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第八章 因果律

「気分はどうだ?」

 しばらくしてからGSTSは言った。

「少しは楽になった。リソースはどのくらい余裕があるんだ?」

「当分は大丈夫だ」

 芦野は徐々に冷静になってきた。以前からの疑問を聞いてみる。

「俺たちの能力だけど、インテグレーションって何なんだ? どうして時間が止まるんだ? 前から気になってたんだが」

「時間が止まるのではない」

「止まってるじゃないか」

「正確にいうならば、連続した時間が存在しないだけだ」

「確かに一時的にUTCからは外れてるけど、戻るじゃないか」

「それは違う。感覚的にはそう思えても、連続した時間は存在しないのだ。それは錯覚にすぎない」

「おいおい。じゃあ何だ? こうして話してるのは幻か?」

「そうとも言える。インテグレーションを挟んで君たちは連続した時間を感じているが、実際はUTC系列上では非連続な時間を生きている。時間のずれはリゾルバーが調整している。リゾルバーがいなければ、標準時間は存在できない。インテグレーションを体験した今でも君は連続時間を信じているのかね?」

「それじゃ連続時間は存在しないのか?」

「そうだ」

「無茶苦茶だよ」

「そんなことはない。同様の主張は様々な人間によって繰り返されている。例えばパルメニデスやホイーラー・デウィット方程式によって」

「悪いが聞いたことない。俺にもわかるように言ってくれ。時間が連続じゃないってどういうことだ」

「連続ではなくて、量子化されているということだ」

「……やっぱりわからない」

「量子力学の状態ベクトルはわかるか」

「あいにく理系じゃないんだよ。普通の言葉で説明してくれ」

「シュレディンガーの猫の例のように、状態ベクトルは確率的性格をもっている。ゆえに死につつ生きているという矛盾した結果を生むのだが、連続時間を前提にしているから矛盾が起こるのだ」

「連続時間が存在しなければ矛盾は起こらない、と」

「そうだ。時間は離散的というよりは、確率的に存在しているともいえる。なぜなら状態ベクトルは確率波だからだ。しかし確率とは何だ。ある事象が起こるか、起こらないかということだ。確率にはすでに時間の概念が含まれている。従って連続時間を否定しても時間が停止することはない」

「時間は止まらない。ということは連続時間がないのに時間が流れるのか」

「そういうことになる。いわば確率的時間が流れる。というよりも時間とは本来そういうものだ。時間が連続して存在するというのは人間が作り出した幻想にすぎない」

「それで何が変わるんだ」

「何も変わらない。人間には差異は自覚できない。今までと同じだ」

「じゃあ連続時間と確率的時間で何の違いもないと」

「そうではない。時間が確率的なら、様々な操作が可能になる」

「……操作?」

「インテグレーションだ。時間が確率的に流れるなら、シュレディンガーの猫のように様々な状態が同居できる。確率的時間を調整することで、インテグレーションが可能になる。特定の状態ベクトルを選択することで実現される。あり得たかもしれない世界の選択、と言い換えてもいい」

「それは聞いたことあるぞ。エヴァレット解釈だな」

「違う。多世界解釈ではない」

「違うならパラドックスが生じるんじゃないか」

「調整機構が存在するからその心配はない」

「その調整機構がうまくやってくれるから、心配ない……じゃあ、オペレーターは何なんだ?」

「われわれは物理的操作は行えない。われわれに行えるのは論理的操作だけだ。物理的操作を行うには、物理的実体が必要なのだ」

「俺たちはリゾルバーの手足ってわけだ」

「まだ納得できないかね」

「まあね」

「こういいかえてもいい。確率的時間はエルゴード仮説と同値だ」

「やっぱりわからん」

「孤立系では物理量の時間平均は統計平均と等価になる。この仮説を拡張して解釈したにすぎない」

「わかったようなわからんような……」

「これだけ覚えておけばいい。時間は確率的に存在すると」

「連続時間は存在しない」

「そのとおり」

「……シュレディンガーの猫に戻りたいんだが」

「続けたまえ」

「結局猫は生きてるのか死んでるのかどっちなんだ?」

「どちらも選択可能だが、どちらかを選ばなければならない」

「それじゃ前と同じじゃないか」

「違う。選んだと思っているのは人間だ。それは幻覚なのだ。時間は存在しないから、選択しても結果には影響しないのだ。わかりやすくいえば、両方の結果が共存しているのだ」

「選んだのに、選んではいないと」

「そういうことだ」

「何だか禅問答みたいだな」

「……」

「時間が存在しないなら、時間を遡るのも可能なんじゃないか」

「可能だ。しかしパラドックスは許されない」

「じゃあ結局何も変わらないいじゃないか」

「そうでもない。そのために調整機関が存在する」

「〈因果律〉のことか」

「それが全リゾルバーの合意事項だ」

「インテグレーションさえなければ、コペンハーゲン解釈でも説明可能なんだが」

「オッカムの剃刀か」

「だってそうだろう? 何も変わらないんだから」

「そうでもない。確率的時間を考えると、状態ベクトルの収縮を考えなくてよいのだ。つまりコペンハーゲン解釈が不要になる。多くに物理学者を悩ませた問題を考慮しなくてもよいのだ」

「じゃあ観測問題はどうなる?」

「調整機構があると言っただろう。『われわれ』が状態ベクトルを収縮させるのだ。観測問題はわれわれが処理する。われわれの調整によってインテグレーションが可能になる。コペンハーゲン解釈では説明はできない。これで納得できたかね」

 彼は反論できなかった。

 光子の概念を最初に提唱したのはアインシュタインだった。彼のアイデアから量子の概念は発展してゆく。にもかかわらず、量子力学の持つ物理的非決定性に彼は悩まされ続けた。彼が生きていたらGSTSをどう思うだろうか。確率的時間などという概念を彼が受け入れるとは思えなかった。それは彼の信じた決定論的世界観とあまりにも掛け離れている。確率的時間の持つランダム性は、明らかにアインシュタイン多様体の持つ秩序を破壊する。芦野にとっては世界が決定的であろうと非決定的であろうと、どちらでも構わなかった。目の前の流れがどこに向かうかだけが問題だった。菫や自分たちはどうなるのか。これまでの彼の人生は専ら受動的で、自分で進んで選択したことはなかった。未経験の事態への不安がこんなことを考えさせるのかもしれなかった。

「もう一つ聞きたい」

「何だ」

「なぜやつらは平さんが必要なんだ。量子コンピューターだけで十分じゃないのか」

「量子コンピューターだけではシステムは完成しない」

「記者会見は嘘だったのか?」

「そうではない。量子チューリングマシンは製作できても、ソフトウェアが動作しないのだ」

「そうなのか?」

「暗号解読程度ならソフトウェアは書けるだろうが、彼らの望みは強いAIだ。そうなると話は別だ。チャイティンの不完全性定理はわかるかね」

「知らない。聞いたこともない」

「コルモゴロフ複雑性に関する定理だ。これを拡張して解釈すると、コンピューターで計算するかぎり、神のような完全な存在は不可能になる。だから彼らのソフトウェアは動作しなかった。クラスBQPのアルゴリズムで何とかなると思ったらしいが、ショアのアルゴリズムのようには、うまくいかなかったらしい。脳のリバース・エンジニアリングには原理的困難があったのだ」

「……えーと、よくわからないが、要するにやつらの計画は失敗したと」

「失敗したから次の計画に移行したのだ」

「……そこで平さんを使うことにした、と」

「そのようだ」

「ちょっと待てよ。今、神のような存在は不可能といったな? しかしこうして話してるじゃないか」

「……私は神ではない」

「じゃあ何なんだ」

「私は〈因果律〉にすぎない」

「それじゃ答えになっていない」

「チャイティンの定理が主張しているのは不完全性だが、コルモゴロフ複雑性に関する定理だということだ」

「意味がわからないが……」

「定理は万能チューリング・マシンを使用しないと成立しない」

「コンピューターを使わないと成立しないと?」

「そのとおり」

「……コンピューターを使わない……かわりにオペレーターを使うということか」

「そうだ。リゾルバーと密結合クラスターを構成してオペレーターと接続する。これならソフトウェアはいらない。MARESは接続プロセスのみを実行すればよい」

「それでも成功すれば、結果的にはリゾルバーの代わりが手に入る」

「そういうことだな」

「……いいのかそれで。こっちはリゾルバーを盗られるんだぞ」

「もちろん、許されない事態だ。だから私がここにいるのだ」

「待ってくれ。当然のように話してるが、こうなることがわかっていたのか」

「確率的にはね」

 鈍い怒りがこみ上げてきた。菫を救う手段はあったのではないか。

「君の心情は理解できるが」

 そう声は続けた。

「その選択肢はなかったよ。この流れを変えることはできなかった。少なくともこの周波数では決定事項だ」

「結局やつらを物理的に止めるしかないんだな」

「その選択を避けることは不可能だ」

 地下鉄の出口を見つけて、芦野はほっとした。少なくとも死んでいった人々のことを考えなくてすむと思ったからだ。彼が恐れたのは、もし怪我人がいたらどうするかということだった。助けたいが時間がない。むしろ助けることでより多くの人が死ぬ。この瞬間にも放射性降下物は空から降り注いでいるのだ。そう思うと焦燥感に駆られた。しかし結局、芦野は誰にもあわなかった。

 溜池山王駅までは二十分ほどで着いた。銀座線のホームから出口へと移動し、外に出る。

 芦野は六本木通りを曲がり、大使館の建物に着いた。正門で目的を告げると地下へ案内される。そこで木塚とロックウェルに会うことができた。

「GSTSがそう言ったのか?」

「はい」

「了解した。横田から連絡をつけるよ」

 木塚は全く動揺していなかった。こういうときのための訓練を受けているのかもしれない。大使館のビルはかなり損傷を受けていたが、地下はそんな様子はなかった。

「君はあそこに戻るのか?」

「はい。みんながいるし、仕事がありますから」

「俺も行くよ」

 木塚は芦野に防護服を渡した。二人はそれを着込んで外に出た。着込むと木塚は芦野の背中をばんと平手で叩いた。

「それじゃあ、出発しようか」

 二人は同じルートでJSTMOに戻った。

 放射能を帯びたちりやほこりを洗い流すために、二人はJSTMOに戻ると、すぐにシャワーなどで全身を洗った。着ていた服は全て処分する。


 木塚、相田、芦野の三人はサーバールームにいた。ガソリンで動く旧式の発電機を使って、電気が使えるようになっている。もちろん重力波アンテナは電磁パルスで使えないが、照明は復旧していた。

「どこが核を使ったんですか?」

「北朝鮮のようです」

 芦野は木塚の言葉にショックを受けた。そんなことが現実に起きるなんて全く考えたこともなかった。

「推定核出力は二十キロトン。広島型原爆よりも威力は大きいです」

「しかしなんでそんなことができるんです? 平菫なのか?」

「間違いないでしょう」

「でも、どうやって?」

「核のフットボールです」

 核のフットボールとは、アメリカ合衆国大統領のための核兵器発射ボタンが内臓されたブリーフケースのことである。大統領は「ビスケット」と呼ばれる認証コードを入力することで発射許可を暗号通信でミサイル・システム(NMCC)に送信する。そのため国防省の制服組が「フットボール」を携行して大統領と行動を共にしている。

「それはアメリカの話でしょう?」

相田は半信半疑のようだった。

「核保有国はどこも似たようなシステムで核兵器を運用しています。平菫は北朝鮮のフットボールを使ったんでしょう」

「インテグレーションでビスケットを使ったということですか?」

「おそらく」

「それは無理でしょう」

「いや。リゾルバーが協力すれば可能です」

 木塚は断言した。

「それは東京サーバーが協力したということですか?」

「まだ確定できていません。だがどこかのリゾルバーが連携して偽装操作をした可能性が高い」

 芦野はGSTSとの会話を思い出した。GSTSは東京サーバーが裏切ったと言っていた。芦野の夢に現れた男も東京サーバーだと名乗っていた。そうであれば東京サーバーが協力した可能性が高い。

「……それにしても北朝鮮はなんで簡単にフットボールを使わせたんです? 安全装置みたいなのはないんですか?」

「アメリカの場合はJCS(統合参謀本部)が常時監視していて二重チェックが入るようになっています。大統領権限が建前ですが、独断で発射は不可能です。しかし北朝鮮は独裁国家ですから」

「……そうか。独裁国家なら……」

 菫は成功すると確信して実行したに違いない。そして今回も成功したのだ。

「私たちはどうなるんでしょう」

「事後処理は政府と在日米軍がやってくれます。われわれは彼女を押さえねばならない。今は指示を待つしかありません」

 それにしても、警戒していた自衛隊は何をしていたのか。ニュースでは、数日前に通告があったと報じていた。迎撃システムがあったはずだ。

「確か、迎撃ミサイルがあったはずですよね?」

 芦野と同じことを相田も考えていたようだ。

「外れたんですよ」

 木塚はあっさりと言った。

「もともと百パーセントの命中率なんてありえません。どんな防空システムも完璧じゃないんです」

 芦野は菫が今どこにいるのだろうと思った。 

「彼女はどうして、ここに攻撃してこないんでしょうか? インテグレーションすれば簡単なのに……」

「それは無理だよ」

 相田はアンテナのレドームを眺めた。

「ここには入れない。彼女のIDカードはもう使えない。この部屋に入らない限り、アンテナは壊せない。もし仮に入れたとしても、手榴弾くらいじゃこれは壊れないよ」

「そうなんですか?」

 相田はうなずいた。

「DARPA仕様だからな。彼女には無理だ」

 そう言うと、少し元気が出てきたようだった。

「それに」

 相田は芦野の顔をまっすぐに見た。

「彼女がここに来たら、私が射殺するよ」

 芦野はオシロスコープを睨んでいる研究員を横目で見た。聞こえただろうか。サーバールームの音で聞こえなければいいが。けれどもしそうなったとしたら、芦野に相田を止めるつもりはなかった。相田が拳銃を持っているかどうかはわからない。しかし研究員には防衛省からの出向組がいたはずだ。手に入れることは不可能じゃない気がした。木塚は相田の発言を聞き流していた。こんな状況では無理もないと考えているに違いなかった。

 芦野が何と返事をしようかと考えていると青葉が入ってきた。

「GSTSはどうだ?」

 相田とこれ以上話すのはまずいような気がしたので、青葉に話しかける。

「それがまだ時間がかかるって。調整してるみたい」

「一人で決められないのかよ」

「何だか、会議しているような感じなんだよね……」

「谷村さんは?」

「まだつながってる」

 そんなに長時間リソースを提供して問題ないのだろうか。芦野は心配になってきた。

「仁川だな」

 突然、相田がつぶやいた。

「何が仁川なんですか?」

「さっきのフットボールの話だ。平はアメリカに仁川経由で行ったんだ。そのときしか考えられない」

「インテグレーションのことですか」

「そうだ。仁川空港でやったんだろう。他に彼女が近くに行くチャンスはなかったはず。それでもまだわからないが」

「おそらくDNの協力もあったに違いない。そうでなければできない」

 木塚はDNのアイオワサーバーについて説明を始めた。東京サーバーを支援するシステムが起動している可能性があるという。彼は東京サーバーとDNが協力関係にあると考えているようだった。

 芦野は青葉の話が気になっていた。この事態がインテグレーションの結果なら、何とか因果律を発動してもらうしかない。できるだけ早くしないと、この結果が既定事実になってしまうような気がする。

 芦野は意識を集中し、インテグレーションへと移行した。

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