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緋色の月を愛でる夜は――  作者: 二上 ヨシ
第一章  ~ポエニクスの涙を探す~
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6.恋愛指導書と黒づくめの剣士

 ジェイドは執務室で肘をつき、苛々と指先で机を叩いていた。最近かなり体の調子が良くなってきたというのに、積みあがった書類には目もくれず、ただただある女のことを考える。

 自分はいい意味でも、悪い意味でも注目されて生きてきた、とジェイドは思い返す。どこへ行っても「三の皇子、三の皇子」と皆が何を差し置いてでも自分の元へ馳せ参し、幼少期から続く日常の一部だった。

 煩わしいと思う反面、そんな環境が当然で、周囲の者がそんな反応をするのが普通だと信じていた。

 しかし、自分を助けるために命を懸けようとまでしてくれた女医術師、ルナ・クロエだけは違った。医術師と患者という関係以上には決してなろうとはせず、それどころか付き人の男を間に挟むようにわざとらしく避けるのだ。

「何が不満なんだ……あの女」

 呟いたところで、的確な答えを返してくれるものはない。自分の思うようにならないことなど、第三皇子として生きてきた今までにたくさんあった。だが今は妙な焦燥感がある。 

 ルナとは己の病が治るまでという期限付きの付き合いだということと、傍にやけに魅力的な男がいつも彼女に付き従っているということが原因だとは、薄々気づいていた。

 だがここまで自覚があっても、ルナを好きだという気持ちは否定したかった。散々突き放してきた「女」という存在に、こうも易々と心を掴まれたなど、矜持(きょうじ)が許さない。

 彼女を思い出しては赤面するが、心の中で、違う、違うと何度も言い消していた。

 それでもやはり、とても気になるのだが。

「皇子、ええ加減にせんと書類で床抜けますよ?」

 秘書官のロイは、容赦なく他国からの手紙をどさりと乗せる。彼が勝手に戦へ出た間に、随分と処理案件が増えていたらしい。留まることを知らない量に、ジェイドはげんなりした。

「貴様が代理で処理すればいいだろう」

 革張りの椅子に仰け反り、デスクの前に佇むロイを高慢げに見上げる。ロイは口元が醜く引きつりそうになるのを、何とか笑顔で誤魔化しているような、奇矯(ききょう)な顔つきをした。

「お言葉ですが……小生ができる限界までは、すでに終わってます」

 指さす秘書官用のデスクには、雪山のように書類が積みあがっていた。彼が夜を徹してやり遂げた成果を、ジェイドは「それが何だ」とばかりに目を閉じた。

 ロイのコメカミに浮かんでいた青筋が数を増す。

「ジェイド様……御承知のこととは思いますが、皇太子が決まるナエンの儀ももうすぐ。そこで選ばれんかったら、皇帝になれんのですよ。そうなれば、あなた様のお立場は」

「貴様の説教などいらん」

 次期皇帝たる皇太子は、皇帝自らが息子たちの中から指名して決められた。長子も次子も関係はない。学力、統率力、帝国への貢献度などから総合的に判断されると言われていた。

 そんな曖昧な基準故に、家臣らの間では様々な憶測が飛び交っていた。誰に付き従うかで、出世やその後の人生の明暗がくっきり分かれてしまうのだから、彼らも慎重に慎重を期していた。

 そう、彼らに信念などない。あるのは保身だけなのだ。自分の病のことを心配する「素振り」を見せるのも、自分を支持するメリットを考えるからというだけ。

 ジェイドは落ち着き払った様子で立ち上がると、窓へ向かった。

 視線の先には皇帝閣下のおわす黒宮がある。

 広い宮廷内でも一際存在感を醸し出し、近づくのすらも恐ろしいと言わしめるほどの品格と権威を漂わせていた。

 エリートたる一等官吏でさえも、上級でければ立ち入ることの許されない高貴なる宮に、ジェイドはほんの小さな子供のころから、自由に立ち入ることを許されていた。数十年もの年月を試験に費やし、厳しい倍率の中を勝ち抜いてきた上級家臣らの間を駆け回る、幼いジェイドの姿が良く見られていたものだった。

 腹違いの兄である、二の皇子を差し置いて――

 父たる皇帝に、掌中の珠とばかりに目を掛けてもらっていることは分かっている。しかし……。

「俺は皇帝になる気などない。宮廷内でも兄上たる二の皇子を推す声が水面下で大きくなっているらしいではないか」

「元老院の間はあなた様が優勢の今、そんなもんはいくらでも覆ります。そんなことで不貞腐れてはるんですか? それともあの方が恐ろしい……?」

 あえて挑発するような「あの」言葉を口にしたが、ジェイドは感情を乱すこともなく窓の外を眺めている。

「皇帝には兄上が相応しい。何度も言っているだろう」

「まさか、余計な争いごとを避けるために、わざと継承争いから身を引こうとなさってるんやないですよね?」

「貴様には関係のないことだ」

 そう言われて引き下がれる問題ではない。二の皇子派はジェイドを忌み嫌い、隙あらば政の舞台から追い出そうとしている。

 このまま二の皇子が皇帝になれば、濡れ衣を着せられた上に永久禁固刑に処される可能性も否定できない。

 ロイはデスクを強く叩いた。積みあがっていた書類が、心もとなく揺れる。

「あなた様には、道楽で作ったとはいえ、数々の輝かしい戦歴がある。あとはルナ様と婚約して、銀輪の医術師やったアルキス殿とのパイプを確固たるものにすれば、確実に皇帝になれるんですよ。それを放棄なさると?」

「道楽とはなんだ。言っているだろう、興味はないと」

「ルナ様にも?」

 ぎょっとするように振り返ったジェイドは、一瞬無表情になると、みるみる頬を赤く染めた。そんな顔を見られないように面を背けたジェイドに、ロイは興味がないようだと取った。

「このままやったら、あの方を二の皇子側に持って行かれる可能性があるんですよ」

 ジェイドはロイに背を向けながら、やきもきするように拳を何度も握り直す。

「……そうですか、分かりましたよ。こうなったら小生があの方を惚れさして」

 ガタン、と音がしたかと思うと、机の上に乗ったジェイドに胸倉を強く引っ張られていた。ロイは目の前の怒りに打ち震えるジェイドの様が理解できず、一体何に怒っているのだと、首を捻る。

「あの女は俺が何とかする。その前に手を出したら……貴様といえど殺すからなッ!」

 きょとんとしていたロイは、次の瞬間、分厚い眼鏡の下で、「ははーん」としたり顔で目を細めた。

 

 

「はあ? 三の皇子がルナ様を?」

 美しい廊下を外套を翻して闊歩し、元老院議長が声を裏返して驚く。

「ええ。小生の超ウルトラスーパーミラクル巧妙な罠にかかったみたいですわ」

 眼鏡を押し上げる。そのような大層なものではなく、偶然の賜物なのだが、そう言った方が箔がつくとばかりに誇らしげに(うそぶ)いた。

「ふむ、あの三の皇子が」自慢の白髯(はくぜん)を撫でる。「ワシはもうてっきり、アッチの御方なのかと」

 あまりに女を避けるジェイドの周囲には、昔から男色系の噂が絶えなかった。メイド頭など、むしろそうであって欲しいと願うように、やたらと男二人で連れ立っている姿を見ては、ありもしないことをペラペラ喋りまくり、侍女らはそれに黄色い歓声を上げていたくらいである。

 しかし実際は、敢えて側近を美形な男らで固めてみても、全く手を出す気配がない。ならば、下半身の男性的な病の方だろうかとも思っていたが、現在練っていた確かめ計画を実行しなくてよかったと胸を撫で下ろす。

「何や、ルナ様を鉄壁の城砦に例えて、落とす戦略を立てるんが戦と似てて楽しいとか何とか誤魔化してはったけど、小生にはばっちり分かってまいました。皇子もだいぶと照れ屋さんですからねぇ~、ぷぷぷー!」

 日頃の疲れもあってか、ロイはやけにテンション高めに笑う。

「ふむふむ。ならば思ったより事は楽勝かもしれんのう」

 二人の大きな笑い声が、静粛な宮廷内に響き渡った。

 

 ○$○$○

 

「ルナ……」

 ジェイドは彼女の細腰に手を回し、その白い首筋に顔を埋めた。ジェイドの瞳は彼女への強い想いで潤み、腰に回った手に力がこもる。

「ルナ、あの時、強引にキスをしたことは謝る。元老院の思惑に乗っただけというのも、今となっては本心ではない。俺は……初めて会ったあの時からずっと……お前のまっすぐな目が好きだった」

 彼女の眼を見つめ、返事も待たず、素早く冷たい唇に重ねた。

 何度もついばみ、愛おしむかのように、音を立てて唇を離す。

「……ふむ、こんな感じか」

 恋愛指南書を片手にしていたジェイドは、練習台にしていた精霊の像に背を向けて唸った。背後の像が、生き物のようにほんのり頬を赤く染める。

「いや、別に俺はあんな女に興味はないが……。ちょっと待て、好きというタイミングが早すぎるか。もう少しジラして」

 時計が二時丁度を示し、オルゴールの音が響こうとする寸前、扉が軽く叩かれた。それだけで相手が誰か分かるほど心を奪われていることを、ジェイドは未だはっきりと認めてはいない。

 (はや)る心を抑えて扉を開く。そこにいたのは間違いなくルナだが、「どうも」と言いつつ、どこか自分を警戒するような訝しげな眼を向けられ、ジェイドは自分だけ心を躍らせていたことに、非常に面白くなくなった。

「今日は随分と遅かったな、二級医術師」

 つい憎まれ口を叩く。ルナの眉間がミシッとひび割れるかのように、深いしわが刻まれた。

 しまった、と思ったが、一度口に出したものは取り消せない。素直に謝るのも、らしくなかった。

「すみませんねぇ、あなたの薬を作る為の下準備に手間取ったもので」

 ルナは扉を押し開てジェイドの脇をすり抜けると、テーブルの上にミニトランクを乗せた。

「今日はあのイケ好かん助手はおらんのか」

 いつも目障りなほどに彼女にくっついている忌まわしき男。だが今日はその姿がない。

「ええ、調べものをするって、書庫へ行ったんです」

「そ、そそうか」

 練習の成果を発揮する機会に、自然と胸が躍る。

「あの、皇子……。元老院か何か知りませんが、この間みたいに妙なことはしないでくださいね」

「……」

 今しがた、そこにある精霊の像を相手に、彼女を想定して熱いキスをかましていたなどとは口が裂けても言えない。そしてそのチャンスが巡ってきたなどと、心を躍らせたことも。

「だ、誰が貴様のような変物に」

 ジェイドは照れ隠しにそう言って椅子に腰かけたが、いつまでも後生大事に握っていた恋愛指導書が目に入り、焦って尻の下に敷いた。

「そうですか? 皇帝になれるチャンスを、自らふいにしようとなさっている物好きな方よりはましですよ」

 ジェイドの顔に影が落ちる。

「誰に聞いた」

 ルナは白衣を羽織り、薬や診察の準備をしながら、

「風の噂で聞きました。本当なんですか?」

「それの何が問題なんだ」

「別に。もったいないなって思っただけですよ」

 カルテを持って、ジェイドの向かい側に座る。

「折角、たくさんの命を救える力が、持てるようになるのにって」

 ルナはよく、こっそり貧困街へ行っては、医術を受けられない子供たちを中心に無料で診察を行っていた。だが、魔術に頼った治療のみでは免疫機能を弱らせ、かといって十分な資金の無い以上、野に生える薬草を必死で探して作った薬だけでは効果に限度がある。

 それに、アルキスにはそんな危ない所へは行くな、と再三注意を受けていた。貧困街は犯罪の温床となっている、非常に危険な区域なのである。普段穏健なアルキスが、それを咎めるときだけは、ゾクリとするほど怖い目をするほどであった。

 そんな貧困街は、規模が拡大の一途を辿っていた。高額な費用を要す医術が、貧しい人々に行きわたらず、上流階級だけの特別なものになっていく。

 帝国の頂点に立てば、歯止めをかけられるかもしれないというのに。

 彼はそんなことに、興味はないだろうがとルナは肩を落とす。

「お前が皇帝だったら、何かやりたいことでもあるんだな」

 真顔で黙りこくった彼女の深刻な表情から、ジェイドは感じるものがあった。

「皇帝だったら……というか、ささやかな夢です」

 自分を見つめる優しい笑みに、ジェイドは胸を鷲づかみにされたように感じた。顔が赤くなっていないことを願いつつ、身を乗り出す。

「何です……何ですか」

 逃げ腰のルナの手首を掴み、その瞳を覗き込む。性格は難ありだが、顔だけはとびぬけていい男に間近で見つめられ、彼のつけている甘い香水を吸い込むと共にルナの心臓も鼓動を速めた。

「もし、俺が皇帝になると言ったら、お前は」

 ジェイドの指が、柔らかくルナの髪の間を滑る。緊張にルナの体は強張り、どんな顔をしていいのか分からなくなった。ジェイドの顔が女の自分より遙かに綺麗すぎて、まともに目を見られない。今更ながら、こんな美形な男にキスをされたことが恥ずかしくなってくる。

「ルナ……」

 自分の名を呼ぶ、ジェイドの麗しい唇に視線が釘付けになった。心臓の鼓動が加速する。

「こ、今度は権力自慢ですか? 言っておきますが、そんなものに(なび)くような安い女ではありませんの、おほほほほ!」

 高らかに笑うルナに、ジェイドは拗ねたように手を離した。予定ではキスをしているが、全くそんな雰囲気ではない。強引に推し進めれば、ますます嫌われることは確実だった。それは嫌だ。

「だったら何に靡く」

「魔術のものすごく得意な方」

 自分が一番不得手とするものを挙げられ、しかもあの執事兼助手とかいう男を示しているように思えて、ジェイドは奥歯をギリリと噛みしめた。

「魔術など……俺には剣さえあれば十分だ」

「勉強をさぼっていただけでしょう?」

「煩い、俺は」

 勢いよく立ちあがった拍子に椅子にぶつかり、さっきまで尻に敷いていた恋愛指南書がパサリと落ちる。それも、運の悪いことに表紙が表を向いていた。

 慌てて拾い上げたが、ルナは完全に本に目をとめていた。

 見られた、と青ざめる。

「ちょっと、皇子、本をクッション代わりにするなんて非常識ですよ」

 彼女は不快そうに眉をひそめているが、どうやら恋愛指南書だと気づかれなかったらしい。

 だが、ジェイドは首をかしげた。

 本の題名はあれだけ大きくはっきりと書かれてあったのに、なぜ気づかなかったのだろうか。恥ずかしいものを見られたジェイドを気遣った風でもないし、まさか題名が読めなかったはずはない。

 この本の字は古典語の一部だが、普通は初級学校で習って知っているはずなのだ。貴族階級なら、それこそ当たり前のように。

 扉がノックされると、ジェイドは慌てて本を背中に隠して座りなおした。まるで今までそうしていたかのように、仏頂面で「入れ」と低い声を出す。

 謎な男だ、とルナは思った。

「失礼します」

 頭に真っ黒なターバンを巻いた、目元以外を全て黒で覆った男が姿を見せた。

 ルナは空気が変わるのを感じる。

 ゆっくりとした足取りでこちらに近寄ってくる彼は腰に大剣を携え、磨きこまれたそれが振り子のように微かに前後する。涼しげな目元は孤高の狼の如く鋭く金色に光り、その双眸はジェイドではなくルナの方へ向けられているような気がした。

 搖動する空気につられるように、ほんの僅かに血の香りが鼻腔を撫でたような錯覚に陥った。医術師である自分以上に、血と死を見てきていると直感する。

 男はジェイドに何やらヒソヒソと耳打ちした。

「義務とは言え、その程度のこと、いちいち報告してくるな」

 どんな相手に対しても、変わらず尊大な態度のジェイドをある意味尊敬した。自分など、あの男の吐く息すら恐ろしい。

「もういい、適当に処理しておけ」

「御意に」

 下げた頭を上げる一瞬、男の双眸がはっきりとこちらを見た。ゾクリと悪寒が背中を駆け、肌が粟立つ。

(何あの目……)

 目が合っていたのは、ほんの僅かな時間だったというのに、震える掌にはじっとりと汗が滲んでいた。


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