さんは再婚だ。まだ私が6歳で、錦が3歳の頃だ。
初めて新しい家族を紹介された日、お父さんは私と親睦を深めたくて、テディベアを買ってきてくれた。私もとてもそれが気に入った。しかし、父の後ろから出てきた錦がそれを私よりも気に入ってしまい、泣くや、わめくやで仕方なく譲る形になり、錦のものになっていた。あの日から錦は何かと厄介な弟だ。
元々、私の本当の父と母は大恋愛の末の結婚だった。その反動か別れ方も大変激しいものとなったそうで、母は1歳の私と父の借金を抱えながら5年間踏ん張った。そして、今のお父さんと出会った。
お父さんはといえば、高校生から付き合っていた錦のお母さんと結婚をして、錦が生まれるまでは幸せな毎日だったが、錦が1歳の時、奥さんが交通事故で死んでしまい、そこからは一人で錦を育てていたらしい。職場に営業に来た母に一目ぼれをしたお父さんは、お互いバツイチで子持ちというところにも強く惹かれたようで、猛アタック。母はそれに折れ、交際後は逆に母もベタ惚れだったので再婚までのスピードは速かった。
錦はまだ3歳だったこと、母親が昔からいなかったことですぐに母に順応し、再婚のことも忘れていった。私もそれに急かされるような形で、お父さんに少しずつ慣れていった。
確か錦が小学生に上がるころ、「お姉ちゃんだから。」という抑制にストレスがたまり、母をめぐってケンカしたことがある。
「ママは錦のじゃない!さくらのママなの!」
それを聞いた母は真っ青な顔をしてそのまま隣の居間まで私の手を引いて連れていき、頬をぶった。
「錦は何も覚えてないの。そのことは言っちゃダメ!ママは2人のお母さんだし、パパは2人のお父さんなのよ。これまでもこれからもずっと。」
今となれば、母の気持ちもわかる。本当の母親になれたタイミングで、錦が死別した母親の存在に気づき、そちらに気持ちを引かれてしまうのがきっと怖かったのだ。死別してしまった母親というのはきっと、借金に浮気を重ねて生き別れている私の父とは存在の大きさが違う。
すごい剣幕でぶたれて怒鳴られた私は、ぴたりと泣き止み、唖然とした。私は何もかも覚えているから、錦も覚えているものだと思っていたし、両親の間でタブー視されていたなんて、思ってもいなかった。何より、母は私からの愛情よりも、錦との関係性を取ったのかと子供心に絶望した。
リビングに戻っても、錦は「ママはぼくとさくらのママなのに、変なの。」と私の言葉を正しく理解していることはなく、私はただのぶたれ損だと、憤りながらベッドで泣いた。
結局、私に我が家の禁忌が染み込んだ頃、母のお腹に龍紀が出来た。再婚という事象は我が家でますます繊細さを帯びて、奥深く奥深くへと誰にも覗かれないよう沈み込んでいくことになった。
愛すべき、血のつながらない弟と、父親違いの弟、そして他人のお父さん。我が家はほぼ他人で出来ていて、私はその秘密の共有者に仕立て上げられた。写真を見るたび、いつか弟たちが気づいてしまう日を想像する。
「僕たちって、姉ちゃんと似てないよね、ほんと。」
そんな言葉が出たとき私はどんな表情をして嘘をつけばいいんだろう。本当のことを知った時、弟たちはほとんど他人の私を家族とみなせるのか。
ため息をついて、時計を見るともう家を出ないといけない時間で、食器を洗う暇もなく、流しにつけてそのまま玄関から飛び出した。