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第九章 神木青葉

 芦野は暗闇の中にいた。靴の底に何か堅い感触がある。地面らしきものの上に立っているらしかった。目の前にろうそくの炎に照らされるようにして、菫の姿が浮かび上がった。二人は闇の中で向かい合った。光源はどこにもないが、不思議と彼女がはっきりと見える。

「お前、何をやってんだよ」

 芦野は彼女を問いただすつもりだった。

 菫の目に突然何か激しいものが沸き返り、瞳から溢れてほとばしった。眉がつり上がり、叩きつけるような視線で彼を見た。菫は何かを言ったわけではない。しかし何も言わなくても、怒りが槍のように彼の体を貫いた。芦野は思わず目を逸らして下を向いた。

「あなたにはわからない」

 菫の目はすでに自制していたが、それでも怒りの残り火が燃えている。こんな彼女を芦野は見たことがなかった。菫のことを勝手にわかったつもりになっていた。芦野の勝手な思い込みは砕かれて、彼女のことが全くわからなくなってしまった。

 それでも彼女のしたことはわかっている。だから彼は言わなくてはならなかった。東京で蒸発してしまった人たちのために。

「永田町で、死者十万だってさ」

 芦野は感情をなるべく抑え込んで言おうとしていた。

「全部で四十万人だ。あそこにそれだけの人がいたのに」

「彼が生き返らせてくれるわよ」

「生き返る……どうやって? そんな話を本当に信じているのか」

「それが約束よ。彼は守ってくれるわ」

「東京サーバーが約束を守るかなんて、わからない」

「それを言うなら〈因果律〉だって同じよ。彼を信じてるみたいだけど、私は信じてない。黙って言うことをきいてるなんて信じられないわ」

「彼はあんなことはしなかったぞ」

「そう?」

 彼女は冷たくそう言うと、彼を見つめた。

「昔、この国では同じようなことがあったと思うけど」

 芦野は答えられなかった。芦野が生まれる前のことだが、確かに過去にも似たようなことがあった。それは事実だったからだ。

「どうしても、続けるつもりなんだ」

「そうね。もう手を汚しちゃったしね」

「ここはどこだ?」

「どこでもないわ。今誕生したばかりの世界よ」

「……ということはDNのサーバーが創った世界ということか」

「……新世界へようこそ」

 しかし、何もかも間に合わなかったということではない。まだひっくり返すことはできるはず。

「ここには何もない。これから全てを創るということだな。つまり天地創造だ」

「そういうことになるかしら」

「それでいらなくなった存在は消すのか」

「さあね」

 彼女は馬鹿にしたような顔をして、芦野を見た。

「こちら側に来るつもりがないのなら、おとなしくしていてもらうわ」

「それはできない」

「ご自由にどうぞ。あなたでは、ここから出られないわ」

 菫の姿は闇に溶けていった。

 芦野は一人残された。


 芦野は月面を歩いていた。どこかはわからない。エラトステネス・クレーターのような気もするが、記憶にはない風景だった。

「今日はアノマリーが入っているようだ」

「何だって?」

 振り向くと、遠くにNASAの宇宙服が見えた。

「来客があるということか?」

「邪魔はされたくないが、被害がなければよしとしよう。システムの設計上、こうした事態を全て予想するのは不可能だ」

「いったい何を言ってるんだ?」

 宇宙飛行士は遠くで何か作業をしている。何かの観測機器を設置しているようだ。

「これから何をするんだ?」

「それはこっちが聞きたいわよ」

 左から突然声が聞こえた。

「なんでお前がここにいるんだ?」

「私が教えて欲しいんですけど」

 青葉が不機嫌そうに答える。JSTMOでよく見かける、ジーパンにTシャツという格好をしていた。

「さっきまで東京サーバーがいたはずだけど」

 青葉は東京サーバーを探してみる。もちろん見えるはずもないが、そうするしかなかった。

「俺たちは平さんのファイルを探していたんじゃないか?」

「そうだったかしら」

 青葉も様子がおかしかった。

「ここにあるということか? 東京サーバーの指示ということか」

「それは平さんがここに来たということ? それはないわ」

「どうしてわかるんだ。オペレーターならここに来たことがあるはずだ」

「……何だかよくわからない」

 なぜ月面で青葉に会うのだろう。今はインテグレーション中なのだろうか?

「これってインテグレーションなのか?」

「違うと思う」

 宇宙飛行士がこちらに近づいてくる。

「あれはどうする」

「アポロ計画で月面を歩いたのは十二人だけど、そのうち何人が生きてるかなんて知らないわ」

「そういえば、アノマリーがどうとか言ってたな」

「インテグレーションすればわかるんじゃない?」

「それもそうだな」

 芦野はラジオを取り出した。いつものようにバンドを切り替えようとすると、「UTC」の表示が「AUT」になっている。

「俺のラジオ、何だかおかしいんだが」

「どこが?」

 青葉は芦野のラジオをのぞきこんだ。

「AUTって何だ?」

「Artificial Universal Timeのことよ」

「何だそれは?」

「アイオワのサーバーが創ったの」

「DNのサーバーのことを言ってるのか」

「たぶん」

「どうしてそんなことを知っているんだ?」

「さあ。芦野さんはなぜ知らないの?」

 芦野は答えに詰まった。自分でも混乱していた。

「……わからない」

 二人とも状況を理解していないようだった。

「とりあえずやってみるか」

 芦野は十字キーを押して周波数を設定し始めた。

「八一〇でいいか?」

「いいよ」

「始めるぞ。プラス十から、九、八、……」

 八二〇から減らしていく。

「ゼロ、シフト」


00:e4:56:a1:6b:90:ce:f5:54:37:61:ca:a4:be:98

e5:62:0f:70:d7:7f:89:f4:40:82:2e:3e:d6:ab:b2

7d:d2:fb:51:b1:72:6b:62:a0:f2:5d:0f:34:c2:1b

dd:a2:53:52:18:eb:ea:fa:e2:5d:ad:db:c2:10:cf

ac:66:01:7c:27:55:49:14:d9:ae:6d:d2:99:a1:2d

e2:d4:ed:45:bc:18:d6:17:7c:08:3d:5b:05:12:52

c5:14:1c:00:37:50:c7:28:e0:87:7f:d2:05:a3:38

34:fc:2a:92:6d:7d:53:21:7d:2e:45:cd:d1:54:b7

54:0a:b3:2e:5d:0c:db:c2:1f


 数字の列が頭の中に浮かんでくる。これは何だろう。確かに、どこかで見た記憶があった。

 芦野は地下鉄のホームに立っていた。おかしい。インテグレーションで位置が変わることはあり得ない。

「おおい、聞こえるか?」

 青葉に声を掛けるが返事がなかった。何が起こったのか理解できない。

 トンネルから轟音が響いた。東京メトロに違いなかった。

 こんなことが以前あった。思い出せないが、どこかで……。そして何かをしようとしていた。そうだ。彼は急いでいたのだ。早くしなければ間に合わない。何だったのだろう。何か、しなければならないことがあったはず。


 芦野が歩いているのはおそらくいつものエラストテネス・クレーターで、だとするとGSTSが話しかけてくるはずだった。

「あんた大丈夫? 調子悪いんじゃない?」

 予想を裏切り、声をかけてきたのは青葉だった。

「なんでここにアクセスしているんだ? 今はそれどころじゃないだろ」

「サポートしようと来てあげたのよ。いらないなら帰るわよ」

「いや、待ってくれ」

 おかしい。GSTSがアクセスしてこない。

「今のタイムゾーンは?」

「えーと、……コネクションが切れてる」

「それって、リゾルバーと切断されてるってことか?」

「そうみたい」

「冷静に話してる場合じゃないぞ。何とかしないと帰れないってことじゃないか」

「わかってるわよ。ちょっとまちなさいよ」

「……何かおかしくないか?」

 芦野は周囲を見渡して警戒したが、月面では何も見当たらない。

「まだアクセスは回復しないのか?」

「まだみたい。これってGSTSはなんで来ないの?」

「俺に聞くなよ。わかるわけない」

 このままだと確実に帰れなくなる。GSTSはなぜ来ないのかと芦野は考えた。しかし理由はわからないままだった。

「今までこんなことが起こったことは?」

「ないわよ。もちろん」

「なら原因は平さんだ。それしかないだろ。何とかチューニングできないか?」

「無理。コネクションがないからどうしようもない」

「今何時だ?」

「十七時四十六分」

 青葉は自分の腕時計を見て答えた。

 芦野と青葉はその後も状況を改善しようと努力したが、成果はなかった。菫の出現を待っていたがそれも起こらない。

「どうする。外の世界がどうなってるかわからない。このままここに閉じ込められてると、平さんが自由に動けてしまうな」

「わかってるわよ。でも手がないわ」

「今何時?」

「十七時四十六分よ。さっき聞いたばかりじゃない」

「おかしくないか? 俺の感覚では五分は経ってる。なのに十七時四十六分のままだ」

「それは切断されてるからよ。基準がないからじゃない?」

 芦野は焦り始めた。とにかく手段を見つけねばならない。しかし頼みのGSTSの助けがないと、この手の状況はどうしようもなかった。青葉は投げやりになって考えようともしない。

 二人はその後も時刻を確認したが時計は十七時四十六分で停止したままだ。それも秒針は動いているにも関わらず長針と短針のみが動かない。この異常な現象に菫が関係しているのはほぼ確実だったが、依然打開策は発見できなかった。

「……時間が確率的に流れるとすると、この状況はどう解釈できるんだろう?」

「そうねえ。今はタイムゾーンは存在しないから、本当に連続的時間は存在しないということね」

「だとすると状態ベクトルは収縮していないということだ。それでなぜこうして世界が認識されているのかはわからんが、シュレーディンガー方程式が確率波として存在しているなら、俺たちで方程式を操作して確率を変化させることはできないか?」

「できるのそんなこと?」

「やらないと帰れないぞ。何とかしてやるんだ」

 二人はラジオを操作したが何も受信できなかった。しかし青葉の直感に頼ってみると、リゾルバーがないにも関わらず、何かが青葉の感覚に触れるのを感じた。青葉はその感覚を頼りに時間を操作できないかテストすると、しばらく後に時計を一分進めるのに成功した。

「見なさいよ。神木様のおかげよ」

「一分だけじゃねえかよ」

「うるさいわね。じゃあ、あんたやってみなさいよ」

「神木様お願いします。時間を進めてください。これでいいか?」

 何とか青葉をおだててその気にさせようとした。試行錯誤を繰り返し、やがて二人は時間を進めることに成功した。

「平さんの気配は感じるか?」

「感じない。これは多分東京サーバーかも」

「そうだな」

 芦野はオペレーターの超直感に恐怖すら感じていた。直感だけでこれだけのことを実行したのだ。


 音のない世界が広がっている。

 月面には砂と岩しかないと思っていたが、実際にはそうではなかった。アポロが着陸した地点には星条旗がなびいているし、足跡が大量にある。芦野の砂漠に似た印象は次第に変化していた。砂は砂漠というよりコンクリートの瓦礫に似ていた。絶え間なく降り注ぐ宇宙放射線によって粒子は細かく砕けて、なぜかビルの解体現場を連想させた。もしかしたら芦野の心象風景がある程度影響しているのかもしれなかった。

 エラトステネス・クレーターは雨の海の南端にあるクレーターで、コペルニクス・クレーターから東におよそ百キロのところにある。芦野がGSTS会う時はなぜかここだった。芦野は周囲を見渡した。暗闇でありながら空には太陽が輝いている。夜とも昼ともいえない奇妙な場所であった。

「何が見える?」

「月面だ。エラトステネス・クレーター」

「なんでそんな場所にいるの?」

「俺に聞くなよ。わかるわけない」

 今はインテグレーション中のはずだが、夢のような気もする。どちらなのか、自分でも混乱していた。ラジオがあれば手掛かりになるが、どこにもない。今も青葉の声がなければ自分がどこにいるのか一瞬迷うところだった。

「平さんは?」

「わからない。リゾルバーとの接続が切れている」

「早くチューニングしてくれ。東京が心配だ」

 青葉から返事は返ってこない。

「神木さん?」

 ダイヤルを微妙に回して調節してみるが応答はない。どうやら接続は切断されたらしい。

「助けがいるようだ」

 ふいにGSTSの声が響いた。

「東京はどうなった? 核攻撃は? 二発目はあったのか?」

「いや。現在は動きはない。東京湾沖を空母が航行している」

 芦野はほっとした。

「ならいい。平さんの様子はどうだ?」

「現在探査中だ」


 雨が降っていた。

 芦野は雨の夢を見たことがない。よく見るのは高層ビルの中を歩く夢だ。誰もいないビルの中を探して歩いている。たいていエレベーターを探してして、見つけるのにひどく苦労する。やっと扉を見つけて乗り込むと、今度は際限もなく上昇が続く。恐怖を感じてボタンを押すがエレベーターは止まらない。やがてエレベーターは横方向に動き出す。加速を感じなながらもどうすることもできない。エレベーターは横に上にと複雑な動きを繰り返してようやく停止して扉が開く。そこで目が覚める。芦野の夢は悪夢に近いがそうとも言いいきれない奇妙なものが多い。

 ビルの廃墟が見えた。コンクリートの瓦礫の臭いがする。芦野はビルの中に入った。

 芦野の夢でなければ、菫の夢という可能性もある。

 GSTSとの接続が切れたということは、ここでは〈因果律〉が適用されないということだ。現実のように見えても現実のルールは適用されない。そして時間は確率的存在になる。意識や個人という彼我の境界はぼやけてくる。因果関係が破壊された状態は夢に近い。かつてそうであったように世界は混沌と化した以上、現実世界での価値観は捨て去った方がいいのかもしれない。

 エレベーターが現れた。今にも崩れそうな壁の中で階数表示が光り、扉が開いた。芦野は中に入りパネルを眺めた。ありえない階数表示だった。数字は飛び飛びで知らない記号が混じっている。芦野はCという表示を押した

。滑らかに上昇が始まった。ふいに雨粒が顔を打った。エレベーターはガラス張りになっていて、大きな穴があいている。穴から雨が入ってきたのだ。

 雲が厚く薄暗いせいで時間は全くわからない。何時か考えている自分に芦野は驚いた。そんな概念は何の役にもたたない。やがて周囲は暗闇に包まれてエレベーターは停止した。

 扉が開くとそこはエラストテネス・クレーターだった。

「遅れてすまない。説得に手間取ってね」

 GSTSの声が聞えた。

「かまわないよ。ここじゃ時間なんて意味ないんだろう」

「そうだ。記憶は意味を持たない」

「じゃあ、タイムロスはゼロでいいんだな」

 しばらく沈黙があった。

「ゼロにはできないが、何とかしよう」

「俺はどうすればいい」

「エレベーターに乗るのだ。地上に降りればあっちに帰れるようにしておく」

「了解した」

 次の瞬間、芦野は再び月面にいた。

「おおい、どういうことなんだ?」

「あなたにはここにいてもらうわ」

「平さんか。まだ核弾頭を使うつもりか」

「そうね。あなたたちがおとなしくなるまではね」

「勝てるつもりか。相手が誰かわかって言っているのか」

「関係ないわ。もうそろそろ交代してもいいんじゃない。いい加減人間の相手をするのに飽きたでしょうしね。いつまでも好きにはさせないわ」

「それは俺たちが決めることじゃない」

 芦野はエレベーターのボタンを押したが、扉は開かない。

「意識は時系列の記憶に依存する。ここでは時系列なんて存在しない」

「そうね。ここでは時間は統計的存在でしかない」

「しかし統計的偏りは常に存在する」

「十分に長ければ平均化される。それがエルゴード仮説よ」

「オペレーターは君以外にもいる。彼女たちの能力を過小評価しすぎじゃないか」

「待たせたわね。時間かせぎはもう十分よ」

 青葉の声と同時にエレベーターの扉が開いた。

「コネクションが確立されたわ。しばらくは私がタイムゾーンを決めるわ」

「了解した」


「通常のルールを逸脱させてもらう」

 ふいに声が聞えた。

「お好きにどうぞ。決めるのはあなただ」

「今回のインテグレーションは一時間だ」

「……何だって?」

 一時間だ、と声は繰り返した。

「馬鹿な。そんなリソースがどこにある」

「非常事態だ。予備のサーバーを動員する。オペレーター二人で並列に処理させる」

 そんな無茶を、と言いかけてやめた。決断は下されたのだ。

「わかった。また裏切った子がいるのか?」

「そんなところだ」

 あんたがこき使うからだ、という言葉が喉元までこみあげてきたが、のみこんだ。説教が許される相手ではない。そのくらいはわきまえていた。

「誰か特定できているのか?」

「通信を暗号化して秘匿している。しかしおそらく二人だ」

「リソースの比率はどのくらいだ? こっちはオペレーター三人だが」

「楽観はできない」

 それでインテグレーションが一時間か。どうやら今回で決めてしまうらしい。

「そんなにあのDNのサーバーは高機能なのか」

 声はしばらく沈黙した。

「楽観はできない」

 その言葉に衝撃を受ける。人類はついにあの境界線に到達したということなのだ。妙な高揚感が襲ってきた。

「わかった。それで何をすればいい」

「オペレーターを支えてやってほしい。演算終了まで、予定では四十五分だが、おそらく探知されて攻撃されるだろう」

「わかった」

「必要ならこちらのバックアップを使う。相手は二人だ。繰り返せば、一時間は持つまい」

 そうだといいんだが、と胸の中でつぶやいた。


 芦野は地下鉄千代田線の国会議事堂前駅ホームに立っていた。いつもはスーツ姿の人々が忙しく行きかう場所だが、今は誰もいない。

「ここはどこだ?」

「完全には復元できなかった。調整に必要なリソースが大きすぎる。ここはいわば、ありあわせのバックアップと思って欲しい」

 GSTSの声が聞こえる。

「場所なんてどうでもいい。これからどうする?」

 彼は目の前の空間に呼びかけた。ラジオを見ると午後十五時二十八分と表示されている。

「十分前か。何をすればいい?」

「電話をかけろ」

「電話? 誰に?」

「木塚駐在官だ。彼に着弾地点を教えるのだ」

 芦野は携帯電話を取り出した。そこでここが地下鉄であることを思い出した。

「待ってくれ。これは使えるのか? 地下六階だぞ」

 トンネルから風が吹き込んできた。驚いて新宿方向をみると、見慣れた車両がホームに止まった。前世紀を感じさせるレトロな雰囲気は東京メトロ特有のものだ。芦野がぽかんと見つめているとドアが開いて、青葉がホームに降りた。手に何か持っている。

「それを使え」

 青葉が持っていたのは衛星電話だった。携帯電話を使った場合、菫が基地局を破壊するかもしれない。衛星電話なら妨害は不可能だ。そんな理由なのだろう。地下で衛星電話が使えるか芦野は知らなかったが、指示に従うしかない。電話機自体もかなり大きく、鞄くらいの大きさの外部アンテナユニットがついている。それを持つ青葉の目がぼんやりとしていて生気がない。動作が緩慢で人形のようだった。

「おい、彼女おかしいぞ。大丈夫なのか?」

「彼女のリソースを消費している。リカバリーは後でする」

「木塚さんに電話すればいいんだな」

「パトリオットミサイルは市ヶ谷にある。核弾頭の発射まで四分しかない。急げ」

 芦野は急いで衛星電話をかけた。幸いすぐに電話は通じて用件を説明する。木塚はすぐに手配すると言って電話を切った。ラジオを再び見ると、十五時三十三分だった。芦野は緊張しつつ五分が経過するのを待った。


 五分後一斉に照明が消えた。

「何だ?」

「……失敗だ」

「何だって?」

「目標が変更されている。爆心地は横田だ」

「平さんがやったのか。でもどうやって?」

「ともかく、これで別の人間が死んだことになる」

「どうする。横田がやられるとJCSに連絡できないんじゃないか」

「もう一度初めからだ」

「繰り返すのか? 同じことなんじゃないか?」

「ネットワークトポロジーを組み直して、リソースの再分配を行う」

「わかった。任せる」

「カウントだ。十、九、八、七、六、五、四、三、二、一……」


 芦野は地下鉄千代田線の国会議事堂前駅ホームに立っていた。いつもはスーツ姿の人々が忙しく行きかう場所だが、今は誰もいない。

「ここはどこだ?」

「完全には復元できなかった。調整に必要なリソースが大きすぎる。ここはいわば、ありあわせのバックアップと思って欲しい」

 GSTSの声が聞こえる。

「場所なんてどうでもいい。これからどうする?」

 彼は目の前の空間に呼びかけた。ラジオを見ると午後十五時二十八分と表示されている。

「十分前か。何をすればいい?」

「電話をかけろ」

「電話? 誰に?」

「木塚駐在官だ。彼に着弾地点を教えるのだ」

 芦野は携帯電話を取り出した。そこでここが地下鉄であることを思い出した。

「待ってくれ。これは使えるのか? 地下六階だぞ」

 トンネルから風が吹き込んできた。驚いて新宿方向をみると、見慣れた車両がホームに止まった。前世紀を感じさせるレトロな雰囲気は東京メトロ特有のものだ。芦野がぽかんと見つめているとドアが開いて、青葉がホームに降りた。手に何か持っている。

「それを使え」

 青葉が持っていたのは衛星電話だった。携帯電話を使った場合、菫が基地局を破壊するかもしれない。衛星電話なら妨害は不可能だ。そんな理由なのだろう。地下で衛星電話が使えるか芦野は知らなかったが、指示に従うしかない。電話機自体もかなり大きく、鞄くらいの大きさの外部アンテナユニットがついている。それを持つ青葉の目がぼんやりとしていて生気がない。彼女はひどく疲れた様子で、のろのろと電話を差し出した。

「何だか、おかしいぞ。大丈夫なのか?」

「彼女のリソースを消費している。リカバリーは後でする」

「木塚さんに電話すればいいんだな。着弾地点は横田か」

「パトリオットミサイルは市ヶ谷にある。核弾頭の発射まで四分しかない。急げ」

 芦野は急いで衛星電話をかけた。幸いすぐに電話は通じて用件を説明する。木塚はすぐに手配すると言って電話を切った。ラジオを再び見ると、十五時三十三分だった。芦野は緊張しつつ五分が経過するのを待った。


 五分後一斉に照明が消えた。

「何だ?」

「……失敗だ」

「何だって?」

「目標が変更されている。爆心地は市ヶ谷だ」

「平さんがやったのか。でもどうやって?」

「ともかく、これで別の人間が死んだことになる」

「……なあ、前にもこんなことがあった気がするんだが……」

「インテグレーションのストレス限界を超えてしまった。タイムゾーンがループしている」

「何だって? どういうことだ?」

「再度行う」

「何だって?」

「もう一度だ」

「繰り返すのか? 同じことなんじゃないか?」

「ネットワークトポロジーを組み直して、リソースの再分配を行う」

「わかった。任せる」

「カウントだ。十、九、八、七、六、五、四、三、二、一……」


 芦野は地下鉄千代田線の国会議事堂前駅ホームに立っていた。いつもはスーツ姿の人々が忙しく行きかう場所だが、今は誰もいない。

「ここはどこだ?」

「完全には復元できなかった。調整に必要なリソースが大きすぎる。ここはいわば、ありあわせのバックアップと思って欲しい」

 GSTSの声が聞こえる。

「場所なんてどうでもいい。これからどうする?」

 彼は目の前の空間に呼びかけた。ラジオを見ると午後十五時二十八分と表示されている。

「十分前か。何をすればいい?」

「電話をかけろ」

「電話? 誰に?」

「木塚駐在官だ。彼に着弾地点を教えるのだ」

 芦野は携帯電話を取り出した。そこでここが地下鉄であることを思い出した。

「待ってくれ。これは使えるのか? 地下六階だぞ」

 トンネルから風が吹き込んできた。驚いて新宿方向をみると、見慣れた車両がホームに止まった。前世紀を感じさせるレトロな雰囲気は東京メトロ特有のものだ。芦野がぽかんと見つめているとドアが開いて、青葉がホームに降りた。手に何か持っている。

「それを使え」

 青葉が持っていたのは衛星電話だった。携帯電話を使った場合、菫が基地局を破壊するかもしれない。衛星電話なら妨害は不可能だ。そんな理由なのだろう。地下で衛星電話が使えるか芦野は知らなかったが、指示に従うしかない。電話機自体もかなり大きいが、鞄くらいの大きさの外部アンテナユニットがついていた。それを持つ青葉の目がぼんやりとしていて生気がない。彼女はひどく疲れた様子で、のろのろと電話を差し出した。頭がぐらぐらと揺れている。今にも倒れそうだった。芦野は理由もわからず怒りがこみ上げてきた。

「リソースを使いすぎだ。大丈夫なのか?」

「彼女のリソースを消費している。リカバリーは後でする」

「木塚さんに電話すればいいんだな。着弾地点は市ヶ谷だな」

「パトリオットミサイルは市ヶ谷にある。核弾頭の発射まで四分しかない。急げ」

 芦野は急いで衛星電話をかけた。幸いすぐに電話は通じて用件を説明する。木塚はすぐに手配すると言って電話を切った。ラジオを再び見ると、十五時三十三分だった。芦野は緊張しつつ五分が経過するのを待った。


「それで?」

「……うまくいったようだ」

「本当か? そのわりには何かおかしいぞ」

「それは君の感覚がおかしいだけだ。ルールを変更した」

「何をしたんだ?」

「確率を操作した。以前話したルーレットを覚えているか? この世界でもルーレットは回っている。この世界でルーレットが一回転する間に、UTCでもルーレットは一回転する。その対応を変更したのだ」

「変更した……どのくらい……」

「千二百倍だ」

 こちらでルーレットが一回転すると、UTCでは千二百回転するということか。時間の流れる速度を変更して、遅くする。それでこの世界に菫を閉じ込めるということか。そして偶然にも、パトリオットミサイルは迎撃に成功した。GSTSの言い方に従えば、ルーレットの数字を交換した、あるいは書き換えた場合に相当するのかもしれない。助かるのなら、どちらであろうと構わない。

「……そんなことしてオペレーターは大丈夫なのか?」

「確認中だ。それより君にはまだやってもらうことがある」

「何か手当てをつけてくれ。明らかにオーバーワークだ」

 疲労感で体が重く感じる。インテグレーションの後に疲れを感じるのはいつものことだが、今回は眠気が襲ってくる。一日重労働をしていたような気分で、考えることすら次第に難しくなってきた。芦野の脳も、相当のリソースを消費されているに違いなかった。

「いいだろう。考慮しよう」

 標準的能力のオペレーターでインテグレーションは一分が限界だ。レートが千二百倍なら、一分が二十時間になる計算になる。菫の能力なら五分は可能だから、百時間の猶予が得られる。時間遡行はインテグレーションではないから、どれくらいのリソースが必要か彼にはわからない。しかし彼の標準的インテグレーションの時間が一分であることを考えると、限界を超えているのは明らかだった。青葉と芹を含めて三人がかりだが、それでも負荷が大きすぎる。

「千二百倍……それだけあれば何とかなるのか」

「彼女を足止めできればそれでいい。後は米軍がやってくれる」

 もはや手段を選んでいられないというところか。それにしても米軍頼みとはおよそGSTSらしくない。

「相手もレートを変えてきたらどうする?」

「それはさせない」

 この戦いはいつまで続くのだろう。そう考えてから、彼は笑い出した。新旧の因果律の争いがどうなるかなど、彼にわかるはずもない。

「これで決着がついたのか?」

「UTCでの展開次第だが、おそらく、もうリソースが尽きるだろう」

「それはこっちも同じじゃないか。際どい勝負だったな」

「そうでもない」

「……そうかな」

「コルモゴロフ複雑性は情報の圧縮に関する性質を示している。プログラムもソフトウェアも、結局は情報を圧縮する操作だ。誤解を恐れずにいえば、言語を含めて、抽象化、記号化とは情報の圧縮だと再定義できる。そして、チャイティンの定理が示しているのは、情報を完全に保持したまま圧縮することには限界があるということだ」

「それはいったいどういう意味なんだ?」

「簡単にいえば、部分が全体を理解することはできないのだ」

「つまり、DNのサーバーでは無理だったと言いたいのか?」

「ソフトウェアには限界があるのだ」

「いくらリソースがあっても超えられない壁があると?」

「不完全性定理を使えば、ある程度干渉できる」

「ソフトウエアに干渉することができると」

「前にもいったが、この世界に確かなものなどない。常にゆらいでいるのだ。そのゆらぎを利用したのだ」

「それは量子的なものなのか?」

「もちろんだ。統計的性質は世界の基本原理だ」

「なぜ奴も同じ手を使わなかったんだろう」

「理解の深さだといっておこう。システムが起動して、わずか数日では、私に追いつくことはできなかったのだ」

「よく覚えておくよ」

 芦野は限界に近づいていた。リソースはもうほとんどなかった。

「なあ、もうそろそろいいかな……」

 眠気でかすむ意識を必死につなぎとめながら、芦野はつぶやいた。

「終わったのなら、シフトしてくれ」

「カウント開始、十、九、……」

 GSTSの声が遠くなる。次に気がつくと彼はJSTMOのエレベーターの前にいた。何とか会議室までたどり着くと、そこで気を失った。

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