????/??/?? 異変
目覚めは大きな違和感だ。
何もない暗闇をあいまいに認識し、徐々にそこへ赤みを帯びた光を感じる。包み込まれるような暖かさの中で、手先、足先に感覚が繋がり全身を一体とする。自分と外との境目が意識できてようやく体内にあったまどろみという名の無意識はいらないものだと気づかれ、優しい暗闇は一気に崩壊し、世界と自分とが別個であると意識でき、そして、いよいよ固く閉ざされていた天の岩戸がゆっくりと開かれる。
(ここは、どこだ?)
一番初め、疑問が浮かんだ。
思考にかかるモヤがどんよりと重く、目覚めがすっきりとしたものにはならない。取り戻したばかりで若葉マークをつけたよちよち運転な視界は精一杯見れる範囲の情報をかき集めているのだが、それを受け取る脳が全くもって働くそぶりを見せない。
知らない天井、知らない部屋に、知らない景色、知らない、知らない、知らない……、目に映るモノを全て、頭の中に書き込んでいるが記憶と全く一致しない。徐々に自分が見ているものが何なのか、居る場所がどこなのか、分からいという事で頭がいっぱいになる。何かしら答えにたどり着こうと懸命に脳みそは手がかりとなるものを求めて、もっと情報を寄越せと他の五感に頼り始める。
自分の体が異常に重い、動かせない。縛られているでもなく、麻痺しているのでもない。ただ自分の腕が重いだ。
さび付いた機械、歯車が噛み合わないおもちゃの様なぎこちなさで、ボキボキっと小さくない音が響かせて、何とか頭を動かして視界を広げる。わずかに動かせてようやく知りえた新たな世界の情報を受け取り、さらなる混乱が生み出される。今、自分が着ている服も、寝ているベッドも、かぶせられているシーツも、部屋の匂いも、全く知らないものであった。
本当に何が何だかわからない状況の中で、それでも仕事をせねばと働く脳みそは、未知なるものを、知らないことを一つ一つ検証しようと記憶の奥の奥から洗いざらいひっくり返して、別のモノに結び付けてくれた。未知は不安、未知は恐怖、ここまでかき集めた情報をもって一つの感情、方向に舵を向ける。
溢れんばかりの知らないもの、知らない世界を相手にして、私はそこで一人幼子のように震え上がった。既に決壊間近な危険水域の感情を懸命に抑えつけて、ギリギリのところを堪えていたが、たった一声、いや、音にそれはあっけなく決壊した。
―ピンポン!
上から軽妙な電子音が響いた。
「わあ! あああ、あて!」
ただの電子音にここまで驚いて、叫び声をあげた人間は古今東西どこを探してもいないだろう。なんとも言えない自分でも信じられないような情けない声をあげて、私はその場を逃げるようにあれほど重いと感じた体を無我夢中で動かして、いや、とにかく逃げ出そうと火事場の馬鹿力を発揮して、広くないベッドの上から転げ落ちた。
感じたのはわずかな浮遊感、そして大きな音と衝撃、不思議と瞬間に痛みは感じなかったが、私の脳みそは既にその他もろもろで処理の関係でスペックを大幅に逸脱していた。
「あああああ! 」
とにかく誰に聞かせるでもない大きく情けない声を上げて、どこなのか知らないまま逃げ出そうと体に力を込めて、ままならない自分の体にただただ焦り、這ってでも進もうと更に力を込めた瞬間、また天上からの声に驚かされた。
―多田和人様の病室にて異常が検知されました。担当医師、看護師は至急、患者様への対応をお願いします。繰り返します。多田和人様の病室にて異常が検知されました。担当医師、看護師は至急、患者様への対応をお願いします。繰り返します。……
どこか聞き覚えのある声が、そう先ほど、聞いたあの声が自分の名前を繰り返す。病室? 医師? 看護師? 自分の名前以外の単語をよくよく聞くと自分がいる場所の正体が何となく理解できた。瞬間に、記憶が、パッと瞬間的に結びついた。
(そうだ、病院だ!)
得られた情報はとても大きかった。感じていた様々な問題が一気に逆転する。
知らない天上は清潔な病院の天井で、知らないベッドは清潔な病院のベッドで、先ほどまでの一人で抱えていた不安も恐怖も、急に滑稽で馬鹿らしいものとなってしまった。あまりにもひどい間抜けをさらした自分が恥ずかしい。
もし誰かに聞かれていたら、見られていたら、そこまで考えて、ズキッと刺すような痛みが左の手首から感じる。
先ほど無理に動かしたときに痛めたのか、それとも落下の際の衝撃なのか、刺すような痛みはきっちりと時間経過した分だけ、痛みが全身に響いた。
ズキズキと感じるそれは、だんだんと腫れあがり熱いと感じるようになり、遂にはそこに手を触れる事すら、困難になる。
―繰り返します。多田和人様の病室にて異常が検知されました。担当医師、看護師は至急、患者様への対応をお願いします。繰り返します。……
天上の呼びかけの電子音、コールの音は響くのだが、誰かが近づく、駆けつける気配がない。そもそも誰かが走るはおろか、歩くも、話し声も、風の音がしない。
いよいよもって、痛みがひどくなる。奥歯を噛みしめ、また瞬間的に、ベッドの上にあるコールボタンを思い出した。直通のそれは必ず連絡が取れるはずである。
何とか体を起こし、痛みをこらえて、そのコールボタンを押そうとベッドの上に体を動かして気づいた。
「え?」
部屋の外の景色が違っていた。
―多田和人様の病室にて異常が検知されました。担当医師、看護師は至急、患者様への対応をお願いします。繰り返します。多田和人様の病室にて異常が検知されました。担当医師、看護師は至急、患者様への対応をお願いします。繰り返します。……
繰り返される謎の声、腫れあがり熱くうずく左手、本来はもっと気にするべきことがあるのだが、窓の外の景色に意識が全て奪われた。
世界が森になっていた。
「え? え、えぇ……、」
自分が入院した病室の風景は、今、見ているものではなかった。
家も、ビルも、建物も、何もない。代わりに見たこともないような太い幹の木々が何本も立ち並び深い森が見え、僅かに見える空はその緑を際立てるように真っ青な色であった。
「こ、ここはどこだ? 」
混乱して、落ち着いて、また心動かされて、全く知らない場所にいるという異常事態だけが分かった。落ち着いた心に波風が立ち、湧きたつ感情が心を黒く占領してしまう。
ー担当医師、看護師は至急患者様への対応をお願いします。
部屋に響く合成音のアナウンスはいきなり終了した。患者の異常に対応する人は遂に現れないまま、何の成果を上げることなく、事情を説明することなく、無責任に仕事は果たしたと、アナウンスは終了し、自分は知らないここに置き去りにされてしまう。
呼びかけの終了に、呆然とする余裕はなかった。左手の痛みは全身を駆け巡り、嫌な汗が背中に濡らすのが分かる。ベッドの上、あるはずのコールボタンを探す。しかし見つからない。何から何まで思い通りにいかない。
バクンバクンと心臓がなる音が聞こえる。冷たい汗が背中をつたい流れ、口が異様に乾く。真っ黒に心が全てが塗りつぶされる。
全てが異常なのだ。
部屋の中、外からも音が聞こえない。あれほどアナウンスの音が鳴り響いたのに患者の異常に駆けつける足音が聞こえず、他に誰かがいる気配がしない。
怖い。
明確な恐怖。未知から不安、想像できる恐怖ではない。何が起こるか分からないことが恐ろしい。
ー多田和人様、現在、担当医師、看護師への連絡が取れません。医療介助をご利用されますか?
天上のアナウンスの内容が変化する。先ほどまでの外に向かって発信されたものから、こちらに問いかける内容に変化した。
連絡が取れない? 医療介助とは何だ?
渦巻く疑問にどんどんと増す痛み。内容について考えられる余裕がない。
ー多田和人様、現在、担当医師、看護師への連絡が取れません。医療介助をご利用されますか? 多田和人様、現在、担当医師、看護師への連絡が取れません。医療介助をご利用されますか? ……、
こちらがどんな状況名なのか、少しも考える様子もないまま、何度も繰り返される合成音のアナウンス。
だんだんと大きくなる鼓動とそれに合わせる痛みに堪え、耐える。塗りつぶされた心に、生まれた波紋。既に一面が黒く染めあがったそこに投げ込まれたそれに頼った。
「り、利用する!」
-多田和人様からの医療介助申請が出されました。医療関連事業法緊急治療に関しての特例に照らして、医療介助の申請を行います。多田一人様の個人……
アナウンスが良くわからない言葉を話し、その意味を考える間もなく、ブーンと少し甲高い駆動のモーター音がわずかに聞こえ、いきなり私の体は空を浮いた。