1話
水槽の中で揺れる水草をかき分けて、尾びれの長い金魚が泳いでいる。
私はそれを眺めながら時々、金魚の気持ちを考えたりする。気持ちよさそうに見えるあの尾びれは、当人にとっちゃ案外重たくて煩わしい枷だったりするんだろうか。
今、覗き込んでいる私のことは一体どう見えているんだろうか。
「おい、三ツ尾さくら。しれっとさぼってんじゃねーよ。」
私の箒を動かす手が止まっていることに、バイト仲間の氷見がついに気が付き声を上げる。
「金魚がね、こっちに話しかけてきて。」
私の軽口に深いため息をつきながら、氷見はサクサクと閉店作業を進めていく。私も水槽から目線を逸らして、手を動かし始める。
「お前ってさ、ほんと、すらすらと嘘つくよな。ある意味すげえよ。」
キッチンのモップがけが終わったのか、彼はひょっこりとカウンターから体を乗り出して拍手をする。
「私も自分で尊敬するよ。」
ぼそっと漏れた本音は、どうやら向こうまでは届かず、氷見はこっちを見て手を止めたまま私の返事を待っている。私は床の集めた埃を塵取りに入れた。彼は流されたと思ったのか、「無視すんなよな。」と、またカウンターの向こうに戻っていく。
この小さな喫茶店は、おじいちゃんと同じ年代の、小柄で海外の妖精のような雰囲気のあるマスターが1人で運営していて、商店街のはずれに昔からある店だ。高校1年の秋に、求人募集に目がとまり、そのまま面接を受けたら、その場で採用された。
「僕のことはマスターって呼んでね。」
マスターは笑うと口もひげも眉毛も目も、総て細い一本線みたいに見えて、それを見るのが好きで何だかんだ2年も働いている。
受験シーズンが近づき、シフトの数を徐々に減らしてもらっているうちに、人員補充として気が付けば、この氷見やまとが採用されていた。
「あんたって、ほんとのこと中々言わなさそうな顔してんね。」
初対面の挨拶で、視線をがっちり合わしながら、彼に核心を突かれた私は、「そんなことないよ。」とこいつに1個目の嘘をついた。そこからの嘘はもう数えきれない。
「そろそろ金魚の水槽洗ってやんないとだな。」
窓際に飾られた金魚の水槽は、緑の苔が増え始めて、すこし濁ってきている。
「来週あたり洗ってあげてよ。私、来週はほとんどいないから。」
これも嘘だ。来週は珍しく水曜、金曜、土曜とシフトが入っていた。
「わかりきった嘘いらねえよ。俺ももうシフトもらってるからお前のシフト知ってんだよ。」
氷見はカレンダーを睨みつけながら、「水曜あたりかな。」と、候補日を考えている。
濁り始めた水槽の中で金魚はパクパクと何度も口を動かし、空気の泡が水面に引き寄せられて、パチンと割れた。私も金魚の真似をして口をパクパクと動かした。それを見て、氷見がまた大きなため息を漏らしていた。