7.監視の目
薬草園から五十歩ほど歩いたところに、小ぢんまりとした東屋があった。普段人気のないその場所に、今日は日の高い内から、細く白い湯気が、絶えることなく上る。
「ああー、まだ色が濃いわ。思ったより時間がかかりそう……。このまま日が沈むか、腕がちぎれるかも」
ルナはログテーブルに肘をつき、くたびれたように、火にかけられた壺をかき混ぜる。クツクツと沸く壺の中には、紫色の液体が渦を巻いていた。
ジェイドのための薬……ではない。
ここ最近、宮廷内にいる医術師らに、こぞって追い掛け回されるようになった。彼らはルナより上位の一級医術師であるにもかかわらず、『後学のために』とノートとペンを手に、目をランランと輝かせて迫ってくる。ルナはそれがうっとおしくてならなかった。
上級貴族ゆえに、土を嫌う彼らから逃れて薬草園へ来たが、特にすることもないのであえて手間のかかる薬作りに励むことにした。面倒くさがりのルナにしては、槍の降りそうなほどに珍しいことである。
「私がお手伝いできれば宜しいのですが」
クラーラは申し訳なさそうに、洗った薬草の入った籠をテーブルに置いた。医術師の資格のない彼女は、たとえ手伝いでも鍋をかき混ぜることすら許されない。そのくらい薬を作る作業は専門的で難しく、慎重を期す仕事であった。
「その言葉だけで十分」と籠の薬草を掴み、どさっと放り込むように入れるルナの姿からは想像もつかない高度さなのである。
鍋を覗き込み、もう少し薬草を加えようかと籠に手を伸ばす。クラーラは許される範囲の助けとして、先ほど洗って持ってきた薬草の水分を、綺麗に乾いた布で拭き始めた。
それが長閑な風景と相まって、『薬草を拭く少女』とでも名のついた名画のように見える。
その名画の少女が、悩ましげにため息をついた。
「ですが、見てるだけというのはとても心苦しいですわ。姫は将来、皇后様にもなろうというお方ですのに」
「そうよね。……え!?」
自分の生返事のとんでもなさに気づき、危うく掴んだ薬草を全て突っ込みそうになって、ヒヤッとした。ここで加減を間違えてしまえば、数時間が泡と消える。
クラーラは白い頬を赤く染めて、慌てて付け足した。
「も、もちろん、三の皇子が次期皇帝とは限りませんが」
「そうじゃなくってね、クラーラ」
彼女は根本的に何か間違っている。鍋にも気を配りつつ、彼女の誤解を解こうとクラーラの純粋な瞳を見つめた。
「私たちはあくまで医術師と患者と言う関係なの。確かに皇子とは初対面で……色々あったけど、でも結婚なんて絶対ありえないわ。第一、第三皇子自ら元老院がわざと私たちをくっ付けようとしてるって、面と向かって言われたんだから。たとえ第三皇子が皇帝になったって、私には全く関係ないんだから」
「まあ照れずとも宜しいですわ。すっかり体調の良くなられた皇子と、早々に子づくりに励まれているとお聞きしましたもの。新しい命の誕生を、皆心よりお待ち申し上げておりますわ」
「……えっと……」
そんな破廉恥な噂を流されては、今後どういう顔で宮廷内を歩けばよいのか分からない。
(あのくされ皇子! もう口も利いてやらない!)
真っ赤な顔で、東屋から見える、皇子の住まう鏡宮を睨みつける。元老院がそんなに怖いのか、と呆れて物も言えない。
「ですがくれぐれもお気を付け下さいませ。『あの方』のお怒りだけは、買わぬように」
ルナがあの方が誰なのかと問う前に、クラーラは自分の失言に気づいたように突然青ざめ、手を止めて視線を泳がせた。誰かに聞かれていたのではと、怯えるように周囲を見渡す。
「どうしたの? 顔色が悪いみたいだけど。具合が悪いんだったら……」
クラーラはルナの手を掴み、声を潜めると、怖いくらいに気を張った表情を近づけた。
「姫、もし、もし目の前の患者さんを助けることで、あなたの身に危険が迫ることがあるとしたら……あなたはどうされますか。やはり、逃げ出されてしまいますか……」
仮定の話であるはずなのに、彼女の表情は鬼気迫るものがあった。医術師協会の間者が、この帝国に忍び込んでいるかもしれないと、知っているのだろうか。それとも、自分の知らない別の危険があるというのか。
ルナはそっと彼女から目を離すと、鍋を覗き込みながら答える。
「そうね、私だって自分の身は大切だし、勿論逃げるわ」
クラーラは声にこそ出さなかったが、落胆したのは気配から伝わってきた。
「ただし、患者さんを助けた後にね」
クラーラの内側から、希望のような光が溢れ出すのが分かった。暗かった表情が、たちまち花のほころぶような微笑みに変わる。その顔は可愛すぎるッ、とルナは思った。
「姫、あなた様はお強い。そしてとても真っすぐで、目のくらむほどに眩しい。羨ましいですわ、とっても」
瞳をたくさんの光で満たし、クラーラは心からルナを羨むかのように目を細めた。
「そう? 私はあなたの美貌と体つきの方が羨ましいけど。第三皇子はそういう女の子が好きな変態らしいから、気を付けて」と耳打ちする。
アルキスがいれば、間違いなく白い目を向けたであろう言葉にも、クラーラは鈴のように笑ってくれた。外見だけでなく、中身も可愛らしい侍女なのだ。いずれ宮廷内で働く貴族の誰かに見初められるのでは、とルナは微笑ましく思う。
「まあ、御戯れを。三の皇子は姫を慕われているというのに」
そっちの方が、よっぽど冗談だと笑いたかったが、クラーラの純粋すぎる眼差しに中てられ、「ハ」を連ねただけの掠れた声しか出なかった。
○$○$○
「貴様はどう見る。ルナ・クロエのこと」
黒づくめの男、ジン族のハーディ・エルクラシーが、己の大剣を大事そうに磨きあげていた。煙草を吸うために外された黒い口布の下には、均整のとれた端麗な鼻梁と、煙草を挟む、魅入りそうになるほどに色香を漂わせる唇があった。
ハーディに問いかけられたガンマン風情の精悍な青年、銀狼族のフェリックス・アーネットは、ポケットに手を突っ込みながら、ダーツの的に狙いを定める。
「それなら、アンタの方が分かってるんじゃないのか? この間、三の皇子が診察中に報告と称して直接会ったんだろ」
「オレは貴様に聞いている」
フェリックスは、片目をつぶって的の中央を狙いながら唸った。
「オレにったって、別にオレは問題ないと思うけどなぁ。皇子は調子よくなってるみたいだし、ルナちゃん結構可愛いし。なのに理不尽だぜ、ルナちゃんが怖がらないように、オレらは接近禁止なんてさぁ。オレなんか、女の子には超優しいっちゅうの!」
狙いを研ぎ澄まし、勢いよく放たれたダーツの矢は、カッと小気味のいい音を立ててあさっての方向に突き刺さった。フェリックスはがっくり肩を落とす。
「貴様は女、女と……少しは三の皇子を見習ったらどうだ」
「自分もよく連れて歩いてるくせに。それも一人や二人じゃない」
フェリックスは、ホルスターから取り出したダーツを弄びながら、「だろ?」と大物政治家の弱みを握った記者のように意地悪く微笑む。ハーディはこめかみに青筋を立てて、煙草を噛みしめた。
ハーディは昔からよく女に纏わりつかれた。確かに普段隠された彼の面立ちは、殊の外繊細で魅力的だった。だがそんな彼の素顔を知らない女たちさえも、恍惚として声をかけてくる。
昔、仲間の一人に、その危なっかしくも洗練された男の香りを、女の本能が嗅ぎつけるんだと笑われたことがある。『天性の女たらし』『魔性の黒男』など、不名誉すぎて自害したくなるほどの異名がつけられていた。そんな呼び名をつける輩を、怒ったハーディが片っ端から叩き潰すまで。
「纏わりついてくれと頼んだ覚えはねぇ」
「でも何だかんだ言って、やることはやってんじゃん。いいなぁ、オレも夜な夜なハーレムプレイに興じたいぜ」
フォーム美しく、勢いをつけて投げるが、やはりダーツは綺麗に的を外して突き刺さる。
「誰がそんなことをするか……っ」
怒りを滲ませたハーディが、本気で怒りを滲ませて柄を握る。
フェリックスと絡むと、いつも調子が崩れる。なぜこんな男が自分の相棒なのかと思うことは、今日だけでも既に五度目。フェリックスは元は名のある名家出身だからなのか、天真爛漫でのんびりとした性格をしていた。それが、帝国最大の貧困街アヴェーラから、血と泥を啜って這い上がってきたハーディとは相容れないものがあるのである。
ハーディはちっと舌打ちをし、逸れた話を元に戻した。
「本物のクロエ家なら王妃候補として申し分ねぇ。だが、断絶したあの一族に実は跡取り娘がいたなどとほざく上に、都合よく医術を身につけていただと? 胡散臭い野郎どもを皇子の傍に置くなど、元老院の老体どもは、一体何を考えてやがる」
彼の手の内にある、霊験たる光を放つ刃は、どんな硬い鎧をも突き抜く。数々の死線を潜り抜け、生死の狭間を共にした、戦友とも己の半身とも言える一振りであった。
「『臭う』……ってか? タイチョー」
空になったホルスターに、フェリックスはずっしり重厚な銃を差し込んでニンマリ笑う。
「オレたちは、何としてでも三の皇子を守らなきゃならねぇ。だからもしその女が妙な動きをすれば、俺は迷わず……」
ビュッと剣で空を斬る。
「屠る」
剣を納めた瞬間、壁に突き刺さっていたダーツの矢が、ひとつ残らず真っ二つになって落ちた。
○$○$○
「さすが王宮。個人では手に入らない貴重な資料も、山のようにたくさんありますね」
アルキスは機嫌よさげに外廊を進む。あれもこれもと夢中になって齧りついている内に、書庫の中に斜陽の光が差しこんでいた。それだけ入り浸っていても、まだまだ目を通したいもので溢れているのだから、嬉しい悲鳴である。貸出も制限されているため、これだけ、と厳選した二冊の書名を見て幸せそうに微笑んだ。
「これでお嬢様が皇子と結ばれてくれれば、私としても一安心なのですが」
元老院たちの様子を見ていて、彼らがルナと皇子をくっつけようとしているらしいということが確かだと分かった。意外にもジェイド皇子の方も、元老院の意思とは関係なくルナに興味があるらしく、自分の目を盗んではこっそり彼女を誘い出そうとするところを度々目撃していた。
あれだけ女嫌いと言われていた皇子をそんな風に変えてしまうのだから、やはりウチのお嬢様は一味違う、と欲目丸出しの感想を持つ。
しかし――と辺りを見渡した。
途端に遠くから彼を見守っていた数人の貴族らが、わざとらしく目を逸らして素知らぬ顔をする。先ほどまで向けられていたのは、決して友好的な視線ではない。
(第二皇子派の連中か)
ジェイドがこのまま病を悪化させてしまえば、皇位は確実に第二皇子へ渡る。不謹慎な結末を望む輩が、ああして冷たい眼光を向けるのだ。
無視して正面を向けば、またギスギスした視線が突き刺さる。嫌なものだと吐息が漏れた。
トンと足元に何かぶつかり、「おや」と視線を落とした。
ゴロゴロ転がる野菜と、尻もちをついて転んだらしい、中華服に身を包んだ幼い女の子が倒れている。アルキスは慌てて屈み込んだ。
「すみません、よそ見をしていて。お怪我は?」
「大丈夫アルのね」
僵屍族らしき少女を抱き起こすと、ひっくり返った籠に野菜を入れて手渡す。籠を受け取った少女は、何事もなかったかのようにタタタタと、額の札をはためかせて駆けて行った。愛らしい仕草に不意に笑みが零れる。
だが遠ざかっていく小さな背中を見つめ、アルキスは不可思議そうに細い顎に手を添えた。
「なぜ厨師見習いの子が、こんなところに……?」
この付近には厨房はおろか、食糧庫さえない。井戸はあるが、野菜を洗うためにわざわざ遠く離れたここまで、籠を持ってくるとは考えにくかった。
妙な予感がして、アルキスは人目を忍んで屈みこむと、傍に生える草に手を当てた。草はまるで意思も持つかのようにざわめきだし、少女の走ってきた道筋を辿って道を作る。
草のざわめきを追って歩を進めた。
「ここは……」
やがて辿りついた、豪奢で美しい高殿を見上げた。
(第三皇子の住まう鏡宮の裏か……)
あの子はこんなところで何をしていたのだろうかと、思案顔で周囲を見渡す。特に物珍しいものもない。
考えすぎだったかと思った瞬間、背筋に悪寒を感じて振り返った。
「――ッ!」
反射的に後ろへ飛んで銀色の一閃をかわす、アルキスの頬の表面を鋭利な剣先が切り裂く。
地面に滑らせた足に力を入れて止めると、細かな砂埃が舞いあがった。
「ほう、名家の執事ってのは、武芸にも長けているものなのか。初耳だ」
立ち上った砂埃の向こうから現れたのは、全身黒に包まれた男だった。右手には大剣を握り、金色の目にはゾッとするほど鋭い光が瞬いていた。
「主の身を守るのも務めですから。あなたのように」
男の左腕には、護衛兵の紋章の描かれた朱色の腕章がつけられている。男は剣先を上げ、まっすぐアルキスに向けた。ヌラリ、艶めかしく刀身が光る。
「ここで何をしている。散歩に来るようなところじゃねぇだろう」
「そうカリカリせず。この通り、本を借りた帰りに、迷い込んでしまっただけのことです」
本を上げてみせるが、男はそんなものに見向きもしない。
「迷った? 今日昨日に来たわけでもないのに……か」
「誤解ですよ、『隊長』殿」
口元にはいつもの笑みを浮かべつつも、アルキスはルナの前では見せたことのない、殺伐とした目をしていた。
男は自分が隊の長であることを見抜いた眼に、驚嘆したように突き付けていた剣を下ろす。だが、彼の研ぎたての刃のような視線は、変わらず突き付けられたままだった。
「下手なマネはするな。俺たちは常にお前たちを見ている」
「……らしいな」
笑顔を取り繕うのをやめたアルキスが、切れ長の瞳で一点を睨みつける。
その先には、建物の上に座り込み、東屋の方を見下ろす銀髪青年がいた。アルキスの視線に気づいたカウボーイ姿の青年が、振り返って肩越しに軽く手を振る。
アルキスに纏わりつく容赦ない冷たい空気は、殺伐とした城内の雰囲気を凝縮しているかのようであった。