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ちっとも凄くない 寺生まれのKさん

ちっとも凄くない寺生まれのKさん 『始まりはクリスマス』後編

作者: 満月すずめ

「どういうことか説明してくれる?」


 湯気を立てる湯飲みを前に、依歌が半眼になって俺と人形のような少女を睨み付ける。

 少女――鬼瓦怜は湯飲みを傾けて、その肌のように白い息を吐いてそっと置いた。


「それでは、もう一度説明させて頂きます」


 背筋をピンと伸ばしたその姿は、臆する所など一つもないと言わんばかりだった。




 鬼瓦の話を一言でまとめると、『吉備綱の力を絶やすな』ということになる。

 どうやら総本山の爺さん婆さんは、俺に力が受け継がれなかったのが相当堪えたらしい。


 このまま本家の力が消えてしまうのではないかと恐れ、あれから二年間、ずっと喧々諤々とした議論を繰り返したようだ。

 また適当な女と結婚して、俺の子供まで力がなければ、吉備綱の血に宿る力は枯れてしまうかもしれない。大層な言い分だが、信心深くアレな業界の爺婆に理性的な答えを出せという方が無理だろう。

 俺の母親は、普通の人だったらしい。それが、連中の不安に拍車をかけた。


 手をこまねいているわけにはいかない。そして考えた結果が、『力ある者を嫁がせる事』だった。

 同じ宗派、しかも『裏』に関わる身内の中で、『力』ある娘に俺の子供を作らせる。そうすれば、『吉備綱』の力も受け継がれるだろうという目論見だ。

 安直極まりないと思うが、切羽詰った爺さん婆さんにとっては起死回生の一手だったのだろう。そして選ばれたのが、俺と同い年の鬼瓦怜という少女だった。


 何でも元々、親父が無関係の素人と結婚した事は悩みの種だったらしく、俺に娶らせようと何人か見繕っていたらしいのだ。それこそ俺が園児だった頃から。

 鬼瓦怜は、そんな中の一人だったという。


 俺の知らない所であれこれ勝手に決められるものだ。仕方ないと言えば仕方ないし、爺婆達の言い分も全く分からないとは言えない。

 寺を継ぐ期待の新星が出来損ないだったなど、青天の霹靂以外何物でもなかっただろうから。


 煙草が吸いたくなった。


「……それが本当だって証拠は?」

「ここに秀徳様のサインと印があります」


 じっとりとした目つきで疑う依歌に、鬼瓦は封筒を取り出して一枚の紙を開いてみせる。

 そこには確かに、先程鬼瓦が口にした内容と相違ない文章が記載してあり、親父の署名と印鑑が捺されていた。


「それでも信じられないのであれば、秀徳様に連絡して直接聞かれた方が宜しいかと」

「……信じらんない」


 超然と言い放つ鬼瓦と、呆然と紙に目を落とす依歌。

 ポケットの中の赤マルとライターを確認し、話の区切りがついた所で席を立つ。


「ちょっと、どこ行くの」

「……いや、煙草」


 依歌に引き止められ、何故か悪いことをしている気になりながら答える。

 炬燵の天板を叩いて、依歌が詰め寄ってきた。


「今、仁の話をしてるんだよ!? 分かってる!?」

「あぁ、うん、まぁ」

「まぁ、じゃなくて! 何でそんな平気な顔してるの!? 許婚だよ!? 結婚だよ!?」

「あー……まぁ、連中ならそのくらいするかなぁ、と思って」

「だーかーらー! そういう事じゃないでしょ!?」


 烈火の如く怒る依歌に、どう返したものか思い悩む。

 依歌の言うことは尤もだ。大体この話を聞いたら皆似た反応をするだろう。


 ただ、総本山の連中がこの手を取ってくるのは考えられる話で、親父の署名や印もあるなら疑う余地はどこにもない。

 親父がどういうつもりかは分からないが、何かしら迫られたんだろう。サインしないなら再婚して子供を作れ、とでも言われたのかもしれない。


 寺を継ぐと決めたのはいつだったか。周囲の期待の視線を集めるほど、『そういうもの』なんだと飲み込む事も増えた。

 この寺に生まれて、しかも力がない以上、これも『そういうもの』なんだろう。

 だから、怒る依歌に何を言えばいいのか、俺には分からない。


「失礼ですが」


 鬼瓦の良く通る声が、依歌の動きを止める。

 二人して首を向ければ、鬼瓦が凛とした姿勢で依歌を見据えていた。


「島原さんの仰るとおり、これは仁様の問題です。そして、僭越ながら私の問題でもあります。ですが、島原さんの問題では御座いません。仁様にお怒りになられるのは、筋のないことと思います」


 ぴしゃりと言い切られ、依歌が言葉に詰まる。

 鬼瓦と顔を向かい合わせ、眉に潰された瞳が揺らぐ。


 やばい。依歌の泣く前の合図だ。大泣きすることはそうないが、ぽろぽろと小さく涙を零すのだ。

 あれを見ると無性に胸が痛くなるので、出来れば見たくない。


「一服してすぐに戻ってくる。別に他人事のつもりはないから」

「……うん」


 顔を離し、服を握っていた手を解いて、依歌が炬燵に戻る。

 このまま二人にするのもどうかと思ったが、俺も限界が近かった。


 後ろ手に障子を閉めて縁側に出る。

 雪の降る夜は寒かったが、贅沢を言っていられる状況でもない。

 一本咥えて、火をつける。ぽっと点った赤さが、寒さを少しだけ和らげてくれる気がした。


 許婚とは、ほんとによくもまぁやることだと思う。

 そこのところ、鬼瓦自身はどう思っているのだろうか。

 見た所、多分俺と同じ気がする。『そういうもの』として理解しているのだろう。

 それとも、彼女は違うのだろうか。


 俺は少なくとも、『そういうもの』としてもう飲み込んでしまっていた。

 別に特別なことだなんて思っちゃいない。この世にどれだけ、自分で考えてルールを守っている奴がいるだろうか。

 ルールだけじゃない、他にも色々。『そういうもの』だから守ってる奴が殆どだと思う。

 そんなこと一々考えない。学校で勉強するのは当然だ。学歴が大事なのは当然で、コミュニケーションが大事なのは当然で、人それぞれ違うのも当然だ。


 どれもこれも、真剣に考えた事がある奴なんているのか。

 『そういうもの』だからと、飲み込んでるのが殆どじゃないのか。

 これも、『そういうもの』だ。俺の生まれ上、どうしようもないこと。


 それに、許婚というだけで結婚を強制させられているわけでもない。最終的には本人達の意思次第だし、最悪婚姻届にサインさえしなきゃいい。

 鬼瓦が俺と同じ類でもない限り、なんだかんだと理由をつけて破談になるだろう。結婚なんてのは好きな奴とするもので、人に決められてするもんじゃない。


 もし、俺と同じ類だった場合は。

 実際、婚姻届にサインしない理由が俺にあるかと言われると、何とも言えない。『そういうもの』に表立って逆らうには理由が必要だ。


 その理由が、果たして俺にはあるんだろうか?


 親父の言葉が頭を過ぎる。


『仁、お前も男として覚悟を決めなきゃいかん時が来る。その時はしっかり決めるんだぞ』


 こういうことか、と今更理解した。


 決めろ、と言われたって。自分の人生について、自分で決めた事なんていくつあっただろうか。

 寺を継ぐ事以外、都合の良さだけで選んできたような気がする。

 その寺を継ぐ事だって、出来損ないと分かってからは惰性なのに。


 紫煙を吐き出して、もう一度深く吸う。

 そういやまだ晩飯を食ってない。飯前に吸うのは味覚が鈍るから止めようと思っていたのに。


 溜め息と共に吐き出し、今更同じだと煙を味わう。

 赤マルのタールの重さが脳髄に染みる。ショッピは重すぎて駄目だった。

 フィルターの手前まで火がきた。持ってきた灰皿に押し潰して、二本目は我慢する。


 一服したら戻ると約束した。ライターとまとめてポケットに突っ込んで障子を開ける。

 居間のやたらでかい炬燵では、鬼瓦と依歌が無言で向かい合っていた。


「あ、仁。お帰り」

「おぅ」


 二人の間に入るように横から入って、温くなったお茶を飲む。

 二人とも何も言わずに、じっとこちらを見つめてきた。


「あー……」


 何を言うべきか考える。

 とりあえずは、本人の意思確認をするべきだろう。


「鬼瓦さんは、これからどうするの?」

「怜、と呼んで下さい」


 柔らかく微笑んで、胸に手を当てる。

 依歌の額に角が生えた気がするが、気にしない事にした。


「分かった。それで、怜はこれからどうする?」

「こちらでお世話になります。学校も三学期から仁様と同じ高校の一年生になります」


 断る理由もないのでそう呼ぶと、とんでもない答えを返してくれた。

 三白眼になってこちらを睨もうとした依歌が、目を丸くして怜の方を向く。


 忙しい奴だ。いや、まぁ、無理もないけど。

 こちらでお世話になる、高校も一緒、ということはつまり、


「ちょ、ちょっと! 何それ、一緒に暮らすってこと!?」

「はい。許婚ですから」


 声を荒げる依歌に、怜があっさりと肯定する。

 しかも、期間制限はなし。高校を卒業したらどうなるかは分からないが、それは俺の進路についてもいえることで。もしも進路が決まったら、ついてくるつもりかもしれない。

 一応は想定の範囲内だったのでお茶を啜っていると、


「仁! 何で呑気にお茶飲んでるの!?」

「まぁ、そうだろうなと思ってたし」

「そういうことじゃないっ!」


 暴れだす依歌にまた怜が口を出しそうになったので、先んじて口を開く。


「どうせ親父の了解も取ってる。それに、帰すにしたってどこに言えばいいかも分からん。総本山は無視するだろうし、警察は流石に駄目だろ」

「……そりゃ、そうだけど」


 依歌には悪いが、多分そのあたりは対策されている。村社会ならではの罠だ。

 意気消沈する依歌を横目に、気になっていた事を怜に聞く。


「荷物はどうした? こっちで全部買い揃えるなら、明後日以降なら手伝えるが」

「いえ、明日荷物が届くはずです。他に必要なものがあれば、追々」

「そっか、分かった。部屋は……まぁ、好きなとこを選んでくれ」

「有り難う御座います」


 深く頭を下げる怜に頷いて、湯飲みを傾ける。

 何にせよ、すぐにどうこうということにはなるまい。怜がどんな腹積もりだったところで、ある程度やってみせなければ総本山への面子も立たない。

 願わくばこの話に不満を抱いていてくれると助かるのだが。


「……仁さ、何か順応早くない?」

「別に……普通だろ」


 我ながらどうかと思う言い訳だったが、他に何も思いつかなかった。

 案の定、半眼になった依歌がねちねちと攻め立ててくる。


「ふ~ん? いきなり許婚の美少女が現れて、一緒に暮らすっていうのに眉一つ動かさずあっさり受け入れるのが普通なんだ~?」

「普通じゃないかもしれんが、普通だ」

「普通じゃないんじゃん!」


 依歌に的確な突っ込みをされるとは思わなかった。

 炬燵で丸まりながら、依歌は何かを訴えるように見上げてくる。


「もっと何かないの? 仁はどういうつもり?」

「何か、と言われても……別に何も」

「じゃあ、このまま結婚してもいいんだ?」

「……それは、まだ分からない事だろ」

「許婚ってそういうことでしょ?」

「本人達の合意が大前提」

「じゃあ、鬼瓦さんは?」


 ついに切り込んではいけないところに切り込んでしまった。

 依歌は拗ねると、こうして地雷原に容赦なく突っ込んでいく。

 もう少し考えてものを言ってほしいと常々思う。


 依歌に尋ねられた怜はまさに胸を張りながら威風堂々と、



「私は、仁様に全てを捧げるつもりでここに来ました」



 笑みすら浮かべながら言ってのけた。


 余りに何も包み隠さないその様に、開いた口が塞がらない。

 ふと見れば、依歌も唖然と怜を見つめていた。


 想像していなかった状況に、一瞬混乱してしまう。

 彼女は、怜は、この話に不満があるわけでも、俺と同じ類でもない。

 何故かはさっぱり分からないけれど、むしろ進んで話を受けた口だ。


 一気にどうすればいいか分からなくなった。

 地雷は爆発した。煙草が吸いたい。煙草を吸って、何もかもを頭から追い出したい。


 何も言えずにいる俺と依歌。胸を張って微笑む怜。

 時が止まったような居間の中。動けずにいる俺達を救ってくれたのは、能天気な丹科さんの声だった。



  ※           ※            ※


「っぷはー! やっぱ仕事の後のビールは最高だわ~!」


 泡のついた口をぐいっと拭って、丹科さんがジョッキを掲げてみせる。

 助けてもらった分際で何を言えた義理もないが、控えめに言っておっさん臭いと思う。


「仁く~ん、おかわり~」

「……どうぞ」


 缶から注ぐと、実に満足そうに頷いてまたもジョッキを呷るのだった。




 保育園を閉めた丹科さんのおかげで、とりあえずその場はなし崩しになって夕食を摂る事となった。

 怜も含めて四人の食卓は、口では言い表せない緊張感のようなものがあった。


 食後は依歌は食器洗い、怜は家の中を見て回りたいというので、案内しようとしたら丹科さんに捕まってお酌をさせられている。

 食事中の雰囲気は当然丹科さんも気づいており、お酌ついでに事のあらましを説明させられた。


 開口一番言われたのは、


「仁君もやっぱ若かったんだねぇ」


 という、意味の分からないものだった。


 もうとにかく煙草が吸いに行きたいのだが、丹科さんがそれを許してくれない。ビールを飲むペースがいつもより早いのは、どういうことだろうか。


「それにしても、仁君も隅におけないよねぇ。二股かぁ」

「どう考えたらその結論になるんですか」

「えぇ~? だって鬼瓦さんと依歌ちゃん、両手に花じゃない?」

「適当言わないで下さい。今日知ったばかりの許婚と幼馴染です」

「ほら、そういうとこ! そういうとこよ、仁君?」

「何がなんですか……」


 今日の絡み酒は嫌に胃に来る。まるで総本山に行く前の車の中みたいだ。

 何が楽しいのか、丹科さんはニヤニヤしながらジョッキ越しにこちらを見る。


「いや~、でも許婚とは恐れ入ったわねぇ」

「……まぁ、そういうことしそうですから、あの人達は」

「それで、なんだっけ? 鬼瓦さんはもう準備オッケーなんだっけ?」

「……おっさん臭いですよ」


 ついに言ってしまったが、丹科さんは気にした風もなくジョッキを飲み干す。

 もう一缶開けて、差し出されたジョッキに注ぐ。


「で、どうするのかな~、仁君は?」

「別に、どうもしません」


 意味深に鼻を鳴らして、丹科さんはスルメを噛んでビールで流し込む。

 どう考えても胃に悪い食い方だが、注意するのは止めておいた。これ以上絡まれるのは御免だ。


「まぁ、いいんじゃない。いきなりだし、ゆっくり考えれば」

「……意外ですね。まぁ、そうします」

「意外って、何? まだ絡まれたかった?」

「遠慮します」


 丹科さんの追撃をかわして、席を立つ。今のうちに逃げるが吉だ。いい加減煙草を我慢するのも限界にきていた。

 居間を出ようとする俺の背中越しに、丹科さんが声をかけてきた。


「今はいいけどさ。ちゃんと考えなさいね」

「……はぁ」

「そうじゃないと、皆可哀想だもの」


 その声色が妙に耳に響いて、首だけで振り返る。

 えも言われない、苦いものと甘いものを一緒に噛んだような、滅多に見ない顔をした丹科さんがそこにいた。


 何を言うこともできなくて、そのまま居間を出て障子を閉めた。

 さっき置いた灰皿がまだある縁側で、煙草を取り出してライターを点す。

 苦味と重さが口の中に広がって、肺を通って脳髄を揺らす。


 さっきのはどういう意味だろうか。皆って、一体誰の事を言っているのだろう。

 煙草なんて吸って大人ぶっても、所詮は四半世紀も生きていないガキだ。分かる事の方が少なくて、大人の都合に翻弄される。


 可哀想、というのは、そんな俺達三人の事だろうか。

 それとも、こんな馬鹿げた真似をしてまで必死な総本山の連中や、それを受け入れざるを得なかった親父の事だろうか。

 紫煙が揺れて、深い軒より上に行く前に消えていく。


 ちゃんと考えろと言われても。

 俺に何をどうしろと言うのだろうか。溜め息交じりの煙を吐いて、煙草を咥えて空を見上げる。


 考える必要があるのは分かってる。

 今は法律上無理だが、十八になって早速怜が婚姻届でも差し出してきたらどうするのか。

 何も考えず、それにサインして印を捺すのか。


 そんな間抜けな話もないと思うが、強く断る理由も特に見つからない。

 なんとなく間抜けだから、なんて理由で断っていいようなものじゃないだろう。

 依歌はどうするのか、なんて言葉が宙を舞う。ここまで一緒にいて、ただの幼馴染で済ませていい関係じゃないのは分かっている。


 なんだって、今更こんなことが起きるのか。

 出来損ないと切り捨てたのなら、一瞥もしないでいてほしかった。

 そうやって、なんとなくと惰性で生きていたかった。

 どうせ何をしても無駄なのに、どうして選択肢だけ突きつけてくるのか。


 惰性で怜と結婚するのが一番楽な道なのは、よく分かっていた。

 煙草を吸って吐いて、人間の屑としか言えない考えを煙に変えようとした。


「本当に煙草、お喫みになられるんですね」


 突然降ってきた声に驚いて、思わず横を向く。

 夜に溶け込みそうな髪が広がり、白い服が輪郭を濃くする。

 怜は本当に、冗談みたいな女の子だった。


「……嫌いだった?」


 煙草を持つ手を下ろして、空いた方の手をポケットに突っ込む。

 怜は人形みたいに小さな顔をふるふると左右に振る。


「いいえ。でも、体には良くないと」

「添加物も保存料も農薬も体には悪いさ……極論だけどね」


 まさか怜に煙を浴びせるわけにもいかない。

 首を戻して、ゆっくりと煙を肺に入れる。

 吐くときだけは、息と混じってどれが煙か分からなくなった。


「仁様は、私が許婚ではお嫌ですか?」


 まさか、そんな直接的に聞かれるとは思わなかった。

 横目で見れば、怜の整った顔立ちの中で瞳だけが不安そうに揺れていた。


「嫌も好いもない、かな」


 嘘を言っても仕方ない。俺は正直に答えた。

 怜の方を見るのを止めて、一拍置こうと煙草を吸う。


「今は特にどうも思ってない。だから、結婚しろと言われたらするかもしれない」


 最低な言い分だ。でも、それが偽らざる気持ちでもある。

 『そういうもの』だから、受け入れる。大半の人がそうであるように、俺もそうだ。

 そこに俺の意思は特にないし、その事に大した不満もない。


 世の大勢の人がそうであるように。



「それは、嫌です」



 雪はまだ小さく降り続いていた。


 煙草の焼ける音をすり抜けて、怜の声が耳に届く。

 煙草を吸う手を止めて、怜を見た。

 髪と同じ、吸い込まれそうな深い黒の瞳が明確な意思を湛えていた。


「嫌いでもいいです。私の事を想って下さい。その上でのご決断なら、例えどのようなものでも受け入れます」


 完全に呑まれていた。

 人形のような彼女が、人形では有り得ない意志を示していた。

 これなら、俺の方がよっぽど人形だ。

 何一つ自分の意思で決めようとしない俺の方が、よっぽど。


「私の最初で最後の我が儘を、どうかお聞き届け下さい」


 何を言えばいいのか分からず、とりあえず頷いた。


「あぁ……うん、分かった」


 それ以外に何を言えば良かったのだろう。

 他に選択肢なんてなくて、俺はそう言うしかなかった。


 出来もしない約束をした気がする。ただ、約束は守らなくちゃならない。

 怜を想った上での決断。少なくとも、今日明日に出来る事ではないのは間違いなかった。


 頷く俺に微笑んで、怜は何かを思い出した顔をする。


「そうでした。仁様のお部屋は、あちらで宜しかったですか?」

「ん? あぁ、そうだけど」


 うちの寺は少し形が変で、四角い塀の中にコの字を下向きにして真ん中にT字をくっつけたような形になっている。

 コの字の空いた部分が庭になっていて、T字の右側には蔵、左側には離れがある。


 離れ、といっても持ち込まれる人形の供養場所になっていて、寺らしく呪いの人形だの、そういうのも預かる事がある。

 なので、基本的に人は立ち入らない。たまに俺が掃除に入るのと、親父が供養しに行くぐらいのものだ。


 そして、そのT字の右側、蔵のある方の横棒部分に俺の部屋はあった。端っこの一つ隣。

 怜が指し示したのも丁度そこで、素直に頷く。

 すると怜は嬉しそうに笑い、


「でしたら、私の部屋はその隣がいいで――」

「――絶っ対っ駄目っ!!」


 障子を大解放して、依歌が割り込んできた。

 話しかけたのを邪魔され、怜が初めて眉を顰める。


「島原さんには関係のないことです」

「あります! 大有りです!」

「ご家族でもないのに?」

「私と仁は幼馴染で、家族みたいなものなの! だから大有りです!!」

「そうなのですか?」


 怜が俺に振ってくる。


「そうだよね!?」


 依歌までもが噛み付かんばかりの勢いで俺に迫る。


 違うとでも答えようものなら、間違いなく明日から冷凍生活に逆戻りだ。

 いや、ほぼ間違いなくそうなると怜が代わりに作るだろうが、そうなると益々依歌が臍を曲げてしまう。

 怜の料理の腕前は知らないが、そういう問題ではないのだ。


「まぁ、そうだな。家族同然というか、そんな感じ」


 俺が頷くと、依歌は「ほらね」と言わんばかりに勝ち誇った顔で怜を見やる。

 怜はそんな依歌に構わず、小首を傾げた。


「じゃあ、私はどこの部屋にすればいいのでしょう?」

「……それは、その」


 特に何も考えていなかったらしい。

 依歌は言葉に詰まって、助けを求めるようにこちらを窺ってきた。

 そんな顔をされたって、俺だって困るのだ。


「あー、じゃあ俺の部屋の反対側でいいんじゃないか。何かあっても移動しやすいし」

「それ! それで!」

「分かりました。離れも見えますし、丁度いいと思います」


 なんとか治まってくれたようで、依歌も怜も不満はなさそうだ。

 離れが見えて丁度いい、ということは、怜も相当な『力』の持ち主らしい。まぁ、それを基準に選んだのだから、当然といえば当然か。

 俺にはさっぱりわからないが、親父がたまに立ち入り禁止にすることがある。

 多分、それだけヤバいものがあるということなのだろう。


 一先ず落ち着いたところで、丹科さんが赤くなった顔を障子の隙間から出してくる。


「ほらね、二股」

「偏見に満ちた見方は止めてください」


 俺が突っ込むと、丹科さんは奇妙な笑い声を上げて炬燵に戻っていった。

 本当に忙しい一日だった。おかげで日課もこなしていない。

 せめて鍛錬だけでもしようと思ったところで、布団の場所などを怜に説明していないことを思い出して止めた。


 その後、依歌もケーキを作ることを忘れていた事を思い出し、結局泊りがけで作る羽目になってしまった。



  ※              ※              ※


 翌日、保育園のクリスマス会は滞りなく行われた。


 飾りつけしてライトアップした部屋で、聖歌を歌い軽くクリスマスの勉強をし、出し物を見てプレゼントを配り、待ち望んだケーキを食べてゲームをしてお迎えが来る。

 はしゃぎ回る十人の子供相手に立ち回るのは楽ではなかったが、全員で協力して何とか無事にこなすことができた。


 特に強力だったのが依歌自慢の二段重ねのクリスマスケーキと、飛び入り参加した怜の絵本朗読だった。

 効力の程が知れ渡っているケーキは勿論だが、怜の朗読は凄かった。静まる事を知らない子供達が自ら口を閉ざし、黙って耳を傾けていた。


 俺の友達だと丹科さんが紹介すると、マサが早速「二股だ!」と叫んだ。教育とは、大人の背を見る事なのだなと実感する。

 子供達相手に許婚と紹介するのは止めてもらった。話がややこしくなるし、「許婚ってな~に?」なんて聞かれても困る。


 依歌のケーキは歓声と冬にあるまじき熱気をもって迎えられ、全員で舌鼓を打った。予定通りだいぶ余ったので、切り分けて箱に入れ、迎えにきた親御さんに分けた。

 それでもまだ少し余ったので、今晩はケーキを食べる事になりそうだ。


 泊りがけで何とか完成させたはいいが、問題というかなんと言うかが一つあった。

 流石に手が回らない所が出てくるだろうと怜が手伝いを買って出たのだ。

 それ自体は何の問題もない……はずなのだが、依歌が渋った。無理からぬ事ではあるが、それで上手く回らないのも拙い。絶対に依歌は凹む。

 何とか説き伏せ、ケーキ以外を手伝ってもらうということで落ち着いた。


 そしてまぁ、大方の予想通り怜は料理の腕も抜群だった。

 朝食は怜の担当で、鯖の塩焼きと味噌汁と筑前煮とほうれん草のおひたし。

 依歌が作ったもの以外を食べるのは久しぶりで、味の違いが新鮮で美味かった。

 和食以外は得意ではない、と言っていたが、どこまで信じていいものか。

 依歌が「美味しい」と言いながら複雑な顔をしているのが印象深かった。


 何はともあれ、クリスマス会も終わり、俺達は家に帰っていた。

 クリスマス当日は迎えが遅くなる事も少なく、丹科さんが泊まりにくることも殆どない。

 日本のクリスマスはイブの夜が本番、みたいなところがあるから、そのせいだろう。


 寺の掃除をして居間で課題をこなす。日課が出来る事がなんとなく嬉しい。この後は夕食を食べて、鍛錬をしてまた課題をして寝る。普通の一日に戻るのだ。

 炬燵の上で課題を広げていると、障子の向こうから声がかかった。


「あの、仁様。今宜しいでしょうか?」

「ん? あぁ、いいよ」


 振り向くと、怜が障子を綺麗に開けて入ってきた。開け方次第で音が立たないものだ。

 俺の正面に回りこんで座り、天板の上の課題を一瞥して口を開く。


「寺院内のお掃除なのですが。私にも手伝わせて頂けませんか?」

「え? ……あぁ、別にいいけど」


 俺がそう言うと、怜は日陰に咲く花のようにひっそりと、美しく笑う。

 小さく零れるような笑みは、依歌の日向に咲く花のような笑顔とは大分違う。

 けれど、よく似合うということは共通していた。


「良かった。それでは、本堂から左半分は私が担当致します」

「分かった。俺は右半分な」


 特に困ってはいなかったが、手伝ってくれるというのを無下にもできまい。

 こうなると時間が余るので、庭の手入れか花壇の世話にでも当てようか。それとも、カブの整備でもしようか。

 考えてみれば案外やることがあるので、悪い提案ではなかったように思う。


 昨日降っていた雪は今朝には止んでいて、残念ながら積もるほどではなかったようだ。


「では、今晩は何にしましょう?」

「ん、はい?」


 嬉しそうに手を合わせる怜の言葉の意図を取りかね、尋ね返す。

 掃除の話でない事は分かるが、今晩って何の事だ?


「ですから、お夕食は何に――」

「――仁、きたよー」


 玄関から聞こえてきた声に、怜が微かに眉を動かす。

 どうしたものか迷って、とりあえず腰を浮かせて依歌を迎えに出る。

 いつも通り廊下の途中で合流すると、依歌は何か袋を持っていた。


「それ何?」

「これ? これねー、シャンパン」


 嬉しそうに取り出して、両手で抱えてみせる。


「ケーキ、食べちゃわないとでしょ? ご飯も残り物を片付けなきゃだし、せめて少しでもクリスマス気分をだそうと思って」

「あぁ。いいんじゃないか」


 話しながら居間に戻ったところで、奇妙な威圧感に足が止まる。

 丁度障子を開けた正面に座っている怜が、薄い笑みを浮かべていた。

 足を止めた俺の後ろから依歌が覗き込んで、微妙に嫌そうな顔をした。


「島原さん、いらっしゃいませ。何の御用ですか?」

「何、って。仁のご飯作りに」

「それでしたら、もう今日からは私がやりますので。どうぞ、お引取り下さい」

「こっちは、鬼瓦さんがくるずっと前から作ってるんですけど?」

「それは大変ご苦労様でした。私からも感謝致します。ですが、許婚として仁様のお世話をするのは私の役目ですので」

「勝手に決めないでくれます? 許婚だからって何でも許されるわけじゃないでしょ?」


 煙草が吸いたい。


 胃の痛いやりとりを繰り広げる二人に背を向けて灰皿のある場所まで行こうとして、


「仁?」

「仁様?」


 逃がしてくれないだろうことは分かっていた。

 分かっていたが、煙草が吸いたくてたまらないのも事実なのだ。分かってほしい。


 何故こうも角を突き合わせるのか。俺のせいか。いや、良く分からないが。

 皆仲良く、が絵空事に過ぎないとして、願わずにいられない気持ちを理解してしまった。


「あー……何?」

「何、じゃなくて」

「私と島原さん、どちらの料理をお召しになりますか?」


 振り向いた俺に、二人の視線が突き刺さる。

 何か上手い切り返しを探して虚空を見つめ、


「今日は残り物だろ」

「そういう意味じゃなくて!」

「これから先の事も含めて、です」


 あっさり逃げ場を封じられ、追い詰められた。

 高校一年の身空で何故こんな追い詰められ方をせねばならないのか。前世で何か酷い事でもしたのだろうか。多分したのだろう。


「えー……二人で作ってくれれば、それがいい」


 結果、最悪の道に逃げ込んだ。

 我ながら何を言っているのか。玉虫色の答えしか出せんのか、俺は。


 どちらを選んでも角が立つ場合、一体どう選べばいいというのだろう。角を立てたくないだけで、どちらかを選ぶ強い理由もない。


 煙草が吸いたい。我慢の限界が近い。


「……も~、何それ」

「分かりました。そう致します」


 とんでもない提案だったと思うだが、依歌は渋々ながら、怜はすっぱりと頷いてくれた。

 ようやっと俺から視線が外れたかと思うと、今度は二人して視線を絡ませる。

 穏やか、とは言い辛い雰囲気なのが胃をちくちくと刺激してきた。


「……あー、その、」

「仁、煙草吸ってきなよ。その間ちょっと話すことあるから」

「はい。私も島原さんとお話したいことがあります」

「……おぅ」


 半ば追い出されるような形で、居間から出て灰皿のある縁側に向かった。


 一体何の話をしているのだろうか。

 気にならないと言えば嘘になるが、俺が口を出していいことではなさそうだ。

 赤マルのソフトから一本咥え出して、安物のライターで火をつける。


 思い切り吸い込むと、一瞬世界が揺れた。

 かつて気を使いまくっていた記憶が染み付いて、やたらと周囲の事を気にしてしまう。今更そんなことしても誰にとってもウザいだけなのに、習慣は消えてくれない。

 煙草を吸って、余計な思考を全部頭から追い出す。


 吐く息が消える前に、もう一度吸う。変に考えすぎだ。

 二人の喧嘩の原因は間違いなく俺だが、だからといって今すぐどうこうできるものでもない。

 依歌を無下にできるわけもないし、怜とも約束をした。

 約束を果たせるようになるまで、何とかやっていくしかない。


 願わくば居間でやっているであろう話し合いで事態が好転してくれればいいが、変な期待はするだけ無駄だ。

 今更他人の目なんか気にしてどうする。出来損ないと分かったときから、意味なんて一つもなくなったはずだ。


 やれることを、やるしかないのだ。

 惰性で続けているだけの習慣のように。

 この寺に生まれた以上、降りることもできないのだから。


 半分ほど燃えた煙草を灰皿に押し付け、もう一本取り出して火を点す。

 今回は一本と約束していない。気が済むまで吸ってから戻る事にしよう。

 

 余りの寒さに、その一本を吸ってすぐに戻った。



  ※           ※             ※


 二人の話し合いの結果、毎回じゃんけんをしてどっちが何品作るか決めることになったという。

 買い出しはどうするのかというと、互いに献立を考えるから大丈夫とのこと。何が大丈夫なのかはよく分からない。カブの出番が増えるかもしれない。

 最低限酷いメニューにならないよう相談するらしいが、まぁ食えれば大体なんでもいい。

 大まかには何とかなったようでほっとして、早速残り物で夕食をすませた。


 依歌がもってきたシャンパンを開けて、これまた残り物のケーキを食う。

 ケーキの美味さというのはよくわからないが、少なくとも昔食べた店売りのものよりずっと美味い。

 依歌の料理を食べるようになってから、店のものを食べる気がしなくなった。何なら一食抜いてもその分次に依歌の飯を腹に入れたい。


 シャンパンを飲みながらケーキを食べていると、怜が話しかけてきた。


「仁様、こうしてると思い出しませんか?」

「? ……何を?」

「私達が初めて会った時の事です」


 口を挟もうとしたらしい依歌が、ぐっと唇を噛んで様子を窺ってくる。


 そんな目で見られても俺も困る。

 怜が何を言っているのか良くわからない。初めて会ったのは昨日のはずだ。それ以前にこんな人形みたいな子を見た事なんて一度も、


「あの時のケーキ、本当に美味しかったです」


 そう言って笑う怜の顔が、誰かにダブって見えた。

 知っている気がする。日陰の花みたいに笑う、小さくて可愛い女の子。


 あれは確か、小学三年の頃だったと思う――



――毎年クリスマスは、長い石段の先にあるバカでかい寺に行くことになっていた。

 総本山の一部だと知ったのは後になってからで、とにかくそこに行く時はいつもの倍以上色々気をつけるようにしていた。


 周りの僧衣を着た大人達が全員、俺に期待の目を向けるからだ。

 それこそ下にも置かぬ扱いをされ、それが俺にどれほどの期待がかけられているかを示していた。


 親父の為、そして死んだ母親の為、俺は期待されるに相応しい子でなくてはならない。


 気を緩めちゃいけない。敬語を使い間違えちゃいけない。不遜な態度なんて以ての外だし、むしろいち早く周囲の事に気づかなくてはいけない。


 勉強の成果を見せて、運動ができるところも示して、母を選んだ親父は正解だったと納得させなくてはならない。


 親父が自慢できる息子でなければならない。


 そのためには一部の隙も許されない。


 思えば思うほど、寺に近づく度に胃がきりきりと痛み出す。

 石段を登りながら胃の痛みに耐えていた時だった。



 泣き声がした。



 それは女の子の泣き声のようで、周りを見回しても姿は見えない。

 でも確かに、声は聞こえた。


 何でそのとき、そんな事をしたのかはわからない。胃の痛みから逃げようと思ったのか。

 俺は、茂みの中に入り込んで声の主を探した。


 茂みを分け入って、そう進まないうちにその子を見つけた。

 長く綺麗な黒髪をした、小さな女の子だった。

 当時の俺より頭二つ分は背が低く、年下だと思った。


「何で泣いてるの?」


 気の利いた聞き方も思いつかず、俺は直接聞いた。

 その子は目を赤くしながら、小さく、でもよく聞こえる声で呟くように言った。


「みんな、クリスマスだからってパーティーしてケーキ食べてるのに、私だけ駄目だって。お寺に生まれたから、関係ないからってこんなとこに連れてこられたの」


 胃が、きりりと痛んだ。

 その子の辛さは良くわからなかったけれど、悲しいのは良く分かった。その気持ちは、俺だって持っているものだったから。


 何で自分だけって、皆きっと思ってる。


 それが痛いほどに分かって、辛くなった。

 何とかしてあげたくて、でもどうしていいか分からなくて、ふと思いついた事があった。


「分かった。ちょっと待ってて、すぐ戻ってくるから!」


 俺はその子を置いて走って茂みから抜け出し、石段を駆け上がって親父の僧衣の裾を引っ張った。


「おぉ、どこ行ってたんだ、仁」

「父さん! あの、ごめん、僕ちょっと忘れてものして、だから……」


 上手い言い訳も思いつかず、必死に親父の裾を握って目を合わせた。

 要領を得ない俺の言葉に、それでも親父は何かを感じ取ってくれたらしかった。


「そうか。分かった、戻ろう。すみませんが少し遅れます」


 傍にいた同じ僧衣の人に頭を下げて、親父は俺を連れて石段を降りた。

 そして親父の車に乗って、


「忘れ物はなんだ?」

「ケーキ!」

「分かった」


 親父はそれ以上何も言わなかった。

 総本山の近くには店なんて何もなくて、車で走って一時間くらいしてようやく見つけた店でイチゴのショートケーキを買って急いで戻った。

 親父に礼を言って石段を駆け上がり、茂みに入った。


 そこには、最初に見たときと何も変わらぬ姿で座り込むその子がいた。


「ごめん、全然すぐじゃなくて」


 息を切らして言う俺にその子はふるふると首を振って、手に持っていた箱に視線を送る。

 俺は箱を軽く持ち上げて、


「クリスマスだし、ケーキ食べよう。パーティーはできないけど」


 そう言うと、女の子の顔が呆気にとられたものからみるみる嬉しそうに変わり、



 日陰に咲く花のような、ひっそりとした可愛らしい笑みを浮かべた。



 箱の中のケーキは石段を駆け上がったせいで形が崩れており、それでもその子は嬉しそうに食べていた。

 その後、俺は親父と合流して親戚の集まりに向かい、忘れ物をしたことをからかわれた。

 母と親父に迷惑をかけたことは申し訳なく思ったが、後悔はなかった。


 あの子は、苦しかった俺の心と同じものを持っていた。

 少しでも何かの力になれたことが、誇らしかった。


 今度会った時は、隠れてパーティーをするのもいい。

 少し悪い事をしているような気分で、悪くはなかった。

 でも、それからその子とは一度も会うことはなかった――



――昔の、思い出したくないものとして沈めていた記憶。

 そういえば、確かにそんなこともあった。ずっと年下の子だと思っていたが、まさか。


「……七年前の、泣いてた女の子?」

「はい。あの時は、本当に有り難う御座いました」


 深々と礼をされ、何とも言えない気分になる。

 まるでタイムスリップでもしたようだ。時間と空間がごちゃごちゃになって、混乱する。


「あー……そっか」

「あの後、仁様が本家の方とお聞きして。分家の中でも傍流の私では一生お会いできないものと思っておりました」


 微笑む怜の顔が、かつての女の子と重なっていく。

 もしかして、あの頃から想ってくれていたのだろうか。

 いやそんなまさか、とは思うが、接点なんてそこしか考えられない。

 冗談や使命感であんなことが言えるなら、こんな事態になっていないだろう。


「あー……その、もしかして、だから許婚に?」

「はい。仁様ならば、と」


 思い込みが強いというか何と言うか。

 絵本みたいな子だと思っていたら、漫画みたいな想いを持っていた。


 何を言っているか自分でも良く分からないが、約束の重みが増したのは事実だ。

 何せ一度、俺は約束を破っている。すぐに戻るといって、時間がかかってしまった。

 二度目はない。少なくとも、そういうところは守りたい。

 約束は守るものだというのは、親父から教えられた数少ない事の一つだから。


 ケーキを口に放り込む。

 あの頃食べたものの味が、蘇るような気がした。


「ちょっと! 二人で納得してないで!」


 依歌が頬を膨らませて天板を叩く。

 シャンパングラスが揺れ、一瞬肝が冷えた。


「お前、危ないからやめろって」

「私にはさっぱり意味が分からないんですけど! 七年前って何!?」

「分かった、話すから落ち着いてくれ」


 拗ねた表情のまま、ケーキを頬張る。

 依歌は滅多な事では怒らないが、一度拗ねると長い。昔誕生日をうっかり忘れた時は、一週間ほど拗ねて無言の食卓が出来上がった。

 それでも食事を作りにきてくれるのは、義理堅いというか何なのか。

 とにかく、二度とあんな空気の中飯を食うのは御免だ。それが避けられるのなら、大体なんでもやる。


「あー、実はな――」


 俺は依歌に話して聞かせ、怜は隣でシャンパングラスを傾ける。

 話しながらふと思ったが、怜にとってこれがはじめてのクリスマスパーティーではないだろうか。

 だとしたら、かつて心の中で決めた事を実行できたことになる。

 それは、なんだか悪くない。

 依歌がいればこそできたことでもある。心の中でひっそり感謝しながら、話を続けた。


 ケーキを囲んで、三人で過ごすクリスマスの夜は更けていった。

 日課は、なんとかこなすことができた。

 これから、こういうのが普通の毎日になっていくのだと思う。

 煙草は吸いたくなるが、悪い気はしなかった。

何とか上がりました。続くかもしれません。

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