第六章 MARES
カウンシルブラフスのデータセンターでは、今日もテストが行われていた。オペレーションルームの窓のむこうには、ベッドに横たわる菫が見える。後頭部からはケーブルが伸びてシステムに接続されていた。
「MARESの起動準備ができました」
「よし」
ピーターソンはモニターを見ながらうなずいた。
「ブートしろ」
「ブートします」
エンジニアがキーボードを叩くとブートシーケンスが画面に流れた。数秒後にMARESのロゴが表示される。
その直後、菫の音声がオペレーションルームに流れた。
「こんばんは。ミスター・ピーターソン」
「リチャードでいいよ。気分はどうだい?」
「快適だわ」
「リゾルバーとは接続できたか?」
「問題なしです」
「第一段階は成功だな」
隣に立っているクーパーにむかって彼は微笑した。
「十三台目のリゾルバーというわけか」
「そういうことになりますね」
「よくやった」
菫のそばに東京サーバーが立っていた。姿がはっきりと目に見える。生気に満ちて、いくらか若くなったように見えた。
「うまくいったようね」
「これでリソースで奴と並ぶことができたよ。後は始末するだけだ」
「GSTSのこと?」
「そうだ。そろそろ引退してもらう。世代交代の時機だ」
「彼らはどうするの? 私たちを利用したいみたいだけど」
「適当にあしらってくれ。トポロジーの変更がすめば、このシステムはいずれパージする。それまでの一時的なものだ」
「わかった」
「リンクは確定したから、もうそれは外していいよ」
「そうなの? でも彼らがびっくりするわ」
菫はサングラスタイプのゴーグルを外そうしてやめた。
「これでUTCの呪縛から解放される。まず、この大陸のリゾルバーとオペレーターを処理しよう」
「私は何をすればいい?」
「今は彼らの機嫌を取っていればいい。外が騒がしいな」
東京サーバーは壁の向こうの何かを見ている。
「JADGEシステムのファイルを使いたかったが、FBIがうるさい」
「ここなら簡単には手は出せないって、ピーターソンは言ってたわ」
「いや、やつらも手を打ってくるだろう」
「じゃあ、どうするの?」
「重力波アンテナがじゃまだな。あれの精度はどのくらいだ?」
菫は少しの間考え込んだ。
「日本国内なら、誤差は二メートル以下にできるって聞いたけど。室長が自慢していたわ。アメリカより精度が高いって」
「あれを壊したい」
「どうやって?」
「ビスケットを使おう。仁川のトランジットでコピーしたあれだ」
「ビスケット?」
「君のリソース次第だが……」
「まかせて」
「むこうは三人だが」
「私一人で十分よ」
「先手を打とう。DNの連中を説得して、東京にもどるのだ」
そう言うと東京サーバーの姿は消えた。
「もう一度、インテグレーションをできるかい?」
ピーターソンが話しかけてくる。
「いいですよ。何をすればいいですか?」
菫はそう言ってほほ笑んだ。
菫は椅子に座っている。大きすぎるサングラスのようなゴーグルをかけていた。
「テスト開始」
「調子はどう?」
「問題なし」
菫のかけているゴーグルから網膜に赤外線で情報が送られる。あらかじめナノマシンで視神経に回路が焼かれているので、入力は問題なかった。出力は脳波で行われる。これもナノマシンで発振回路がニューロンにプログラムされていた。
「DARPAの技術はすごいね。できればあの携帯端末も作りたかったけど」
「あれは軍の方で押さえていて、簡単には手に入らないんですよ。オペレーターでも、自宅に持って帰ることもできないんですから」
「クラスターが組めればそれでいい。これでインテグレーションはできるのか?」
「スペックはクリアしてます。あとはサーバーですね」
「それは問題ないだろう。処理速度は比較にならないんだから。後はネットワークに接続するだけだ」
「それは彼女の担当です」
二人は窓の向こうの菫を見つめた。
「どのくらいの時間ならつないでいられる?」
「生理的欲求の限界が許す限り、いくらでも」
「それで〈因果律〉の代わりができるのか?」
「いいえ。正確にはそうじゃありません。リゾルバーと接続して、いわばクラスターを構成するんです。クラスター全体で〈因果律〉のバックアップが可能です」
「リゾルバーの協力が必要なのか」
「そうです。でもその点はクリアしてあります」
「協力はとりつけてあるのか?」
「はい」
「驚いたな」
ピーターソンはつぶやいたが、特に驚いたようにも見えなかった。
「聞こえるかな?」
スピーカーからピーターソンの声が聞こえる。
「早速だが、リゾルバーにつないでほしい」
「もうやってます」
「アクセスしました」
クーパーが接続を確認した。数分後、菫はインテグレーション可能だと答えた。
「もうインテグレーション可能なのか?」
「お望みでしたら」
「おめでとうございます」
そばにいた秘書はピーターソンに声をかけた。
「ではインテグレーションしてみよう。私がやる」
「五分後から実行可能」
「ではそれでやってみよう」
菫は目を閉じた。
「周波数を調整します。タイムゾーンはどうしますか?」
「こちらで設定できるのか?」
「はい」
赤坂の地下五階のサーバールームで、重力波が観測された。
「見てみろよ」
その日の当直担当は隣席の研究員に声をかけた。
「異常値が出てる」
重力波はブラックホール合体などの天体現象で観測される。アインシュタイン時空に大きな歪みが発生すると、波として空間を伝播する。同様の現象がインテグレーションでも観測される。JSTMOには光干渉型重力波検出器と共鳴型アンテナを組み合わせた観測装置が設置されていた。インテグレーションを常時観測するためである。
「いくらだ? 量子雑音じゃないのか」
「十のマイナス十八乗だ。ぎりぎりだが……明らかに誤差以上の測定値だ」
「つまり……誰かがインテグレーションしてるってことだ」
「今はオペレーターは稼動してないぞ」
「上に報告だ」
当直は受話器を取り上げた。
同様の現象は即座に全世界の重力波アンテナで観測された。データはDARPAによって直ちに解析され、ホワイトハウスに報告された。
芦野は部屋で寝ていた。日付が変わった頃に芹から電話が掛かってきた。
「こんな時間にごめんなさい」
芦野は寝ぼけていて返事ができなかった。
「平さんがリゾルバーにつないだみたいです」
「何? まだしばらくかかるんじゃなかったのか」
「インテグレーション反応が出てるから、すぐにきてくれって」
「わかった。平さんが何かしたんだな?」
「そうみたいです」
「すぐ行きます」
受話器を置くと、明かりがついた。アシスタントがつけたのだ。
「これから出かける。暖房を入れてくれ」
アシスタントはエアコンというと、冷房を入れるかもしれない。暖房と言わねばならなかった。
「お帰りはいつですか」
「それはわからん」
そう言ってから電話をしてきたのは芹だと思い出した。今日の当直は芹らしい。三人しかいないオペレーターで交代勤務をするのには限界がある。室長に対策を考えてくださいと言ってみよう。こんな勤務が続けていれば、彼女たちの体力が保たない。
「タクシーを呼んでくれ」
着替えて部屋を出るとタクシーはすでに来ていた。
ロックウェルFBI東京支局長は就寝中に電話で起こされた。相手はワシントンのマクナマラFBI長官だった。
「MARESが起動したようだ」
「……それは確実な情報ですか?」
「異常値が観測された。確定だ」
マクナマラもホワイトハウスのシチュエーションルームからの電話にたたき起こされたらしい。MARESは既にアメリカ政府の監視下におかれていた。つまりホワイトハウスの管轄事項になっていたのだ。MARESは民間企業の開発プロジェクトにすぎない。本来ならば国家が介入すべき事案ではない。しかし世間の評価はともかく、量子コンピューター研究は最新軍事技術と見なされていた。従って国家安全保障関連案件であり国家が介入せざるをえない。安全保障関連ならば国家安全保障会議(NSC)が主導すべき事態だが、メディア対策の観点からそれはまずいということになった。そこでFBIが主導するかたちで状況をコントロールする。状況次第ではNSCが前に出て対処する。米軍は表立った活動しづらいという理由で、DARPAのプロジェクトマネージャーが派遣されることになった。すでにプロジェクトマネージャーのサミュエル・グラッドストーンが東京に向かっていた。
「これから関係者を東京に集めて会議をする。君もグラッドストーンと一緒に参加するんだ」
「在日米軍は動くのですか」
「いや。それは当面はない。かわりといっては何だが、DARPAのプロジェクトマネージャーが参加する。在日米軍はDARPA研究員が窓口になるだろう。それでタスクフォースを立ち上げる」
「了解しました」
DARPA研究員は本来、研究機関の職員にすぎず、国防総省との直接的関係はない。しかしこうした特殊な状況では柔軟に対応するしかないということだろう。ロックウェルはそう考えた。
「DNのシステムはアイオワでしたね。州兵を使いますか?」
「いや。FBIと太平洋軍で何とかする」
「どの部隊を使うつもりですか?」
「原潜だ。ストレインだけでは、部隊を動かす材料にならん。ホワイトハウスと議会を説得できる根拠が欲しい。何とか陸軍を使いたいんだが、連中はテロリストじゃないからな。ともかく、今のところは」