エピローグ
「室長、来月はニューヨークだって」
「へえ。何の用で?」
「国連本部に行くみたい」
青葉が国連での会議について話している。MARESの運用方法を議論するらしかった。芦野は聞きながら書類を眺めた。自分で書いた今回の件の報告書だった。
最初に永田町に落ちた核弾頭は迎撃ミサイルに撃墜されて、死者が出ることはなかった。しかし、弾道ミサイルを他国の首都に打ち込んでおいて、何も起こらないはずがない。
核ミサイル発射から二時間後に北朝鮮でクーデターが発生した。平壌放送が臨時革命政府の放送を開始した直後に人民開放軍が北朝鮮に侵攻する。臨時革命政府が人民解放軍に制圧されたころに、在韓米軍は部隊の展開を開始する。翌日には両軍は三十八度線で対峙した。両陣営の協議の結果、停戦協定が締結されて、臨時革命政府は戦闘状態の一時停止を宣言した。
太平洋軍の原子力空母が展開していたはずだが、その戦力が使われることはなかった。おそらく太平洋の深海で、原子力潜水艦の戦略核発射システムは「ビスケット」の入力準備に入っただろう。もし発射されていれば、被害を「なかった」ことにするのはほとんど不可能だ。要求されるリソースは永田町のケースとは比較にならないだろうし、GSTSが調整している間に菫が手を打ってしまっただろうから。
アイオワサーバーは米空軍と米海軍原子力潜水艦の攻撃により活動を停止した。どの程度のまで破壊されたのか、データセンターとして再建できるかは国連の報告を待つしかない。断片的な情報から、MARESはどうやら電源供給を絶たれて活動を停止したことがわかった。衛星兵器も使用されたという噂もある。さらに一部報道ではクラスター爆弾やプルトニウム弾頭の他に大量の最新兵器が使用されたとの情報があったが、結局その後の混乱で追及されることはなかった。攻撃による混乱は半年続いたが、崩壊するかに見えた世界秩序は結局存続することとなった。
DNは核攻撃に関与したという報道後、株価が暴落し、連邦裁判所に破産申請した。DNの事業は分割されて、わずか数ドルで他社に売却された。巨大企業の破綻によって、株式市場は大混乱に陥った。MARESが完全に破壊されなかったのは、株価対策だという臆測まで流れた。
「それと、さっきまた重力波が出たって」
「また? 新人出現か。場所は?」
「北海道」
「寒そうだな……お前に任せた」
「何? 聞こえませんけど」
青葉は笑いながら会議室を出て行く。芦野は報告書を閉じた。
相田から聞いた話によると、菫は米軍に確保されたらしい。彼女の扱いも会議で検討されるようだ。
結局、全体構造を調整しなくては、この混乱した状況を収拾することは不可能だった。地球に生命が誕生してから初めての全体調整が行われた。そうするしか妥協点が見つからなかったのだ。国連本部で協定が結ばれて、MARESは国際共同運用されることになるだろう。GSTSがどこまで計画していたかはわかるはずもないが、つまりは予定されたとおりに、ことは運んだということなのかもしれない。時間がたってみないとそれはわからない。
それで世界がどう変わるのか、変わらないのか、状況は不透明なままだ。MARESがこのまま運用できるのかも、再び状況を動かして秩序を破壊しようとするのかも。だが少なくとも、人類は新しい舞台に立つことになる。アイオワサーバーの持つ膨大な計算能力をどう活用するかで、人類の未来は決定されるだろう。その未来が明るいものであることを祈ることにした。少なくとも当面、オペレーター不足を心配する必要はなさそうだった。
MARESがなければもう勝手なことはできないという理由で、東京サーバーは今もそのまま運用されている。リゾルバーの変更は簡単にはできないらしい。全リゾルバーの合意とシステムの調整が必要だから、とGSTSは説明した。対称性だのエントロピーだの、芦野にはよくわからない説明をしていたが、管理された状態なら問題はないのだろう。
それからMARESが創造した「新世界」をどうするかという問題がある。ウォール街の投資会社はすでに動いているという。およそ三百年ぶりの「新大陸」発見のニュースに世界は熱狂した。少なくともこの点ではMARESは歓迎されているようだった。
来月にはヨーロッパに国際共同運用機関が発足する。アイオワのデータセンターは活用しつつ、危機管理上の観点からヨーロッパにバックアップを建設する予定らしい。
人類は二十一世紀になって新しい状況を手に入れたのだ。
芦野はふいに、青葉が衛星電話を抱えていた姿を思い出した。
「何笑ってんのよ?」
会議室に戻ってきた青葉が鋭い声を出す。
「そういえば、千代田線で持ってたあの衛星電話、でかかったな……」
「え? 何?」
「衛星電話だよ。お前が地下鉄で持ってた……」
「私、衛星電話なんて使ったことないけど」
芦野は思わず青葉の顔を見た。彼女はぼんやりと芦野を見つめている。
「覚えてない?」
「知らない。何なのよ」
「いや、わからないなら、いい」
完全な記憶など存在しない。人間は誰でも、曖昧で継ぎはぎだらけの記憶の中で生きている。彼女の場合はたまたま、あのときの記憶が欠けていた。それだけのことだ。もしあの世界がそのまま続いていたなら、二人ともおそらく死んでいただろう。
存在をやめてしまった世界を思い出すよりも、今のこの世界が続く方がいい。
時間が確率的にしか存在しないのなら、そもそも連続した記憶には意味がない。時間とは、ばらばらで不連続な状態が自然な姿だというのなら、時間は連続して続かねばならないという価値観は幻想だ。そろそろ伝統的な考え方を捨て去るときが来ている。
芦野はこの結論を受け入れることにした。
少しくらい、記憶が減ったからどうだというのだろう。
それで何も変わりはしないのだから。




