第五章 アイオワサーバー
内閣府統合標準時間研究対策室(JSTMO)は都内のオフィスビルの一室にある。芦野はドアを開けて中に入った。午前中の早い時間に出勤するのは久しぶりだ。一応受付のようなキャビネットがある。コーヒーを入れると、奥の応接室のソファに腰を下ろした。
「今日は早いですね」
デスクにいた芹が声をかけてきた。
「まあね。神木さんはどうした」
「どうかしましたか? もう来ていますよ」
「昨日のインテグレーションだよ。一分じゃ無理だった。リソース不足でさ。あぶないところだった」
後で確認しておかないといけない。
「ときどきごっちゃにならないか?」
「何がですか?」
「今自分はどのタイムゾーンにいるんだろうって」
彼はソファでコーヒーを飲みながらつぶやいた。
「あんまり気にしてないですよ」
「そうなの?」
「時間なんて、脳が作り出した幻ですから」
「へえ。そう考えてんだ」
「そうです。認知バイアスの一種ですよ」
そう言うと芹は行動経済学の認知バイアスについて説明を始めた。芹が経済学に詳しいとは知らなかった。コーヒーを飲みながら聞いていたが、それきり思い出すこともなかった。芦野はGSTSについて考えていた。
「あ、そういえば室長が呼んでましたよ。会議だそうです」
「またか。他にやることないのかよ」
芦野がそう言うと、芹は笑って言った。
「でも、何か事件だそうですよ」
「それで、いつから?」
「すぐです」
芦野はため息をつくと立ち上がった。
二人が会議室に行くと、オペレーターは全員そろっていた。
「市ヶ谷から機密情報が漏れた」
相田はかなり不機嫌そうに見えた。
「今度は何ですか?」
「JADGEシステムのアカウントファイルだ」
「JADGEシステムって何ですか?」
青葉が質問した。
「資料を用意しておいた」
机の上には人数分の資料が置いてある。芦野は目の前の説明資料をめくった。
「防衛省の警戒情報システムですか。へえ。警察の管轄じゃないですか?」
「同じタイミングでストレインも観測されてる」
「私じゃないですよ」
「誰も君だとは言ってない」
相田は青葉を睨んだ。
「解析結果は一致した。誰かがインテグレーションしている可能性が高い」
「ラジオは調べたんですか」
「例によってデータはない」
菫がため息をついた。
「これから二十四時間態勢で監視だ。交代でここに待機してもらう」
「えー」
青葉がうれしそうに声を上げた。
「残業代出ます?」
「もちろんだ」
説明資料を見ながら相田は言った。
「よろしければ、ご一緒させていただきたいのですが」
菫はJSTMOを出て帰り道だった。駅を出て、横断歩道で信号待ちをしているときに声をかけられた。
「何ですか」
そう尋ねてみたが、すぐに例の件だと直感した。言われるままにタクシーに乗った。
「さすがにオペレーターの方は察しが早い。リゾルバーを任されるわけですな」
見たところ菫の親ほどの年齢の男は、よくわからないお世辞を言った。しかし悪い気はしない。菫の年齢では社交辞令を言われることなどほとんどなかった。
「ご用件はもうおわかでしょう」
「リゾルバーの件でしょう。違いますか?」
「そうです。詳しい話は会社の方で」
「それはまずいわ。どこの会社ですか?」
「ご存じない? ディエスティリオン・ネットワークスです」
その名前を聞くと菫はちらりと男を見た。
「申し訳ないですが、名刺はお渡しできません」
「それより、データの件がばれたわ。まだ誰かは特定されてないけど」
「問題ありません。こちらに移籍してもらえれば、当社の法務部が訴訟問題はクリアします。証拠はないんでしょう?」
「もちろんです」
「ではアドレスです」
男は紙片を差し出した。
「以後は連絡はそのメールでお願いします。データの件が発覚したとなると、会社に来るのはまずいですね。誰かに見られる可能性もある」
「そうですね」
「ご自宅で降りてください。では私はこれで」
男はそう言うとタクシーを降りた。
深夜二時、梶田の寝室の電話が鳴った。
「オペレーターに接触がありました。今から来れますか」
「すぐ行きます」
電話を切るとすぐに着替えてタクシーを呼んだ。電話の相手はロックウェルFBI東京支局長である。FBIはアメリカ国内の警察機関であるから、本来ならば警察庁に連絡するのが常識だが、この件については以前から協定があり協力関係を構築していた。
(それではあの娘が裏切ったということか)
梶田の背筋に悪寒が走った。国を裏切り、敵と組む。それも金や利害目的ではない。梶田の理解を超えた行動だった。FBIからの警告がなければ、おそらく出遅れていただろう。
相田の電話が鳴ったのは、翌日の午前七時だった。相手は木塚だった。
「こんな時間にすみません。平菫に動きがありました」
「何があったんです?」
「接触がありました。ディエスティリオンネットワークスです」
「あの、MARESを開発した会社ですか。そこがJADGEのファイルを何に使ううんです?」
「それはわかりませんが、アゾイドの件で、ディエスティリオンネットワークスは利益を上げています」
「……それは株価操作という意味ですか」
「まだ推測の段階です。しかし、このタイミングで彼女に接触したんですから、ほぼ確定でしょう」
相田はショックを受けていた。どこかで菫を自分の娘のように思っていたのかもしれない。彼女のイメージとインテグレーションを使った犯罪は結びつかなかった。
「実は、彼女の通信記録から、暗号化したメールを送っていることがわかりました」
「相手は誰です?」
「現在確認中ですが、アメリカのようです」
「ディエスティリオンネットワークスですか?」
「その可能性はあります。ところで、上の許可を取りまして、そのメールが今ここにあるんですよ」
相田は再び衝撃を受けた。
「どうやって手に入れたんですか? 正式な要請じゃありませんね?」
令状がなければ、通信業者からメールを入手することなど不可能だ。違法捜査になってしまう。
「実はシギントを使いました」
「……まさかUKUSA協定ですか?」
「はい」
相田は木塚が本気だということがわかった。いや、木塚というよりも、その背後にいる国家という存在を感じることができた。鳥肌の立つような感覚だった。
「では、こちらは何をすれば……」
「メールは表には出せませんが、彼女に見せて反応を見たいんです」
「反応を……ですか?」
「表情を見れば、犯人かどうかわかりますから。ただし、私がそちらに渡すことはできません。特に相手がディエスティリオンネットワークスなら、訴訟のリスクがあります」
「それでは、受け取りができませんが」
「インテグレーションを使いましょう」
相田は思わず「ああ」とつぶやいた。その手は相田自身が思いつくべきだった。
「私の部屋に端末があります。メールは適当な場所に置いておきます」
「わかりました。オペレーターにコピーさせます」
「くれぐれも……」
「わかっています。インテグレーションすれば、証拠は残りません」
「私はこれから出勤してそちらに向かいますから、なるべく早くお願いします」
「すぐ手配します」
相田は電話を切った。すぐに芦野の名前を告げる。電話機は相田の声に反応して、ダイヤルし始めた。
芦野は木塚の部屋の前にいた。腕時計は相田につないだままだった。
「今、木塚さんの部屋の前です。これからどうします?」
「インテグレーションして、部屋に入るんだ。端末があるから、メモリーカードを挿していったんインテグレーションを解除する。それから端末の電源を入れて、平のメールをコピーする。終わったら、もう一度インテグレーションで外に出る。それで証拠は残らない」
「防犯カメラの映像はどうするんです?」
「君が部屋に入る瞬間は映らない。〈因果律〉が消してくれる。もし誰かに何か聞かれたら、友達のマンションを探していたことにすればいい。指紋さえ残さなければ、問題ないよ」
「本当にいいんですね?」
「非常事態だ。責任は私が取るよ」
芦野は電話を切った。意識を集中する。
芦野が木塚の部屋に入ると端末を探した。朝の早い時間なので、窓からの日光ですぐに端末は見つかった。メモリーカードを挿してインテグレーションを解除する。電源を入れて画面が明るくなると、メールを探してコピーした。再びインテグレーションした。リソースの使いすぎで、頭がくらくらする。防犯カメラに写らないためとしても、もっと直接的な手段を取りたくなる。部屋を出るとインテグレーションを解除した。
誰もいない世界が広がっている。
夜の砂漠は静かでいい。荒涼とはしているが、暗闇にいると心が落ち着く。月がないとよかったのだが、空は明るかった。いや、明るいどころか太陽が輝いている。しかし空は夜空のように真暗だ。周囲の山脈には樹木が全くなく、地平線まで続く台地は緑ではなく砂地が延々と続いている。あるのは岩石と砂礫ばかり。やがて空に巨大な球体が出現した。なつかしい母なる星を目の前に見てようやくここが月であると気がついた。
太陽の光は強烈で、影は黒々と陰影を映し出す。地上と異なり見える風景は濃い墨絵のようだった。
芦野は歩き出した。体の感覚はいつもと変わらない。重力も地上と同じようだ。自分の服装を眺めてみた。ジーパンにシャツという格好を確認しても驚きはしない。おそらくそうだろうと思っていたからだ。足の裏に月の砂を感じながら踏み出して進む。レゴリスに埋もれないように、強く踏みしめないように歩いていく。
しばらく進むと遠くの平原に何かが見えた。遠すぎて輪郭はぼやけていた。自分以外に動く物体が存在するというのに、彼は別段驚きもしなかった。物体は徐々に大きくなる。彼はその場で待つことにした。
やがて物体は人間の輪郭をとり始めた。あの男だった。見慣れた長衣を身にまとい、ゆっくりとしたリズムで男は足を動かした。鉄灰色の髪にごま塩の髭を生やしていて、老年とも壮年とも見てとれた。男が芦野に用があるのは確かに思われたので彼は待つことにした。
すぐそばの岩を見ると、あの数字の列が見える。
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これは何を意味しているのか、わからないままだ。すっかり見慣れてしまって違和感を感じない。しかしこれが見えるということは、東京サーバーはいないのだろう。
月面を支配する幾何学は何だろう。地上であればそれはフィボナッチ数列であり、非線形数学であろう。都市であれば経済原理も含まれるかもしれない。月面ではその類の造形は全く見られない。そこにあるのは統計学と放射線の支配する世界だ。岩盤は飛来物との絶え間ない衝突でえぐられ、一面のクレーターに覆われている。さらに岩石は日が当たれば最高百三十度の気温にさらされる。夜は零下百七十度以下だ。その上、大気のない空からは放射線の雨が降り注ぐ。やがて岩は細かい砂礫に砕けてゆく。月面には海とよばれる平地が広がるが、統計的偶然によって衝突がなかったわけではなく、化学組成の違いによるものだ。月の海はマグネシウムと鉄とチタンの多い玄武岩から構成されている。地球から見て陸地が明るく見えるのは、カルシウムやアルミニウムが多いからにすぎない。
視界は良好で彼方まで稜線がはっきり見えた。樹木は一切ない一面の岩肌だったが、不思議と落ち着く風景である。温度は快適で、ありえないことに心地よいとすら言ってもよかった。
男は芦野の前で足を止めた。
「あの娘に邪魔されたくなくてね。ここなら安全だ」
声が聞えた。脇にあの男が立っている。
「ここはどこだ? 見たことない場所だ」
「エラトステネス・クレーターだ」
「しかしどのレイヤーなんだ? 上のレイヤーということか?」
「まさか。ここに来た人間がいるのだ。有史以来十二人」
「……アポロ計画か」
「そういうことだ。彼らの記憶を使って構築した。十二人なら問題にならない」
そうして話しているうちに、遠く雨の海の地平に人影が見えた。NASAの宇宙服だ。
「……アームストロング船長ならいいな。サインでもしてもらおうか」
「後にしたまえ。計画を変更する。別のリゾルバーを使う。東京サーバーは使わない」
「オペレーターはどうする」
「それも変更する。谷村芹を使おう」
やがて芦野は不思議な気分になっていた。お前が話しているのは一体誰なのだ。雨の海で、アポロ乗組員を見ながら、〈因果律〉と会話する。そんな人生を送ることになろうとは。
時間は全くわからない。太陽が見えて昼間のようでも、そうした現象は意味をなさない。
「あの山は何ていうんだ?」
「集中したまえ。あとで月面地図を調べればいいだろう」
そしてこう思った。〈因果律〉に月面地図を調べるよう指示されるとは。
「東京サーバーが裏切ったんだな」
「予想された事態だが、もう一人の準備ができないうちに手を出された」
「谷村さんのことをいっているのか。他に使えそうな人間はいないのか?」
「日本国内にはいない。君は英語が話せるか?」
「冗談だろ。話せるわけない」
英語圏のオペレーターとインテグレーションを実行なんて、およそ考えたくない。
「ならば今のところ、現体制で何とかするしかない」
「リソース不足だな。俺の代わりは?」
「それもなしだ。わかるだろう。君のような人間の代わりは簡単には見つからない」
「光栄だね」
「アメリカと中国のオペレーターなら手配できるが、どちらも日本語は話せない。この体制で戦況を維持する」
「わかった。それでこのメールはどうする?」
芦野は手に持ったメモリーカードを男に見せた。
「暗号化されたメールだ。たぶん平菫のものだ。たった今、手に入れた」
「それを解読できればあの娘を拘束できるのか」
「そうだな。刑法犯罪で逮捕できる」
「それは公開鍵暗号でコーディングされている」
「そうだろうな。秘密鍵がわからないと解読はできないぞ」
暗号化通信はインテグレーションの前では無意味な技術と化す。どのような公開鍵暗号でも、秘密鍵がわかれば解読されてしまう。そして秘密鍵を盗むのは簡単だった。たとえ量子暗号であっても、暗号システムの基本構造が同じである以上、完全なシステムなど存在しない。オペレーターは秘密鍵を発見するだけでよい。しかしこの場合、秘密鍵は行方不明だ。
「鍵は5120ビットだ」
芦野は自分のメールも5120ビットで暗号化していた。
「いや、このメールは6144ビットのようだ」
公開鍵なら証明書からわかるが、それだけでは解読できない。解読できない以上犯人は特定できず、確保の根拠にはならない。そして鍵が長くなればなるほど、解読は困難になってゆく。
「デコードしてみよう」
それは芦野の予想外の言葉だった。
「無理だ。これはクラスNPだ。多項式時間では解けない。何年かかるかわからないぞ」
「解ける。そのためのインテグレーションだ」
そのために月面を用意したというのか。計算可能性の壁を破るために。チューリングやゲーデルクラスの数学者ですら何人でかかろうと一生解けない、いやスーパーコンピューターですら何年かかるかわからないクラスNPを解く。アルゴリズムを超えるアルゴリズムが必要になるだろう。必要とする演算リソースを想像して、悪寒が走った。オペレーターの能力を限界まで消費することになるだろう。無限時間を有限時間に帰着することはできない。そのためにはなんらかの〈跳躍〉が必要になる。それが可能な存在が目の前にいるのだ。彼が解けると言えば、解けるのだ。
芦野は周囲を見渡した。東京タワーが見える。芦野は電波塔の基部に近づいた。レゴリスに埋もれた鉄骨からケーブルがのびて、端末につながっていた。彼は電源を入れた。画面が明るくなる。
「なんで電源が生きているんだ?」
「通常であれば〈因果律〉の要請によってエネルギー保存則が適用されるが、今はルールを緩和している」
芦野はメモリーカードを挿した。画面に数字の列が表示された。
modulus
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それは6144ビットの秘密鍵だった。
しばらく待つと、画面にJADGE3システムのアカウントデータが表示され始めた。
「あなたが、GSTSだったんだな」
芦野はファイルの内容を確認し終わると、男に尋ねた。
「その呼び方で呼ばれるようになったのは、最近のことだが」
男はうなずいた。
「〈因果律〉と呼んだ方がいいかな」
「好きにすればいい。それより時間がない」
「リソースが限界なのか?」
「そうだ。ここは君の意識内だが、それではリソースが不足する」
「どうすればいい」
「オペレーターにサポートさせる。彼女のリソースを使って不足分を補う」
「待ってくれ。質問がある」
「何だ」
「なぜ東京サーバーは裏切ったんだ?」
「われわれは統一された個体ではない。リゾルバーは自律的行動が許されているのだ」
「じゃあ、彼女のことはどうだ。どうして東京サーバー側についたんだ?」
GSTSは答えない。
「……あなたになら説得できたんじゃないか?」
これほどの力があるなら。
「その選択肢はなかったのだ」
「納得できないな。あなたならできたはずだ。違うか? 彼女を犠牲にしてでも、東京サーバーをつぶしたかったということか?」
「それは違う」
「なら理由を言ってくれ」
「……望めば、助ける道もあったかもしれない。しかし彼女は望まなかった」
「それは違う」
「違わない。望まないかぎり、私が力を貸すことはできない。そういうルールなのだ」
「……あの子が望まなかった、だからこうなったと」
「そうだ。そんなに彼女を救いたかったのなら、なぜ君は行動しなかったのだ」
「俺? 俺に何ができる」
「こうなる前に君にできることがあったはずだぞ」
「……ちょっと待ってくれ。なんで俺が同列なんだよ。おかしいだろう」
「君がそう望んだのなら、違う道もあった」
「……それでも」
かろうじて彼は言葉を絞りだした。
「それでも、何とかすることはできたはずだ。あなたは〈因果律〉なんだから」
JSTMOのサーバールームにいた相田に、芦野から電話がかかってきた。
「芦野です」
「状況は?」
芦野がGSTSの協力で、メールを解読したことを説明する。
「室長のデータと照合しました。JADGEのデータです」
「わかった。あとはこっちでやる」
相田は木塚に電話をかけた。
菫の電話は指輪型端末だった。メールの着信音が指輪から聞こえた。指輪からの光が、メールの文面を服に表示する。
メールには、アメリカへの飛行機が指示されていた。成田から仁川空港へ行き、トランジットしてサンフランシスコへ。メールに書かれていたのはそれだけだった。
菫はすぐにスーツケースの準備を始めた。
木塚が菫の部屋に着いたときにはすでに菫は成田から出国していた。木塚は空港まで追いかけたが確保することはできなかった。菫の乗った便を調べたが、菫の行動の方が速かった。木塚にとって、こんな経験は初めてだった。素人の仕事ではない。いくらオペレーターでも、テレポーテーションができるわけではない。異常な事態だった。彼は相田に電話で報告した。
「空港で確保はできませんか?」
「今ごろは仁川のトランジットも終わっているでしょう。太平洋上空ですよ」
「そうですか……」
相田はくやしそうにつぶやいた。
「サンフランシスコ空港で確保してみますが、インテグレーションを使われると……」
「ええ、難しいでしょうね」
オペレーターを確保するのはほとんど不可能だろう。特にリゾルバーの協力がある場合は、絶望的な行為だということが、木塚にもわかってきた。
タクシーを降りて部屋に向かう途中、芦野はアシスタントに電話した。
「俺だ。カリフォルニアとの時差は何時間だ」
「アメリカ西部時間で十二時間です」
「じゃあ、ハノイの塔で円盤を三十五枚にしたときの実行時間は?」
「……お待ちください」
芦野はこのようにストレスがかかって血圧が上昇した場合には、たいてい端末との無意味な会話で少しでも冷静になろうと努めていた。
「……その問題は計算困難な問題です。私ではお答えしかねます」
「じゃあ巡回セールスマン問題でもいいぞ」
「その問題はNP完全問題です。そちらも私ではお答えできません。時間をいただければ努力はいたしますが、ご満足いただける答えが出せるとは思えません」
「いいよ。ありがとう」
アシスタントに無理難題を言ったからといって、怒りで爆発することもないだろうが、どことなく後ろめたさがあって芦野は切り上げた。
「芦野さん」
「ん?」
「先ほどの問題ですが、別の解決手段があるかもしれません」
「何だ」
「先日アメリカのディエスティリオン・ネットワークスが発表した量子コンピューターを使えば、有限時間で答えが出るかもせれません」
「ああ。俺も見たよ。ニュースでやってた。あれならできるのか」
「有限時間内に解くことはできなくても、別のアルゴリズムが発見されるかもしれません」
「そうだな。もういいよ。部屋に着いた」
「そうですか」
アシスタントはそれきり沈黙した。芦野が端末の知能を試すような質問ばかりするので、学習しているようだ。DNのマシンを使えばNP完全問題が解けるのなら、あのドミノも解けるのだろうか。そんなことを考えながら部屋に入った。
彼の部屋の窓は全て閉めきられて、フィルムが貼ってある。外からの光は一切入ってこず、部屋にいれば時間はわからない。彼はそんなスタイルが好きだった。白熱電球の間接照明に、月面写真が浮かび上がる。壁はクレーターの写真で埋め尽くされていた。月の夢を見てから、部屋を改装し続けているうちにこうなってしまった。そしてぼんやりと何時間もベッドに腰掛け、月面を見続けた。自分が何をしているのか、よく理解していなかった。それでもよかった。時間に意味があるように感じられたからだ。
菫はホテルを出てカルトレインに乗り、サンアントニオ駅で降りた。そこから十分ほど歩けば、DNの本社に着く。
彼女は海外に出るのは初めてで、カリフォルニアの空気は新鮮だった。聞こえてくる会話は英語とスペイン語ばかりで、たまに中国語が混じっている。それでも、不安は全くない。一人ではないのだ。何かあれば東京サーバーにリンクすればよかった。
道に迷いながら本社にたどり着くと、カンファレンスルームに案内された。そこでピーターソンとクーパーが出迎えた。
「シリコンバレーへようこそ」
窓から健康的なカリフォルニアの陽光が降り注ぐ。カラフルなテーブルと椅子はオフィスの雰囲気ではなく、クリエイティブな環境を創ろうという意思が感じられた。それがDNの企業文化というものなのだろう。しばらくカリフォルニアの気候やシリコンバレーの流行を話していると、クーパーが書類を持ってきた。
「契約書だ。サインしてもらえるかな」
菫は慣れない手つきで契約書にサインした。
「これで君は我が社の社員だ」
「歓迎するよ」
彼女は二人と握手を交わした。
「それで仕事はいつからですか?」
「早速で申し訳ないが今からでもいいかな」
「もちろんです。観光に来たんじゃありませんから」
ピーターソンは笑いながら、
「日本人はハードワーカーだな。それじゃあ移動しようか」
「どこへですか?」
「アイオワだ。カウンシルブラフス」
アイオワ州はアメリカ中西部のコーンベルトと呼ばれる穀倉地帯にある。見渡す限りプレーリーの丘が延々と続いているような土地だ。草原のなだらかな起伏は広大な平地につながり、そのまま地平線まで続くトウモロコシ畑が広がる。
ピーターソンのプライベートジェットは空港に着陸した。市街地の外れの草原に空港があった。アイオワ州ならではの光景である。
DNのデータセンターは全世界に分散して配置されている。全米に九カ所あるデータセンターのうち、アイオワ州カウンシルブラフスは最大規模のものだった。広大な敷地に工場に似た建造物が続いている。その目立たない外観とは異なり、内部には洗練された最新テクノロジーの集合体が詰まっている。
菫はサーバールームを案内された。野球場ほどの空間に、数百台のサーバーラックが整然と並んでいる。それは美しいと表現できる風景だった。ラックから延びる赤や青の配色されたネットワークケーブルは、どこか血管を連想させる。有機的な活動を感じさせた。どこかガウディの建築のようだと菫は思った。
エレベーターで地下に降りると、一面に白いタイルが張られたフロアを案内された。セキュリティチェックを何回も受けて、研究区画にたどり着く。ピーターソンがドアを開けた。
その部屋は病院の検査室に似ていた。机の上にモニターが何台も並び、ガラス窓の向こうにベッドが見える。
「ここですか?」
「そう。こちらはいつでもテスト可能だよ」
「試してみましょうか?」
「そうだな」
ピーターソンはクーパーの方を見た。
「よし。我が社のオペレーターの実力を拝見しようか」
ピーターソンはクーパーに準備するよう指示を出した。
「これがMARESだ」
「MARES?」
「Multi-layer Astronomical Resolving Environment Systemのことだ」
「そのMARESが量子コンピューターなんですか?」
「違うよ。MARESはソフトウエアだ。オペレーターと接続して、リゾルバーのバックアップとなるシステムだ」
「技術的なことはよくわかりませんが、リゾルバーと同じと考えていいんですか?」
「オペレーターは意識しなくていいよ。いつも通りインテグレーションしてくれればいい。リゾルバーがもう一台増えるよなものだから」
「リソースも増えそうですね」
「おそらく増えるだろう。君なら東京サーバーと同じに扱えるはずだ」
菫がホテルに帰った後のオペレーションルームで、ピーターソンとクーパーはデータを解析していた。
「うまくいってよかったですよ」
クーパーはやっと結果が出せて、ほっとしているようだった。
「そうでなければ困る」
ピーターソンも満足げにうなずいた。
「それにしても彼女はなぜ契約する気になったんでしょうか」
「彼女の父親は、彼女が子供のころに事故死している」
ピーターソンは眠そうだった。
「それで東京サーバーは何を持ちかけたんです?」
「おそらく、バックアップができたら、父親の事故を変更するとか言ったんだろう」
「できるんですか、そんなこと」
「まあ、相手が相手だからな。裏切ってくれれば、こっちは事情なんかどうでもいいさ」
「……ひどい言い方ですね」
「かわいそうだなって同情してあげればいいのか? 今日、交通事故で何人死んでるか調べてみろ。そんな話はごろごろしているんだよ。お涙ちょうだい劇は他でやってくれ」
「そういうつもりでは……」
クーパーは気おされて黙った。
「これはビジネスだ。君はボランティアでもしているつもりか? どれだけの金が動いているか自覚しろ。株主連中は同情で金を出してはくれんぞ。失敗したらそれで終わりだ」
「わかっています」
「だったら結果を出せ。今度失敗したらわれわれは終わりだ」