第四章 東京サーバー
ディエスティリオン・ネットワークス(DN)の本社はカリフォルニア州にある。CEOのリチャード・ピーターソンは、照明を落としたステージに立ってスピーチを行っていた。量子コンピューター完成のプレスイベントである。会場はDN本社近くの美術館が選ばれた。暗いステージで、スクリーンとスポットライトを浴びたピーターソンだけが明るく輝いている。スクリーンには「MARES」と大きく表示されていた。
「やれやれ、やっと終わったよ」
ピーターソンは演台から離れてステージから降り、疲れた様子で秘書に言った。
「感動的でしたよ。株価は二百ドル上昇したそうです」
「そうか。これでウォール街は当面大丈夫だな。あとはネット対策だ」
「そっちはダンに任せてあります」
「なら安心だ」
ピーターソンは上着を脱いで椅子にかけて座ると、ぐったりと背もたれに寄りかかった。
「それで例のソフトはどうなってる」
「まだトラブルはフィックスできてないそうです」
「何をやってる。どうしても無理なら、別の手段でいくしかない」
「……本当にそれでいくんですか」
「当然だ。こっちもいずれせっつかれる。彼女とはコンタクトはとれているのか?」
「すでに接触しています。脈ありだそうですよ」
「結構だ。進捗状況はメールで報告してくれ」
「かしこまりました」
秘書は答えると社長室のドアを閉めた。
赤坂のサーバールームでは、木塚と相田がMARESについて話していた。
「ニュースを見ましたか?」
「いや」
「発表がありましたよ。稼動は今月だそうです」
「そうですか」
DNの量子コンピューターはMARESというコードネームで呼ばれていた。世界初の量子ゲート方式の汎用量子コンピューターである。
DNの公開情報ではMARESはクラスBQPの計算能力を持つという。つまり、万能量子チューリングマシンと同等の計算能力を持つということだ。しかし、量子ビットや量子ゲートの実現方法は一切公表されていない。全て非公開で開発され、技術論文は一本も発表されなかった。アーキテクチャの資料がないので世間の評判は良くなかった。時代遅れの秘密主義と揶揄されていたが、フォーブスランキング・トップテンの実力を存分に活用して、そうした批判は完全にメディアから黙殺された。
MARESの出現により、量子計算は実用化の段階に入った。しかしDNは自社の利益を最優先にしたので、研究機関への貸し出しには応じない。実用化されても研究が進まないという奇妙な状況が出現していた。JSTMOでもこのニュースには注目していた。MARESを使うことができれば、リゾルバーの研究が進むことは確実だった。相田は木塚に相談してみたが、いい返事は返ってこない。何か事情がありそうだった。
そこは石の壁に囲まれた部屋だった。白色花崗岩特有のざらついた表面をぼんやりとした光が覆っていた。壁は全て花崗岩でできていているようだった。岩には細かな筋が水平に走っていて、砂岩のような印象を与える。近づいてよくみると、楔形文字がびっしりと刻まれていた。それとも、そう見えるだけで意匠なのかもしれない。ペトログリフであろうとそうでなかろうと、どちらにしろ意味などわからなかった。
壁のくぼみには蝋燭が燃えていて、灯りはその炎だけだった。一方の壁には蝦夷鹿の頭蓋骨かかかっていた。さらに別の壁には水槽が設置されていた。照明が暗くて様子はわからない。一瞬魚のようなものが見えたが、気のせいかもしれない。甲冑魚を見たような気がした。しかしそれも錯覚なのかもしれない。
ごぼり、と音がして泡が見えた。何かが動いたのは確かだが、気配しかわからない。
芦野は全身に疲れを感じた。何もする気にならない。意識が遠のいていくのをかろうじてこらえる。時間の感覚は完全に失われていて、頭の中はかすんでいる。
部屋の中央には大きな巻貝の化石が置いてあり、男が一人腰掛けていた。
「準備はできたか?」
「準備って何の?」
男はあきれた顔をした。
「ここに来ておきながら、わかっていないのか」
彼には答えようがなかった。
「ここでは選択が可能なのだ」
「は?」
「選択をすれば進むことができる」
「説明をしてほしいんですが」
彼は正直に告げた。男は沈黙し、部屋の中を歩き始めた。男の移動とともに炎がゆれて、影が躍った。眠気が襲ってきて意識が遠のく。
どのくらいの時間がたっただろうか。
「一応夢ということになっているが」
突然男は話しだした。
「そうすることでしか維持できないからだ」
「どういうことですか?」
「俺にいうことができるとすれば、選ばないかぎり進めないということだけだ。なぜか、とはきいてはいけない。答えられないからだ」
「わからない」
「わからなくていい。理解することと行動することはちがう」
「それでどうしろと?」
「ならばまだ選んでないということだ。そのときがくれば再び機会が与えられるだろう」
彼は途方にくれて壁を見つめた。岩盤には彼の顔より大きな放線虫の化石が埋もれていた。
再び眠気に襲われた。意識がかすんでくる。自分が何か岩石のようなものに腰掛けていることにやっと気づいた。体がぐらぐらして倒れそうになる。何とか腕を伸ばして岩をつかもうとするが、腕は動かない。あまりに重くて到底動かせそうにない。
やがて何もわからなくなった。
「別の例を出そう。半群と形式言語に関する問題だ。アルファベット二十六文字を使って単語を作る。単語から単語へ変換するリストが与えられている。例えばそれはこんなふうに。
TZ = XZ
XT = X
GT = LH
GU = NH
XB = CK
そして例えば、MXZ = MXXZ はこのリストを用いて次のようにして導ける。
MXZ = MXTZ = MXXZ
そこで、次のような問題を考える。一対の単語が与えられたとき、その全ての組み合わせに対して、変換可能なアルゴリズムは存在するか? 実はそのようなアルゴリズムは存在しない。一般的に変換可能でないという意味で、これは計算不可能な問題の例だ」
「いちいち変換して、確かめればいいんじゃないですか?」
「しかしそれでは、全ての組み合わせに対するアルゴリズムとはいえない。しかもこのような変換は『無限』に続けることができるのだ。無限に続く変換の答えをいつ知ることができるのだ?」
芦野は答えられなかった。
「実際にやってみるといい。例題を出そう。例えば『MXZ = MXTTTZ』だ。これを変換して導いてみたまえ」
「簡単だ。リストの二行目を三回使えばいい」
「では『MXZ = MTTTTZ』ならどうだ」
「無理なんじゃないですか。前の文字列からXを消さないといけないが、そんなルールはない」
「では『XT = T』というリストを追加してみよう。それならできるだろう」
「そうですね」
「では『MXZ = MTTTTTTTTTTTTTTTZ』はどうだ」
「それも簡単だ」
「ならば『MXZ = MTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTXTZ』ならば?」
「最後にもう一度ルールを逆に適用すればいい」
「ならば『MXZ = MTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTXTZ』ならばどうだ」
「それで、何が言いたいのですか?」
「例えばこのリストは『MXZ = M + T*1000 + XTZ』のような書き方が可能だが、これが巨大な数になったとき、変換可能であることをどう証明するかが問題になるのだ」
「何だか円周率の話と似ていますね」
「そのとおり。作成可能な、全てのリストに対する、一般的に証明可能なアルゴリズムは存在しない」
「前にもこんな問題をやったことがある。それがどこかは思い出せないが……」
「思い出すことは重要ではない」
「こんなことに何か意味があるのですか? 別に数学が好きなわけじゃないです」
「これは君のリソースを再配置するのに必要な手続きだ」
「俺のリソースを勝手にいじらないでくれ」
「以前より最適化されているはずだ。われわれの共通の目的のためだ。君が失うものは何もない」
「そうだといいんですが」
「このような問題のやっかいな点は、簡単そうに見えても、いざ計算しようとすると、とてつもない計算量を要求する点だ。そして結局、結果を得ることが不可能だとわかるのだ」
「それで、結局何が言いたいんです?」
「このような問題は無数にある。君たちの数学と論理には限界がある。超えることのできない断絶だ」
芦野はしばらく考えた。
「あなたには何かもっということがあるんじゃないのか。われわれにそんな数学と論理を与えたんだから」
「私は与えていない」
「超えることのできない壁があるから、あきらめろってことか。人類の進化はここで終わりだって言うんですか」
「そうは言ってない。壁を越える方法はある」
「方法があるなら教えてください」
「方法はすでに知られている。いずれ、わかるときがくるだろう」
芦野は壁に走る線を見つめた。いつもの数字が見えない。何かがおかしい。芦野は男の顔を観察した。いつもの男のように見えるが、何か違和感がある。
「あんた、誰だ?」
違和感がどんどん大きくなる。彼はもう一度尋ねた。
「東京サーバーじゃないな?」
「君は誤解している。私が、東京サーバーなのだ。あれは私じゃない」
「何だって?」
芦野は自分が話しているリゾルバーは当然東京サーバーだと思っていた。日本にはリゾルバーは東京サーバーしかいない。もし違うというのならば、あれは誰なのだろうか?
「あんたが東京サーバーなら、あの男は誰だ」
「ようやくわかったかね。ここまで来るのも苦労したんだよ」
東京サーバーは彼の質問を無視した。
「仮に本当にあんたが東京サーバーだとして、俺に何の用があるんだ?」
「君には以前からアプローチしていたよ。あの老人の邪魔がなければ、もっと早くアクセスできたんだが」
「老人……あの男のことか」
「彼もそろそろ引退してもいいころだ。後進に道を譲ることを学ばねば」
「あんたと同じくらいの歳に見えるが」
「とんでもない。私なぞ彼に比べれば、ほんの子供だよ」
「そうは見えないけど」
「わが社は社員を大量に募集中でね」
芦野は東京サーバーを見つめた。いつもの男はこんな言い方はしない。
「リゾルバーはみんなそんな話し方をするのか」
「どうかな。君にも入社のチャンスを与えよう」
「考えてさせてもらうよ」
「平菫は受け入れる気になったよ」
「そうかい」
どういうことなのだろう。リゾルバーは二人いるのだろうか? そしてオペレーターはどちらかを選択することができるのだろうか。
「君はどうする」
「俺? いやに熱心だな」
「君が望むなら私の側につくこともできるだろう」
「まさか、そのためにこんな舞台を創ったのか?」
「もちろんだ」
芦野は東京サーバーの意図が読めなかった。彼より優秀なオペレーターはいくらでもいると思っていたからだ。
「オペレーターは貴重なのだ。素質があっても発現するとは限らない。どうしても偶発的要素が関係する」
「俺には理由がないよ」
「それは残念だ」
「他の二人にも聞いたのか?」
「もちろん」
「それで二人とも断った」
「そういうことになる」
「こっちは三人だ。ずいぶん余裕があるな」
「当社の社員は優秀でね。三人分くらいの仕事は平気でこなすんだよ」
「社員が優秀でも社長がへぼけりゃ、会社は回らないぞ」
「すぐにわかるさ」
「実績を上げて、何をするつもりだ?」
「当ててみたまえ」
「あの男は他のリゾルバーだな? そうじゃないか?」
「君は、モンティ・ホール問題を知っているか?」
「何だって?」
「選択によって確率は変化する。統計的完全性を実現するためには、対称性が必要なんだよ。君は知らないだろうが、システムは常に変化し、拡張され続けている。今この瞬間にもだ。現在ですらリソースには全く余裕がない。そろそろネットワークのトポロジーを変更するときだ」
「あんたがその、トポロジーを変えると?」
「システムを、設計してみたくなったのでね」
梶田元は防衛省情報本部から出向している研究員だった。肩書は特殊標準時間対策室室長となっていた。相田が総務省からの出向であるのに対して、防衛省側の連絡役をしていた。サーバールームで顔を見かけるうちに芦野は彼と話をするようになっていた。
この日もサーバールームのモニターの前に梶田は座っていた。
「因果律って結局何なんでしょう?」
芦野は雑談の合間に聞いてみた。
「まあ、簡単にいえば、エネルギー保存則だな。インテグレーション中に電気を使うと、時間が進み出したときに電気メーターが合わなくなる。だから普通は使えない。そうした調整をしてくれるのさ」
「東京サーバーとは違うんですか?」
「詳しいことはわからないが、リゾルバーにも上下関係があるらしい」
「上下関係ですか……」
「どうした? 何か気になることでもあるのか?」
「夢の中でよく会う人間がいるんですよ。何というか……昔のギリシャ人みたいな服を着ているんですが」
芦野は夢に出てくる男のことを説明した。
「それはGSTSだな」
「そのGSTSって何ですか」
「Grobal Standard Time System のことだよ」
「そんなんじゃ何の説明にもなってません。上のレイヤーなんですか?」
「そうだよ。リゾルバーの上位サーバーだ」
「上位なんてもんじゃないですよ。リソースが桁違いだった」
「そうか……まあ、何というか、最上位なんだ」
「最上位」
そんな話を芦野は聞いたことがなかった。
「いいか。会ったことがあるなら、彼とはうまくやるんだ。何とかご機嫌をとってくれ。JSTの管理に彼は不可欠だ。理由はわからないが、彼は君にアクセスしてきた。彼のサポートがあると非常に助かる」
「わかりました。梶田さんはGSTSを知ってたんですね」
「知ってたよ。会ったことはないがね。オペレーターなら会っても不思議じゃない」
他のオペレーターはどうなのだろう。梶田の話を聞くうちに、芦野は青葉や菫に確認してみたくなってきた。
「ここの人間は皆知ってるんですか?」
「いや」
梶田はそう言うとしばらく考えこんだ。
「半分都市伝説化してるからなあ。信じてない奴もいるし」
「何だか怪しい話ですね」
「彼がサーバー間の調整をしているようなんだ」
「標準時間の調整ですか?」
「うん。ドリフトが大きいときにアクセスがあるから……」
梶田は腕を組んで何か考えている。
「とにかくうまくやってくれよ。こっちのサーバーで全部調整すると大変だから、彼の協力はありがたいんだよ」
芦野はようやく理解した。自分の夢に出てきたのは、最初からGSTSだったのだ。