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第一章 月面

 地球の直径は月の約四倍だと、どこかで読んだ記憶がある。そのせいか、月から地球を見ると、とにかく大きく見える。面積を考えても直径が四倍ならば十六倍になる。感覚的にはそこまでは大きくない。せいぜい倍ぐらいの大きさだ。それでも大きい。地球上から月を見た場合よりも大きい。そして美しい。月から見た地球がいかに美しいかは、多くのアポロ宇宙飛行士が書いた記録を読めばわかる。その美しさは実際経験してみなければわからない。何もない荒れ野のような月の大地から見上げると、冗談のように壮大な地球が見える。その美しさは、例えば台風の雲が形成され、ゆっくりと動いていく様子がつぶさに観察できたり、あるいは夜に東京のような大都市の明かりが点灯していくのが見えたり、あるいは低気圧の雲の中に雷光が瞬くのが見えたときに特に強く胸を突き刺す。三十八万キロの彼方にあるのに、その存在感はあまりに強烈だ。芦野には、今日はいつもにもまして特に大きいように感じられた。あまりに圧倒的であり、彼の存在など消し飛んでしまいそうだ。

 芦野はレゴリスを踏みしめて歩き出した。足先を上げるとレゴリスが舞い上がる。細かな砂礫は地球とはまるで違った感触を与える。地上の砂よりもはるかに小さい粒子は雪や石膏を連想させた。弱い重力のせいもあって、巻き上げてはふわりと落ちるのを見ると余計にそう感じる。

「ここに来るのは初めてかな?」

 傍らに男が立っている。見たことのない男だった。灰色の長衣を着ていた。

「ここはどこですか」

「無論月面だ。君はオペレーターに選ばれた。日本では三人目だ」

「……三人目?」

「目が覚めればわかる。リソースが必要なのだ」

「何だか、よくわからないんですが」

 彼は突然意識がぼんやりしてうまく話せなくなってきた。体に力が入らない。

「例えばこういう話はどうだ。円周率は知っているだろう」

「知っていますけど」

「円周率は無限小数だ。その値の計算は現在三十兆桁まで進んでいるが、その性質には不明な点が多い。例えば値の中で一から九までの数字がどの程度の割合で出現するかは、わかっていない。円周率の十進展開のどこかに、一二三四五六七八九の並びは何回出てくるか。こうしたことは解明されていないままだ」

「待ってください。いったい何の話をしているんですか?」

「円周率の計算は可能だから、いずれこのような数字が出現するかもしれないが……直接計算して確認するしかない。しかしその計算は無限に続くのだ。われわれは円周率の計算式を知っている。式から計算可能であるにも関わらず、その値を実際に知ることは非常に時間がかかる。いや実際に知ることができるのかさえ、わからないのだ」

 芦野は男が何を話しているのか理解できなかった。

「こうした事実が、意味を持つことがやがてわかるだろう。今はわからなくてもね」

「私にどうしろというのですか?」

「君のリソースの配置を修正している。これは必要な作業なのだ」

「……やっぱりわからない」

「今日はこのくらいにしておこう」

 いったい何が、このくらいなのだろう。自分の知らないところで、勝手に物事が進行していくのは気分のいいものではない

 芦野は説明を待ったが、男は黙ったままだ。芦野は足元の石を見つめた。月の石はさらさらしたレゴリスに覆われて静かに横たわっている。表面には細かな筋が走っている。彼は顔を近づけた。文字のようなものが見える。


 03:e4:56:a1:6b:90:ce:f5:54:37:61:ca:a4:be:9a

 e5:62:0f:70:d7:7f:89:f4:40:82:2e:3e:d6:ab:b2

 7d:d2:fb:51:b1:72:6b:62:a0:f2:5d:0f:34:c2:1b

 dd:a2:53:52:18:eb:ea:fa:e2:5d:ad:db:c2:10:cf

 ac:66:01:7c:27:55:49:14:d9:ae:6d:d2:99:a1:2d

 e2:d4:ed:45:bc:18:d6:17:7c:08:3d:5b:05:12:52

 c5:14:1c:00:37:50:c7:28:e0:87:7f:d2:05:a3:38

 34:fc:2a:92:6d:7d:53:21:7d:2e:45:cd:d1:54:b7

 54:0a:b3:2e:5d:0c:db:c2:1f


 数字の列に何か意味があるのか、彼にはわからなかった。石の表面全体に刻まれているようだ。

 芦野は周囲を見渡した。巨大な地球が視界の端に見える。ゆっくりと振り返ると、明らかに人工物とわかる物体が見えた。鉄の骨組みだけとなった物体は、月面に溶け込んで何の違和感もない。赤と白に鮮やかに塗られていたはずだが、高熱と放射線によって塗料は剥がれ落ちていた。大展望台のガラスは全て爆風で吹き飛び、その様子はさらに上の特別展望台も同じで、窓枠のみとなっている。そして塔の先端にあるアンテナの支柱は斜めに曲がってしまっていた。物体は明らかにかつて東京タワーと呼ばれていた物だったが、あまりにも芦野が見慣れた姿からは変わり果てている。にも拘わらず、その姿はどこが見覚えがある。あり得ないことなのに。

 芦野はどこで見たのか思い出そうとした。しかし、どうしても思い出せない。あれはどこだったのか。頭のどこかに引っ掛かっている。記憶は霞んではっきりしない。こういうときは考えても出てこない。たいてい、翌朝やすっかり忘れたころになって、突然思い出すのだ。

 かつて優美な曲線を描いていた電波塔の基部はレゴリスに半ば埋まっている。鉄骨にそって走るケーブルが、方方で引きちぎれてぶら下がっていた。まるで最初から月面にあったかのように、周囲に溶け込んでしまっている。彼は電波塔の周りをゆっくりと歩いた。先端が曲がり、傾いてレゴリスに埋もれた電波塔の背後に地球が浮かんでいるのを見ていると、突然胸が痛くなるような焦燥感に駆られた。

「何か思い出したかね」

 男が尋ねた。

「いえ、何も……」

「慌てる必要はない」

 声は優しくそう言った。

「今日は特に、大きく見えるだろう」

 芦野が地球を熱心に見ていると、男はそう言った。

「はい。こんなに大きいとは思いませんでした」

「月の軌道は楕円軌道なのだ」

「楕円軌道」

「そう。一番近いときと、遠いときではおよそ五万キロの差がある。今地球はかなり近くにある。だから大きく見えるのだ」

「何か思い出さなくてもいいんですか?」

「急ぐ必要はない。また会おう」

 男はそう言うと背を向けて歩き去った。

 目が覚めてから、彼は思い出した。男はなぜか、あの電波塔については一切触れなかった。


 午前中も終わろうとしていて、駅は混雑していた。

 平菫(たいらすみれ)は六本木駅で地下鉄を降りるとエスカレーターに乗った。地上に出ると歩いて複合商業施設へと向かった。高層ビルに入り、受付へと向かう。入館証を受け取ると、セキュリティゲートを通ってエレベーターに乗った。二十五階に着くと、ネクタイを締めた社員らしき男が乗り込んでくる。男は社員証を菫に渡した。菫はそれを見つめる。聞いていた通りだった。ディエスティリオンネットワークスと印刷されている社員証を身につけると、菫は男とエレベーターを降りてフロアを歩く。やがてアゾイド日本支社と表示されたドアを開けるとアゾイドの社員証を着けた男が二人を迎え入れる。応接ブースに案内し名刺交換が終わると、男は和やかに二人に用件を尋ねた。

「それでは」

 と言いながら菫は意識を集中する。インテグレーションへの移行はいつものように突然行われた。

「どうするの」

 菫は自分の左側の空間に訪ねる。菫にしか聞こえない声が答えた。

「どれでもいいから、端末に挿し込むのだ」

 菫は応接ブースを出ると、フロアに並ぶ机から適当に選んだ端末にメモリーカードを挿しこんだ。

「それでいい。あとはソフトウエアがやってくれる」

「もう終わり?」

「そうだ。帰ろうか」

 菫は無人のフロアを眺めた。照明は全て消灯されている。数分前にはフロアでは社員たちが端末に向かって仕事をしていたはずだ。今は誰もいない。自分自身の声を除けば、何も聞こえなかった。

「……わかったわ」

 彼女はフロアを出るとエレベーターに向かった。ボタンを押すが、点灯しない。

「そろそろリソースが切れる。シフトしてくれ」

「了解」

 再び彼女は意識を集中して、インテグレーションを解除する。元の世界に帰ってくると、突然周囲の雑音がよみがえった。照明の明るさに思わず目を閉じる。エレベーターの前では人が列を作っていて、ドアが開く。菫はエレベーターに乗った。

「よくやった」

 あの声が菫にねぎらいの言葉を掛けた。

「……何でもなかったわ」

 菫がそう答えると、隣のスーツを来た男が不思議そうに見た。彼女の独り言だと思ったらしい。実際、驚くほど簡単だった。ビル内はくまなく監視カメラで記録されている。そんなものは何の役にも立たない。彼女がフロアにいた時間のデータは全て消えているはずだった。彼女は自分の胸にある入館証を見つめた。渡されたディエスティリオンネットワークスの社員証はなくなっている。〈因果律〉が働いたのだ。ドアが開いて、菫はエレベーターを出た。

「それよりどうするの。ストレインは検出されるしまうわ」

「構わない。彼らにはどうすることもできないよ」

 リゾルバーが答えた。菫はセキュリティゲートを出て、受付で入館証を返すと外に出た。菫はたった今出てきたビルを見上げた。リゾルバーが協力してくれれば、〈因果律〉をすり抜けることができる。メモリーカードのマルウェアは〈因果律〉を破って残っているはずだった。アゾイドの社内ネットワークから、すでに機密データを送信しているだろう。

 法を犯している罪悪感は全くなかった。彼女を既存の法律で裁くことはできない。インテグレーションを禁じる法律は存在せず、刑法で裁くための証拠も一切残らない。

 そうした知識も、リゾルバーに教えてもらったものだった。

 菫は六本木を行き交う人混みを眺めた。何もかも、今までとは違ったものになる。変化しなければならない。菫にとってはそれは確信といってよかった。


 ニューヨーク証券取引所のディエスティリオン・ネットワークスの株価が高騰した。前日に競合企業であるアゾイドの顧客情報が流出する不祥事が報道され、アゾイド株が暴落したからである。ディエスティリオン・ネットワークスはネットワークサービスで世界シェアトップであり、アゾイドは二位のシェアを持つ。ディエスティリオン・ネットワークスは事業の多角化を進めており、今回の不祥事でシェア争いは決定的になるとの見方が大勢を占めた。

 ディエスティリオン・ネットワークスはDNと略記されることが多い。巨大企業は知名度が上がるにつれて毀誉褒貶の対象になるものだが、DNも例外ではなかった。特に現在のCEOであるリチャード・ピーターソンはその発言が常に注目される人物である。


 赤坂見附駅の近くに先端技術研究センターはあった。芦野はありふれたオフィスビルのひとつに入り、エレベーターのボタンを決まった順番で押すと地下五階まで降りた。情報通信研究機構の本部は小金井市にあるが、先端技術研究センターは諸事情によって赤坂に設置されている。駐日アメリカ大使館のすぐ近くだった。先端技術研究センターのオフィスに入って進む。さらに奥に内閣府統合標準時間研究対策室の略称である、JSTMO(Joint Standard Time Management Office)と書かれたドアがある。芦野はドアを開け、廊下の奥の会議室に向かった。そこには三人の男女が座っていた。

「三日前だが、ストレインが観測された」

 発言したのは相田正平(あいだしょうへい)室長だった。

「何ですかストレインって?」

「リッチテンソルが変化したんだ」

「室長は何を言ってるの?」

 神木青葉(かみきあおば)が芦野に聞いてきた。

「重力波アンテナのことだよ」

「少しは勉強したらどうだ? 君たちの給料は税金から出ているんだぞ」

「お説教は結構です」

「誰か出ていたんですか?」

 青葉と相田のやりとりが長引きそうなので、芦野は割って入った。

「いや。オペレーターは誰も出ていない」

「携帯端末は調べたんですか?」

 青葉が声を上げる。

「データはなかった」

「それはおかしい」

「可能性があるのは端末の誤動作か、データ自体が改ざんされたか、だが」

「そんなこと可能なんですか」

「ハッキングの可能性は?」

「今現在、最も可能性が高いのは、内部犯行の疑いだ」

 と言って相田は全員の顔を見た。

「何それ」

「ふざけてるわ」

「静かにしろ」

「それで今後の対応だが、単独でのインテグレーションは禁止だ。二人一組で行動してもらう」

「えー」

 青葉が顔をしかめる。

「誰と誰が組むんですか」

 相田はため息をついた。

「組み合わせが難しいのはわかる。だから当面は女性陣と芦野君のコンビで実行だ」

 女性たちが一斉にに不満を言い始めた。

「静かに。これは決定事項だから従ってもらう」

 そう言うと相田は部屋を出ていった。

「逃げたわよ」

 青葉が言った。

「いつものことよ」

 菫はあきれ顔でつぶやく。

「よろしくね」

 芦野はそう言うしかなかった。

「えー、芦野さんと二人かー」

 青葉が嫌そうに芦野を見ながら言った。

「室長のことも考えてあげろよ。女性同士だとやりづらいからって気を使ったんだろ」

「そんなことあり得ません」

「それより内部犯行とか言ってたな。お前なんじゃないか」

「あんたなんじゃないの?」

「あのなあ。なんで俺がそんなことしなくちゃならないんだ?」

「前にもあったじゃない。システム側の問題よ」

「まあ、原因がわかるまでしばらく待つしかないな。どうせ端末のバグか何かだろう」

「そんなところだろうけど」

 芦野がオペレーターになってから、こんなことは初めてだった。

「仕事が増えるなあ」

「前はもっと暇だったのにねえ」

「オペレーターなんて、そんなにぽこぽこ出てこないから」

「待つだけの仕事だったのに……」

「まあいいんじゃない。室長も言ってただろ、税金は有効に使わないと」

 芦野は腕時計を見た。

「もうこんな時間か。昼はどうする?」

「私は上の食堂にする」

「おお、スーツ軍団に混じってか?」

「だって私も仕事してるし」

「俺はいいや。なんか場違いだし」

 青葉と芦野が昼食の相談をしていると、相田が戻ってきた。相田に続いて二人の男が入ってくる。二人ともネクタイを締めてスーツを着ている。一人は白人だった。相田は二人をFBIだと紹介した。白人はFBI東京支局長のヘンリー・ロックウェルだと紹介された。もう一人は木塚太一(きづかたいち)という駐在官だった。

「報道で諸君も承知していると思うが」

 と相田は話し始めた。

「アゾイド日本支社のサーバーから機密扱いのデータが盗まれた。ストレインの件と関係でJSTMOに疑いがかかってる」

「それでFBIが捜査するんですか?」

「そうじゃない。彼らは日本国内では捜査権はない。ただ、ストレインが観測されたとなると、話がややこしくなるんだ。携帯端末はアメリカでしか生産されてないからね。彼らはその関係で来ているんだ」

 芦野は相田が何を言っているのか理解できなかった。青葉も菫もきょとんとした顔をしている。

「諸君はご存じないと思うが」

 ふいに白人が発言した。流暢な日本語だった。

「盗まれたデータはアメリカ企業の機密情報だ。われわれは自国の企業を守る義務がある。こうした事件では、犯人がアメリカに入国すれば即座に拘束される」

 そういって芦野達を見回した。

「皆さんを疑っているわけではないですが、そのつもりで行動してください。駐在官の木塚君をここに常駐させます。どうか協力していただきたい」

「了解しました」

 青葉一人が元気よく返事をした。

「それで、盗まれたデータって何ですか?」

「アゾイドの顧客情報がメインだが、他にも技術情報が漏れた可能性がある」

「どんな技術情報ですか?」

「機密情報だからこれ以上はいえないが、携帯端末に関する情報もある」

 相田は曖昧に言って切り上げた。

「アゾイドのサーバーにログはないんですか?」

「現在調査中だ。犯人がどういう手段を使ったのかまだわかっていない」

「われわれが心配しているのは」

 再びロックウェルが発言した。

「リゾルバー自体が関与している可能性だ」

「支局長はリゾルバー自体の自律的操作の可能性がある、とおっしゃっている」

 誰も何も発言しない。

「それなら捜査自体が無理じゃないですか? リゾルバーが協力しているなら調査のしようがない」

「別のリゾルバーを提供する。システムは同じはずだから、できるだろう」

 相田は何か言いたそうな顔をした。他国の手を借りるのは避けたいらしい。

「私はいいですよ。システムが同じなら」

 青葉は即答した。

「待ってください。こちらの方で調整が必要です。もう少し時間をください」

 相田は慌てて取り繕った。

「なるべく早く対応しますから」

 会議は終了した。FBI支局長は大きくため息をついた。芦野が部屋を出ていくとき、相田と二人で何かまだ話していた。芦野は気分が沈んでゆくのを感じた。オペレーターとしての経験が浅い芦野には、リゾルバーについて詳しくはわからない。しかし、インテグレーションで何かあれば被害に遭うのは自分だ。ただでさえ厄介な作業に、さらに不確定な要素が増える。

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