第三章 JADGE3
駐日アメリカ大使館には連邦政府機関の職員が多数勤務している。司法省連邦捜査局も支局を構えていて、駐在官を配備している。木塚太一もそうしたFBI駐在官の一人であった。
木塚はアメリカ国籍だが、どう見ても日本人にしか見えない。同僚たちは外国人とすぐわかるが、それが必要な場合と不要な場合がある。後者の場合のために木塚のような駐在官が配置されていた。そして、オペレーターに関する問題は木塚がまさに適任ということで、ロックウェルが指示したのだった。
FBI駐在官の主な仕事は大使館の警備だが、本国に比べれば日本は安全すぎて仕事らしい仕事がない。そのため大使館勤務は激務の間の息抜きと認識されていた。しかもJSTMOの仕事はオペレーターと呼ばれる、木塚から見れば子供のような連中の相手であった。オペレーターの中で一番年上の芦野でさえ、木塚には幼く見える。確か三十前後だったはずだが、日本人は若く見えた。自然と、木塚よりかなり年長である相田や他の研究員と接する機会の方が多くなった。それでも緊張感を維持するのは難しかった。彼自身、骨休めをしたかった時期でもあり、リラックスした日々を送っていた。
オペレーターの能力も木塚には実感がない。インテグレーション中は時間停止が行われても、因果律が働くため、現実に変更が加わることはほとんどない。時間が停止した証拠は重力波のデータだけなのだ。携帯端末の記録は、彼には根拠不明の情報にすぎない。彼のような警察組織の人間にとっては、リアリティが感じられないのだ。アゾイドの機密ファイルの件も、証拠は全く見つからなかった。オペレーターは無関係で、ストレインは誤検知ではないか。彼はそう考えていた。
赤坂の会議室では相田と木塚が机を挟んで話していた。
「市ヶ谷でストレインが確認されました」
「つまり、市ヶ谷にオペレーターが侵入したということですか?」
「そうです。市ヶ谷に確認したところ、サーバーにアクセス記録が発見されました」
「……ハッキングということですか?」
「そういうことになります」
相田は不機嫌そうに答える。
「何のためにそんなことを」
「JADGEシステムのアカウントデータです。すでにコピーされたようです」
現在のJADGE3システムは市ヶ谷の地下サーバーに集約されている。アカウントデータを入手してサーバーにアクセスすれば防空システムを操作できる。まず想像されるのは、テロ目的だった。侵入したオペレーターがテロを計画している。木塚はオペレーターのメンバーの顔を思い浮かべた。どの顔もテロとは結びつきそうにない。
しかし、テロリストの常套手段とは、そうしたものだ。
「これは立派な刑事事件だ。立件できますよ」
「いやそれが……証拠はインテグレーションのデータしかありません。表には出せないでしょう」
相田がそう言うと木塚は考え込んだ。インテグレーション後は因果律によって全ての証拠が消えてしまう。唯一の例外が携帯端末の記録データだが、今回は改ざんされているようで記録は消去されていた。
「相田さんは誰が犯人だと考えているんですか?」
「平菫です」
相田は即答した。
「彼女だと考える根拠は何ですか?」
「彼女のファイルはご覧になったでしょう。四人の中で一番可能性が高いのはあの子ですよ」
「……父親のことですね」
「はい」
「でもそれが」
と、木塚は気付かないふりをして聞いた。
「どうして可能性が高いといえるんですか?」
こうした話し方は日本人同士ならありえない。しかし外見は日本人でも、アメリカ国籍を持つFBI駐在官という身分が可能にする会話技術だった。ある意味あざといやり方だったが、日本人相手に有効な社交技術の一つだった。相田はちらりと木塚を見たが、嫌そうな顔はしなかった。
「彼女にはわれわれを裏切る動機があるということです。〈因果律〉に対していい感情を持っていないように見えました」
「父親の交通事故が〈因果律〉のせいだと考えていると?」
「私はそう思います」
木塚は意外だった。相田の声が驚くほど優しく聞こえたからだ。彼は勝手に相田を官僚の一人と見なしていた。しかし今は相田に省益や自己保身といった、官僚的な性質をあまり感じない。日本の官僚を見慣れた木塚にとって、新鮮ともいえた。
「いや、これは私見です。とにかく、何らかの対処が必要です。それで捜査機関に頼れないとなると……」
「わかります。被害届けが出せないとすると、別の手段が必要になる、ということですね」
「おっしゃるとおりです」
「そうですか……わかりました。われわれで引き受けましょう」
木塚がそう答えると、相田は安堵した表情を浮かべた。
「そうして頂くと助かります。一応、行政機関ですから、これ以上は動けませんので」
「こういうときのためにわれわれがいるんですよ。ヒューミントはわれわれの得意分野ですから。調べてみましょう」
「お願いします」
「それから、あとの三人ですが、念のため調べましょう。相田さんの勘を疑うわけじゃありませんが、可能性はつぶしておきたいので」
「結構ですよ。そちらのやり方でやっていただいて構いません」
木塚は予定を組み始めた。まずロックウェルに報告しなければならない。
「……それから、政府への連絡はどうしますか? 相田さんからの方がいいですか?」
「官房長官へは、私から連絡しておきます」
「わかりました。防衛省の協力が必要ですが、私が動きましょうか?」
「それは困ります。私を通してください。ここには防衛省から来ている研究員もいますから、連絡はすぐできます。待っていてください」
そう言って相田は部屋を出て行った。
菫は都内のアパートに独りで住んでいた。木塚は菫の部屋のカーテンを閉めた。
菫の部屋の捜索は木塚と女性の捜査官で行っていた。礼状なしの捜索は完全な違法行為だが、緊急の事態ではやむを得ない。そもそも大家に確認すら取っていなかった。実を言うとこの種の行為は初めてではない。柔軟かつ大胆に行動できないようでは、いざというとき役に立たない。
「見つかりそうか?」
「どうでしょうね」
女性自衛官は興味がなさそうに答える。彼女は防衛省情報本部の所属だった。女性の部屋は女性が調べるのがセオリーということで同行している。
木塚は部屋を眺めた。あると思われた父親の写真は見当たらない。それどころか、不要なものは一切なかった。
「触らないでください」
木塚が机の上のノートに手を伸ばすと彼女は鋭い声で注意した。カメラで室内の撮影を始める。
「そこまでする必要があるか?」
「若い子だからってなめちゃいけません。一ミリでも動かせば気付かれますよ。彼女は警戒しているんでしょう?」
「たぶんね。そんな感じだった」
「なら、慎重にしなければいけません」
木塚は彼女のアドバイスに従うことにした。
「じゃあ、俺はこっちをやるよ」
そう言って端末のスイッチを入れる。パスワードロックがかかっていたが、既にわかっているので簡単にログインする。菫はコンピューターには詳しくないので、木塚がログインした痕跡を隠すのは簡単だ。彼は気楽に調べることができた。作業用と思われる場所を探すがファイルは見つからない。
「あと何分だ?」
「余裕は三十分です」
「持ち帰るしかないか」
そうつぶやくと彼はストレージを全てコピーし始めた。
「そっちはどうだ?」
「だめですね」
自衛官は机の引き出しを調べている。
「相当警戒してますよ。普通はもうちょっと散らかっているもんですが……」
「そうか」
「今のところ、何も出てきません」
ファイルがないとすると、どこかに隠すしかない。彼女の慎重さから、部屋にあるとは考えづらかった。
「ここにあると思うか?」
「ないでしょう。あればもう見つけてますよ」
「なければ仕方ない。別の手を考える」
「了解しました」
二人は侵入の痕跡を消して部屋を出た。木塚はストレージのデータは全て分析したが、目的のファイルは見つからなかった。菫が犯人だとしたら、ファイルは消したか、誰かに渡してしまった可能性が高い。
木塚は防衛省と協力して、オペレーター全員の行動を監視したが、手掛かりはつかめなかった。
木塚が赤坂に報告に行くと相田が会議室で待っていた。
「それで結果はどうでした?」
「だめです。見つかりませんでした」
「現物を押さえるしかないか。後はこっちでやりましょう」
「どうするんですか?」
「行動記録をもらいましょう。インテグレーションを解析して、彼女の行動範囲からポイントを絞ります。あとは人海戦術です」
「そんなことができるんですか?」
「ええ」
相田は木塚の渡した報告書を見つめながら、うなずいた。
「できれば、あからさまにはやりたくなかったんですが……気付かれるでしょうから」
「そうですね」
木塚は大きく息を吐き出した。
相田はオペレーターたちといるときと、木塚と話すときでは様子が違って見えた。木塚といるときの方がリラックスしてよく喋る。木塚はどことなく相田に好感を持った。
「スピードの勝負になりますね。彼女にスピードで勝てますか?」
「厳しいでしょう。しかし、やるしかありません。できればこうなる前に手を打ちたかったんですが、相手の方が速かった」
「そういうもんですよ」
木塚はたばこの箱をポケットから取り出した。
「しかし、スピードだけでは勝てないですよ。ショートカットは可能ですから」
「そうですか?」
「そうですよ。少なくとも、われわれの世界では」
木塚は会議室を出て、ロックウェルにどう報告するか考えていた。何か他の方法を考えろと言われるのは、目に見えていた。