5.特級医術師協会とウロボロスの銀輪
長くなったので、二話に分けて同時更新しました。
元老院の議会は、沈鬱な空気に塗り込められていた。巨大な円形テーブルの中央には、青い松明が揺らめく。
議員の一人が一通の巻手紙を開き、その青き炎の中へ放り投げた。手紙は灰ではなく光の粉となり、天井に舞い上がると同時に、はっきりとはしない人型を形成する。
『親愛なる元老院議長殿。件の用件について話し合いたいと存じます。我らは貴国に全くの敵意はなく、飽く迄友好的に、穏便に、互いにとって最良の術を模索する用意がございます。我らはどのような病をも治す術を持ち、件の案件は必ずや貴国の利となることを保証いたしましょう。今一度、ご検討のほどを』
それだけ伝えられると、手紙は跡形もなく消えた。
「ノアールの奴らめ……」
特級医術師協会は、癒術を扱う者たちが最初に作ったと言われる統一的協会の名を継承し、通称ノアールと呼ばれた。
「聞きようによっては、まるでジェイド皇子の病を知っているかのようではないか」
「よもや、城内に間者が潜んでいるのでは」
疑惑を含んだ視線が交錯する。
「ですが議長、三の皇子の病のことを考えれば、医協の案を呑むということも検討すべきやもしれませぬ。いや、決してノアールの肩を持つわけではございませぬが」
元老院議長はゆっくりと首を横に振った。
「ノアールは危険な組織じゃ。一瞬たりとも隙を見せてはならぬ。麻酔をかけるかのように身動きができなくなったあと、奴らは本国の乗っ取りを始めるだろう。絶対に受け入れられぬ」
ルナ様たちにかけるしかないのだが、と元老院議長は肩を落とした。
○$○$○
「何あれ。療養の為の散歩に誘ったと思ったら、自分だけ先々歩いて」
五メートル先を歩くジェイドの背中を、ルナは訝しげに見やる。こちらがどう歩こうと、それ以上近くも遠くもなりすぎない。
宮廷の広大な庭は、美しいシンメトリーに整えられていた。これを手入れしているのが全て、掌に乗るほどに小さな妖精たちだとクラーラから聞いたときは随分驚いた。今も妖精らは自分より大きな鋏を持って剪定したり、可愛い如雨露で水やりをして、胡蝶の如く忙しそうに飛び回っている。
アルキスはデートスポットとしては申し分ない、庭を興味深そうに見渡し、
「お嬢様とお二人で逍遥されたかったのでは? 大方私という邪魔者が目障りなのでしょう」
「まさか、何なら私の方が邪魔者かもしれないわよ、女嫌いらしいから」
それにアルキスは苦笑いする。
アルキスの言うとおり、ジェイドはルナだけを療養という名目で庭に連れ出したかった。このところ、彼女の話にもっと耳を傾け、知りたいという思いずっと支配され、夜まで悶々とする日々が続いていた。やっとのことで誘う理由が思いつき、決心がついたと思えば助手の男付き。
ホッとした気持ち半分、ギスギスした気持ち半分。後ろを歩く、仲睦まじい二人がかなり気になり、間に割って入ってやりたかったが、それを表に出すことがひどく憚られた。
だがルナに、そんなジェイドの複雑な心中など、窺い知る余地はない。
先ほどからチラチラと目が合うが、全くもって不可解だ。珍獣として観察されているのだろうか、とルナは思っていた。
「ま、でも元老院の思惑に乗るには二人きりの方が都合がいいかもね」
敢えて聞こえるように言ったせいもあって、恨めしそうにこちらを振り返るジェイドとしばらくにらみ合う。
歩きつかれたルナは、ジェイドから目を逸らすと、大きな噴水の縁に腰を下ろそうとした。アルキスはそんなルナの動きを制し、内ポケットから取り出した白い手巾を敷いてやって座らせる。礼を述べながら、ルナはなぜ大国の皇子たるジェイドに、こんな紳士道が身についていないのかと憐みさえ覚えた。あれは思い切り甘やかされて育ったに違いないと思いなす。
遠くで自分に付いてきていないことに気付いたジェイドが、何やら慌てる素振りを見せていたが、気づかなかったことにした。
「ムドーを取り込むために私を利用しようとするなんて、失礼な。私だって医術師よ? ちゃんと治してみせるわよ……。いえ、この場合は『解除してみせる』って言ったほうがいいのかもしれないけど」
挙動不審なジェイドの動きに注意しながら、声を潜める。診察を進めるうちに分かったことだが、まだ彼には告げていないことだ。
「ええ。第三皇子は病ではなく、呪詛にかかっておられますからね。全く。宮中では予想外のことが起こる」
長い前髪をかき上げてルナの隣に腰かけ、アルキスは小さな手帳を開いた。山羊のような角を生やした頭蓋骨と、それを囲む大きな逆五芒星。探査の術でルナが見たと言う通りに描いたものだった。
「魔力吸引の呪詛です。それもかなり高度な」
ルナも重々しく頷く。
「ゆっくりと彼の魔力を吸い切る呪術のようね。その術の上に、黒い痣を意図的に作る術をかぶせて、巧妙に隠されてあったわ。最近の謎の体調不良や魔力疾患は、これが原因みたいね」
視線を感じて顔を上げた。必死に聞き耳を立てるように固まっていたジェイドとまた目が合うと、彼は慌てて庭園鑑賞のフリに戻った。
そんなジェイドを、一体何をしているんだと、ジト目で一瞥する。
「でもこんな呪詛にかかってるんじゃ、特級医術師だったムドーの力を借りたいと思うのも、無理はないかもね」
ルナは革のミニトランクを膝に乗せて開くと、薬草の残量を丹念にチェックし始めた。その様子を黙って見ていたアルキスが、重苦しそうに口を開いた。
「いいえ、お嬢様。元老院の狙いは、第三皇子の治療にあるのではないでしょう」
小袋の口を縛る手を止める。
――元老院どもは俺の病のことに重きを置いているわけではない
ジェイドの言葉が蘇った。ルナはまだあの意味を聞いていない。
「そういえば、皇子もそんなこと言ってたけど、一体どういうこと?」
真っすぐ前を見たままのアルキスの横顔が、僅かに陰った。
「特級医術師協会を御存知ですか。ノアールという呼び名の方がよく聞かれるかもしれませんが」
「もちろん。国と言う概念に縛られないことを掲げる、特級医術師だけの組織でしょう?」
ルナは薬草を包んでいた古新聞を広げた。彼らの活動を報道するほんの小さい記事がある。医術に詳しくなくとも、名前だけは知っている者も多かった。だが、医術師のルナですら詳細の分からない、謎の多い組織でもある。
「ノアールはより自由な診療体系を確立しようと、ノアールに所属する医術師の自由入国を各国に要求しております。歓迎している国もあるようですが、唯一問題がある。それがこの帝国です。この帝国だけは頑としてその要求に反対し、ノアールにとって大きな障壁になっている。この帝国が反対している以上、周辺の従属国家は賛成することはできませんから」
「特級医術師が自由に入国して治療できるようになれば、患者さんたちにとってはすごくプラスになると思うけど。帝国はどうして反対してるの?」
「あなたも医術師ならお分かりでしょう。なぜ特級医術師らは高い地位と給与を与えられながらも、強い束縛と監視を受けるのか」
「そりゃ難易度の高い魔術を自由に使いこなせるし、魔力を強めてその人の能力を飛躍的に上げることができるから」
「ええ、特級医術師一人が一個師団に匹敵すると推測もあるほどです。それほどの驚異的な力を持つ『国民』に自由に渡航されては、国の根幹すら揺るぎかねない。敵を自ら城砦に招き入れるようなものだと考えているのです」
「ただ医術師が、全国の患者を治療したいって言ってるだけでしょ? 考えすぎなんじゃ……」
肩をすくめるルナに、アルキスは首を振った。
「いいえ、ノアールは警護軍まで備え始めております。名目上は自衛のための力ですが、完全なる軍隊。彼らがこの帝国の乗っ取りを足掛かりに、魔界を手中に収めようとしている可能性も捨てきれません。彼らの考えそうなことです」
「ムドーやけに詳しいのね……」
新聞でもあまり報道されず、関連書籍は憶測ばかり。だがアルキスは半ば断言するような口調で淡々と話している。不確かなことを、真実であるようにいう性格ではないはずだ。
アルキスは思いつめたような表情で、ルナを見つめた。
「特級医術師は銀色の腕輪を国から支給されますが、彼らはその腕輪を独自の形に変え、協会のシンボルとしています。『ノアール』とは魔界の原始言語で『不滅』を意味する言葉。永遠の命、無限の力の象徴ウロボロスをシンボルに戴き、腕輪もその形を成しております」
「ウロボロス……? ちょっと待って、それって――」
以前、勝手にアルキスの引き出しを勝手に開けて見つけた腕輪のことが脳裏に浮かんだ。あの銀輪の形は確か――
「そう。私も以前ノアールに所属しておりました」
ルナは自身が女だと言うことも忘れ、思い切りあんぐりと口を開けた。
「う、嘘!? 何で!?」
ルナの大きな声に振り返ったジェイドと目が合い、ルナは慌てて声のボリュームを絞る。ミニトランクを脇へやって、アルキスの方へ上体を傾けた。これは誰かに聞かれると、かなりまずい類の話だ。
「どうして今まで言ってくれなかったの?」
「申し訳ございません。私自身も、あまり思い出したくないことでしたから」
アルキスは、彼が医術師だった頃の話をするのを極端に嫌がる。ルナもそんな空気を察してあまり聞かないようにはしていたが、そんな事情が隠されていたとは、と未だ脳内の整理がつかない。
「あんまり考えたくないんだけどね、ムドー……まさか彼らの間者がジェイド皇子に呪いをかけて治療困難な病気に見せ、自分たちに助けを乞わせて、引き換え条件に自由渡航の件を飲ませようとしてるだなんてこと……。つまり皇子を人質に取ってるかもしれないなんてこと、無いわよね……?」
「以前の医術師長は穏やかな方でした。ですが現在の医術師長はかなりの過激派との噂です。医術師による医術師のための国家の創立は彼らの悲願。どんな手に打って出てくるかは私にも……」
ルナの顔色がゆっくりと悪くなって、汗が流れだす。
「も、もしかして、今まで大勢の医術師たちが途中で匙を投げてここから逃げ出したのって、それが原因なんじゃ……」
野望を阻もうとする皇子の担当医術師らに、彼らの間者が近づいて――。そんな構図が容易に想像できた。もしかすれば、身に危険を及ぼすことかもしれない。ジェイドのように、危険な呪詛を掛けられるかもしれない。
アルキスの真剣な眼差しに、自分の戸惑ったような表情が写り込む。
「ならば……我々も逃げますか、お嬢様。皇子を置いてここから即座に立ち去る。ノワールも、逃げる者を追いかける手間をかけはしないでしょうから」
お互いじっと見つめ合う。そこに言葉はなかった。傍から見ればキスでもしようかという雰囲気にも見えるかもしれないが、至って深刻な沈黙である。
次の瞬間、緊張の糸を緩めるように、互いに白い歯を零した。アルキスの顔には、何があろうと、逃げるなどあり得ないと書いてある。そしてそれはおそらく自分の顔にも。
それ以前に、ジェイドと血の契約を交わしているのだから、逃げられはしないがとアルキスには黙っている事情もあるが。
「来い!」
すぐそばでジェイドの声がしたかと思うと、突然乱暴に腕を引かれた。
「え!? な、何ですか突然……! いたたたた!」
助けを乞うように肩越しにアルキスを振り返ったが、彼はにこやかに手を振るだけでそれ以上のことはしようとしなかった。
「痛いですって……」
人影のない建物の裏に連れ込まれ、やっと手を放される。ジェイドの指が食い込んだせいでジンジンする腕をさすりながら、乙女の細腕に痣がついたらどうしてくれる、と非難するような目で見上げた。
「お前が先日の無礼も忘れて、男といやらしく睦み合っているからだろう」
「妙な言い方しないでください。普通に話していただけじゃないですか」
「嘘をつけ! デレデレと見つめ合って……! あの男は本当にただの助手なのか」
「一患者のあなたに教える義務はありませーん」
ジェイドがムカッとして眉間に皺を寄せたのが、はっきりと見て取れた。
「先日のことを詫びたらどうなんだ。平身低頭謝罪すれば、許してやらんでもない」
「先日のこと? それなら謝るのはあなたの方でしょう、第三皇子」
「まさか俺を殴ったことを忘れたのか」
「殴られて当然のことをしたのは、どこのどなたです」
ルナの一言にジェイドは軽く衝撃を覚えた。今まで自分にキスをされて怒った女など皆無だった。それどころか悦びに涙するものさえあった。自分の容姿が優れていることも、身分や剣士としての実績にも申し分のないという自覚がある。何が不満なのか分からない。元老院云々の文句が拙かったのだろうかと、考える。
ならば、と愛おしげにルナの髪を掬って梳いた。芯はあるが、意外に艶やかで指通りのよい髪質。ジェイドはもっと触っていたいという衝動を抑えながら、ゆっくりルナの細いあごを持ち上げ、唇を近づける。
「またお腹が捩れるほど笑いたいんですか、皇子」
しかしルナは恥じらいから僅かに頬を染めることはあっても、受け入れる素振りをみせない。突き放すように胸を押す手がそれを物語っている。
途端にジェイドは、この状況を作り出したことに、居たたまれない気持ちになってしまった。
「だから……元老院が」
「はいはい、分かりました」
ルナはスルリと自分の手から離れていく。
「こんな言い合いばかりしてちゃ、逆にお体に障りそうですね。私は他に用があるのでこれで」
「いや、待……!」
「薬は朝昼晩、食事の後忘れず服用してくださいねー」
こちらも見ずに手を振って遠ざかっていく。
本当に彼女は、医術師と患者という関係のみでいようとしているらしい。今まで色を使うことしか能がなく、せっかく知恵を絞ってもいかに自分に取り入れるかにしか頭を使わない『女』というものに辟易としていたはず。
それなのに、彼女に対してだけは、こうも男として興味を持たれないことが、酷く癪に触った。
○$○$○
「最近やけにご機嫌だな、シャオ」
カイルは食材でいっぱいになった思い台車を引き、同じく高級な食材が詰まった籠を背負う消明の横顔を見つめる。
「そうアルか? こんなにも良い食材を見つけたせいかもアル。下僕はまだアルけどな」
「けぼく、どれい、けらい、かちく」とリンが楽しそうに口ずさむ。
「やめんか、シャオ! お前のせいでリンがどんどん変な言葉覚えるだろうが!」
妹のように可愛がっているリンが、無邪気にとんでもない言葉を繰り出してくる。だがいくらカイルがそれを案じようにも、肝心のリンは消明にやけに懐き、他の者には興味が全くないのが辛い所。彼らに出会ってからと言うもの、カイルは胃薬が手放せなかった。
「それより、これこんなにも一体何に使うんだ? 食糧庫のモンごっそり持ち出してさぁ。今日の分はもう必要ないだろう?」
さすが皇宮の食糧庫には、各国から集められた山のような食材がある。まるで宝を保管する洞窟のようであった。
荷台を引くカイルは息が切れ始めていたが、料理人たるもの、こんなことで音を上げてはならないと汗を流して踏ん張る。
「この可愛い食材たちは、全~部俺の賄になるアル!」
「おいッ! それお前、賄の域をとうの昔に超えちまってんだろがああ!」
「心配無用アル、カイル。……お前も共犯だ」
「無邪気故かと思ってたら、故意犯だと……」
何て事をしてくれたのだと、カイルは愕然として胃痛に加えて頭痛まで覚えた。
「あ、ルナ・クロエ……」
消明の声に顔を上げる。一人の少女が薬草園の方へ向かっていた。
「へぇ、あれが例の」
皇族関係のものなど、たとえ宮廷で働いていてもめったにお目に掛かれるものではない。珍しさからしばしルナに見とれ、ふと視線を横へやると、にやりと笑う消明の横顔があった。嫌な予感しかしない。
「おい、……まさかとはおもうけど、あの方にチョッカイ出すのだけはマジでやめろよ!?」
どうしようかなぁ、などとわざとらしく考える。
「ちょ、テメェ、一回ぐらい先輩である俺の言うこと聞けよ!」
「リン、先に行ってるアル」
「はいネ、マシター」
幼いリンに重い籠を預け、薄情な男、消明は意気揚々とルナの後を追いかけていく。
「おい、シャオ! ダメだって!」
追いかけようとしたが、全く前に進まないことを不思議に思って振り返る。リンが小さな手で服の裾を引っ張っていた。
「ぬぐぐぐぐぐぐ! リンちゃん! 手!」
振り払おうにも、岩にでも裾を引っかけたかのように動かない。
「お、いでででで! リンちゃん、こら、放しなさい! シャオー、おーい!」
ズルズルとリンに引きずられ、カイルの空しい声が遠ざかって行った。
「ケノタケ草にヨウヨウ樹の木の葉を数枚でしょ」
ルナは薬草を一つ一つ丁寧に摘み取って、籠の中へ入れていく。
「あとは……ひゃあ!」
何かに躓き、転びそうになって誰かの逞しい胸の中に勢いよく飛び込んだ。
「あ、すみません、よそ見してて」
「いやいや、大したことじゃないアル」
「あなた……」
顔を上げると、見覚えのある中華青年がニコニコとルナを見下ろしていた。
支えるために回されたらしい手が腰に巻きつき、何とか腕を振り払おうとするが、まるで烏賊や蛸のように絡みついてくる。しまいには、ふぅと耳の中に細い息を吹きかけられ、危うく妙な声を出しそうになった。
「うぅ……痛いアル……」
息を吹きいれた直後、消明はルナに思い切り踏みつけられた足先を涙目で押さえる。
「あなたこの間の劉何とかってコックよね?」
覚えられていたことが嬉しかったのか、消明はパッと顔を上げる。
「劉消明。シャオでいいアルよ」
ウキウキする消明とは対照的に、ルナは薬草の選定に戻っていた。
「ふうん。で、ここで何してるの、シャオ」
「食い物のあるとこ、俺ありアル」
胸を張って己を指差す。
「これは食べ物じゃなくて薬になる植物なの! 貴重なものもあるんだから無暗にさわらないで」
薬草に伸びる消明の手を叩く。消明は拗ねたように手の甲をさすりながら、青いシンプルな腕輪に目を止めた。
「女の医術師なんて珍しいアルな」
「まあ、確かにあんまり見ないかな」
「それも半人族」
「――ッ!」
予想外の言葉に、ルナはあからさまに体をビクリとさせてしまった。その様子に、なぜか、言い出した消明の方が驚いた表情を見せる。
「ず……図星だったアルか……」
「はったりだったの……?」
今更違うなどと言ったところで、誤魔化しきれるはずもない。無言を貫くルナに、消明は傍の赤い実をもぐと、手の中で弄びながらニンマリと笑った。
「こーれは困ったアル! 城内で半人族を見かけたら近くの衛兵に通報義務があるアル。ここには死ぬほど半人族が大嫌いな御方がいるアルからなぁ」
困った、という感情には程遠いであろう満面の笑みでルナを見つめて実を放り投げては掴むを繰り返し続ける。
「俺が告げ口したら、ここから追い出されること間違いなし! 言われたくなかったら……俺の下僕になるアル!」
ビシッと自分を指さすチャイナ男に、ルナは憤然として嘆息した。
「だったら私からも言わせてもらうわ。あなた……医術師でしょ」
「――ッ!」
消明は予想以上に驚き、瞠目したようだった。
「否。前にも言った通り厨師アル。どうしてそう思った?」
ポケットに片手を突っ込みながら、消明は傍の木にもたれ掛った。武芸の達士のような無駄のない所作に見える。探るような視線を送られ、視線に舐められているようで酷く居心地が悪かった。
「だって、食べないの? その実」
相変わらず綺麗なまま、消明の手の中に納まっている実を指差す。消明は口元に笑みを浮かべながら、実からルナへ視線を移した。
ルナが続ける。
「普通は熟れたら赤くなるけど、その実は逆。青い実は特定の病に効く、甘くて美味しい果実になるけど、未熟な実は効果が強く出すぎて、食べれば中毒症状を引き起こす。これは珍しい特殊な植物だから一般には出回っていない。となると知ってるのは医術師か薬剤師くらい。どちらかだからこそ、赤い実を取ったものの、口にできないでずっと弄んでるのかなって」
消明はわざとらしく驚嘆したように、黒き双眸でルナを射抜いたまま笑顔を見せる。
「いやあ、実の扱い一つでそこまで見抜くとは、大した観察眼と洞察力アルな。誰にも言ったことなかったアルけど、ルナは俺の奴隷だから教えてやるアル」
「誰が奴隷よ、誰が」
消明は目を伏せ、赤い実を持つ左手を見つめた。
「少し齧ったことはあるアルけど、もう昔のことアル。他にやりたいことがあったアルからな」
何もない左手首を見る目は寂しげだったが、腕輪を外してしまったことを後悔している風ではない。
「やりたいことって?」
「そう、例えばこんな」
ルナの傍に来たかと思うと、首を傾げる彼女にそっと手を伸ばす。
「何? ってひやあ! ちょっと……っ」
ルナは尻を撫で上げられ、妙な声が出た。
「見た目通りいい尻してるアルな、ぐふふ」
嬉しそうに表情を溶かす不埒な男に、メラメラと怒りの炎を燃やす。
「やっぱり最初に会った時もアンタが触ってたんじゃない、この変態痴漢男ッ!」
「ちょ、落ち着……ぐわああっ」
ルナに思い切り頬を張られた衝撃で、消明の体は無様にも土ぼこりを立てて腹から地面に転がされた。
「そうやって反省してなさい」
パンパンと手の埃を払い、踵を返すルナが薬草園を出た頃、消明はよっこらせと上体を起こして胡坐をかいた。
札の両端から、先ほどまでとはまるで異なる、鋭い瞳の煌めきと嗜虐的に上がった口角が見える。
「全く……俺好みの威勢のいい女アル」
ルナに叩かれた赤い頬を撫でる消明の右手首には、ウロボロスの銀輪が輝いていた。