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緋色の月を愛でる夜は――  作者: 二上 ヨシ
第一章  ~ポエニクスの涙を探す~
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3.皇子の帰還

「あり得ない」

「三十一」

「あり得ないわ」

「三十二」

 据わりきった目で、紫色の実をもぐルナを尻目に、アルキスはルナの発する「あり得ない」の言葉を数えながら、足元に生える白い花を摘んで藤のバスケットへ丁寧に入れる。

 王宮の片隅には、驚くほど立派な薬草園があった。細やかに手入れが行き届いているのはもちろんのこと、程よい湿気と日陰のおかげで、随分と良質で活き活きとした薬草の棚が幾重にも広がっていた。

 医術に携わる者ならば、誰もが興奮して駆け回りたくなるような光景である。

「あり得ないったら、あり得ない!」

「三十三、三十四」

「ああーもう、どういうことなの!?」

 ついに持っていた実を握りつぶしたルナに、アルキスがゆったりと顔を上げて立ち上がった。

「お嬢様、少々落ち着いてくださいませ。第三皇子が遠征に出て不在とあらば、待つより他ありません」

「そんなこと言ったって、こっちが聞くまで黙ってるなんて! あの狸じじい」

 怒りを込めて骸骨族の元老院議長と眼鏡の秘書官を頭に浮かべたせいか、ケラケラ勝ち誇ったように笑う憎たらしい顔が浮かび上がる。

 そもそも彼が『本日も三の皇子は、大変ご多忙なために……』云々などと誤魔化していなければ、無駄な時間を食うこともなかったのだ。意図的に自分を城内に閉じ込めようとしたのだろうか、と勘繰る。

「余命っていうタイムリミットもあるっていうのに」

 ルナが一番気にしていたのはそこだった。焦りを感じているのか、小さく唇を噛みしめる。アルキスは目ざとくそれに気づいた。

「上質な薬花も手に入ったことですし、少々休憩のティータイムといたしましょう。急いては事を仕損じると申します」

「休憩って……。そんなのんびりお茶なんて飲んでる――」

「何か反論でも? ルナ」

 顎を持ち上げられ、否応にも笑っていない天鵞絨(ビロード)色の瞳とかち合う。

 都合のいい時だけ「師匠の顔」をするアルキスだが、これに逆らえないのも事実。彼の笑顔には、どこか底知れぬ恐ろしさがあるのだ。有無を言わせぬような。

「わ、分かった。でももうちょっとだけ、ここにあるものをチェックしておくわ」

「承知いたしました。私はその間に用意を整えておきましょう」

 アルキスはそう言うと、なぜか薬草園を出ようと一歩踏み出した足を止めて振り返った。

「お戻りになる際、くれぐれも迷子になどならないよう」と満面の笑みでルナの頭を撫でる。

「こ、子ども扱いしないでっ!」

 恥ずかしさに赤面しながら、ムッとして手を払いのけた。

 

 

「はい、そして迷いました、と」

 己の不甲斐なさに、ルナは額に手を当ててため息をついた。

 なぜだ。アルキスと共に来た道を、逆にたどるだけで部屋に戻れるはずなのだ。ところが薬草園を出て宮廷内に入ると、途端に右も左も分からなくなっていった。適当に歩を進めるたび、ずるずる泥沼にはまっていくのを肌身に感じる。

「たしかこっちの道だったような……」

 部屋を出て、丸みを帯びた円柱がずらり立ち並び、上下にアーチの重なる画廊を通ったことは覚えている。歴史的価値のあるらしい絵画を恍惚と眺めてばかりのアルキスの腕を引っ張ったことも、「絵なんか見て、のんびりしてる暇なんてないの」と注意したことも鮮明に覚えている。

 だが、その後の記憶がぷっつりとない。うんうん独りで唸っても、思い出すのはひとりでに動く箒がダンスをするように踊っていたことや、すれ違った紳士のカツラがずれていたことなど、最高にどうでもいい情報ばかりだった。

「こんな歳で迷子なんて。最早現在地すら分からないわ」

 未だ慣れない広壮な宮廷内はどこも同じに見えるし、外の景色さえも似たような造形が広がるばかりで、先ほどからぐるぐると、同じところをただ回っているだけ。何処をどう進んでも出会う、羽の生えた獅子像を蹴り飛ばしてやりたくなる。

 ――最近城内もピリピリしとりますから、あんまり歩き回らんといてくださいね

 ずり落ちそうになる分厚い眼鏡を指で押し上げ、そう言ったカンス地方訛りの秘書官がふいに頭を(よぎ)る。確かに時折、自分を刺すような目で見る婦人や紳士らがいた。

 アルベディーヌ連合帝国には、三人の皇子がいた。第一皇子のイーサン、第二皇子のクラティス、そして病を抱えるジェイド。だがイーサンは既に病で他界しており、王位継承権は第二皇子のクラティスと第三皇子のジェイドで争われることになっていた。どちらを支持するかで、密かに派閥が分かれているということも耳にしている。

 あの秘書官が言っていた「ピリピリ」とは、このことが原因に違いない。今更元老院議長の「後継者はあくまでも平和的手段によって定められます」などという言葉は信用できないだろう。

「ま、まさか第三皇子を助けようとしている私も、事故に見せかけて暗殺……なんてことに巻き込まれないわよね……」

 背中を蹴飛ばされ、崖下に「あーれー」と落下する自分を想像して身震いする。思わず思い切り後ろを振り返り、大げさな動作で左右を確認するが誰もいない。

 今更ながら、アルキスと一緒に戻らなかったことを、激しく後悔した。

 

 ○$○$○

 

「お帰りなさいませ、三の皇子」

 戦場から戻ったジェイドを、秘書官のロイと元老院議長が出迎える。

 竜舎は力強い両翼を持つ勇ましいドラゴンたちが、艶のある鱗を纏い、清い双眸に光を湛えていた。ジェイドは乗ってきた竜から降りると、乗竜用のグローブを外しながら、気だるそうに「ああ」と返した。

 元より笑顔を振りまくような性質ではなかったが、ここの所、病による倦怠感で一層表情に乏しくなっていた。それを何とか気づかれまいと気を張るために、余計に棘のある態度になる。

 さっさと室に戻って、戦帰りの体を横たえたかった。

「皇子……ルナ様のことでございますが」

 聞きたくもない話題を切り出した元老院議長に、一瞬動きを止めたジェイドは、外したグローブを傍の侍従へ叩きつけるように放り投げた。

 それだけで怯えたように視線を泳がせる議長を威圧するように、キッと強い視線を向ける。話が進まない、と見かねたロイが割って入った。

「小生もお会いしましたけど、ルナ様はなかなかに性根のまっすぐな女性やと思いますよ。似絵(にせえ)見ます? ほらこの通り、着飾ったら意外に結構な上玉ですし、医術師ということもあって教養もある。それに三の皇子のことを心から案じられるような思いやりのある御方です。いや、こんな御方を妻に迎えられるなんて正直ほんまに羨ましいですわ」

 ジェイドは絵を一瞥し、

「お前がそれほどまでに熱く女を語るとはな」

 微笑というよりは、嘲笑のような笑みを浮かべる。

「そらもうおススメですから」

 吹き出す冷汗を拭い拭い、ロイはなんとかジェイドをその気にさせようと必死に取り繕おうとした。

「こんなにエエ女性はほかにおりません!」

「なら貴様に譲ってやる」

「そうですか、そら良かっ……は、はい!?」

「貴様がその女を落とせばいいだろう。そういったことは得意だと聞いたが」

 こんなところで女性関係の醜聞を持ち込まれるとはと、元老院議長からの呆れたような冷たい視線もあって居心地悪そうに髪をかき上げる。

「いえいえ、三の皇子は女子(おなご)っちゅうもんを、誤解なさってるんですよ。バカはバカで可愛いですし、特に夜なんかもう……やなくて、これは皇子であるあんた様がやらんと、どうにもなら――」

「お前が落せ。これは命令だ」

 ロイの言葉に割って入り、これ以上の言い合いは無用とばかりに立ち去る。取り残された二人としては、腹立たしいことこの上ない。

「あんのっ……」

 それに続く言葉を何とか喉の奥に押しやり、ロイは前後左右を素早く確認すると、元老院議長と同時に、特殊な驢馬(ロバ)の皮でできた茶色い袋を取り出した。

「いきましょか」

「そうじゃな」

 ロイはすうっと息を吸い込むと、軽く(すぼ)めた袋の先に口を当てた。

「何で俺らがこんっなに頭抱えとるっちゅうのに! あんの腐れボケ皇子はミジンコも分かろうとせんのやあああ! 国の一大事やちゅうてるやろがぁ! ってかお前の命も掛かってるやんけ! しっかりせえや、今まで散々甘やかせたったやろがあああ!」

「その通りじゃああ! ほとんどなかった髪を死滅させたのは、誰のせいじゃと思っとるんじゃ! 腐れ皇子ぃぃぃ! 戦ばっかりやってないで、たまには国政を考えろじゃああああ!」

 袋の中へ不平不満をぶちまけ、どこか晴れ晴れとして握手する。

「あースッキリしたのぅ、秘書官殿」

「ええ、元老院議長! これもデトックスですよ、デトック……」

 ハイタッチした瞬間、ハタと小さな影と目が合う。お(ふだ)を斜めに張り付けた幼いチャイナ少女が、野菜の入った巨大な籠を頭上に掲げたままジーッと二人の方を見ていた。

 見られていたかもしれないという気まずさに、元老院議長は袋を背中に隠して大きく咳払いする。

「うおっほん! 何をしておる、コック見習い! さっさと夕餉(ゆうげ)の準備をせんか!」

「そ、そうそう。早よ行かんと、怒られるよ~」

 幼い少女は漆黒の瞳を二、三度瞬かせた。

「くしゃれおーじ。こくせいを考えろじゃああ。秘書官どの。元老院議長どの」

「ぬごぉッ――!!」

 二人は凍りついたかのように硬直する。

「…………。そ……その籠めっちゃ重そうやん? お兄ちゃんらが持ったろか? ほら貸してみ」

「いやないアルのネ」

「まあ、そう言わんと。な? 可愛いお嬢ちゃん」

 ひょいと少女から籠を奪い取る。

「ってこれめっちゃ重いやんけえええ! チビのくせにどんだけ莫迦力やねん、この子! 無理無理無理! ジジイー!」元老院議長に手渡す。

「貴様老体に何をさせる気じゃああ!」

 議長は文字通り全身の骨をミシミシと軋ませながら、意地で魔象のように重い籠を持って堪える。リンは下からひょいとそれを持ち上げると、再び頭上に持って行って二人をじっと見つめた。二人はジンジンと全身の痛みを感じながら、居心地悪そうに咳払いする。

「お。オホン……まあちょっとお手伝いはできひんみたいやけど、今回のことは黙っててくれへんかな? この通り、お兄ちゃんからのお願いや」

 ロイはスッと眼鏡を外す。分厚いレンズに隠されていた端整な顔が現れ、いかなる女性をも魅了するという微笑を浮かべた。

(冴えない文官の、眼鏡の下の意外な素顔。このギャップに、女児(ガキ)から老婆(ババア)まで落ちんかった女はおらん!)

 幼い少女相手に、腹黒いことを考える。少女はジッと食い入るようにロイを見つめ、

「くしゃれおーじ。こくせいを考えろじゃああ。くしゃれおうじ。秘書官殿、元老院議長どの、スッキリしたのぅ、デトックしゅ、デトックしゅ……」

 何事もなかったかのように立ち去った。

「無、無視やと……っ」膝を崩し、ショックに青ざめる。「せめて一言突っ込んでいけや……」

「そういう問題じゃなかろう」

 元老院議長の言葉が空しく落ちた。

 


「リン」

 先ほどの少女、玉凜ユー・リンが、若い男の呼びかけにピタリと足を止める。

「どこへ行っていたアルか」

 男は野菜の入った籠を背負いながら、たくさんの肉まんをほおばりながら尋ねる。中華帽の真ん中から札を垂らしたその怪しげな青年の足下に、リンは嬉しそうに駆け寄って頬ずりした。

 まるで子犬のような仕草に、消明の隣に佇んでいた同僚の青年が苦笑いを零す。

「リンちゃんは相変わらずシャオが好きだな。他のヤツには全然懐かないのに」

 肉まんを頬張っていた僵屍(きょうし)族の少年、劉消明(リュウ・シャオミン)は、食べ終わって手をパンパンと叩いた。

「お前が幼女趣味だからじゃないアルか、カイル」

「誰が幼女趣味だ! 女の尻ばっかり触ってる変態は、お前だろうが!」

「嫌がられてないから無問題」と小憎たらしい笑みを浮かべる。

 そんなわけないだろう、とカイルは叫びたかったが、これは消明の言うとおりだった。

 消明は貼りつけた札の両端から見える部分だけでも、その顔立ちのよさがはっきりと見て取れる。時折風で札が舞いあがった時など、厨房にいた女給仕らがこぞって赤い顔で金縛り状態に陥るほど。

 おまけに料理の腕も超一流ときていた。賄いの食べ過ぎで、出世はできないが。

「次のターゲットは、ここに来てるらしい三の皇子の婚約者候補アル」

「お願いだから勘弁してッ!」

 焦る同僚に消明は冗談だと笑って歩き出したが、その吸い寄せられるような漆黒の瞳は、どこか本気さを帯びていた。  


 ○$○$○

 

「こうなったら仕方ないわ、誰かに聞くしかない。ちょっと恥ずかしいけど」

 未だに迷っていたルナは、すっかり疲労困憊していた。前方に兵士らしき後姿を見つけ、もう自力で探すのは諦めることにした。片手に剣を携えているため、少々身のすくむ思いがするが、生憎周囲には他に誰もいない。これ以上迷っていては、日が暮れる。

 深呼吸すると、意を決して背後から近づいた。

「あの、すみません。来賓用の宿泊部屋はどちらでしょうか」

 青年の顔を覗き込むように見上げ、心臓が殴られたかのように跳ね上がった。

 金色の髪は蜂蜜のように艶やかで美しく、氷青色の瞳は深海のように神秘的な光輝に満ちる。眉宇は凛々しさと聡明さを感じさせ、この世のものとは思えない端整な顔立ちの青年だった。

 アルキスと並ぶほどの容姿を持つ者を、ルナはこの瞬間初めて見たと顔を赤くして息を呑む。

 ジェイドの方も先ほど似絵で見せられた女が目の前に登場して、僅かに刮目した。だがすぐに元の冷ややかな表情に戻ると、口を開くのも面倒だとばかりに、顎先で進んでいた方とは逆方向を示した。

「あちら……ということですか」

 だが一言も言葉を発することなく、背中を見せて遠ざかっていく。ルナはしかめっ面でそれを見送った。

「何あれ。一瞬すごいイケメンだと思ったけど、なんちゅう無愛想な奴なのかしら。一言くらい『あっちですよー。むしろ案内しましょうかー』とか言ってくれればいいのに。このお城の人って、兵士まで傲慢なの?」

 ともあれこれで帰れると、ほっと胸を撫で下ろした。

 

 

「あの……ますます迷ってる気がするのは気のせい? 気のせいよね……だってあの人『向こうだ』って言ってたもんね。言ってはないけどそういう意味でしょ? 向こうってつまりここだけど……こんなとこだっけ」

 天井は蜘蛛の巣が張り放題で、物はあまりなく閑散としている。誰かがいる気配は全くなく、だだっ広い廃屋のような建物は、時折コウモリが大きな羽音を立てて飛び去るばかり。彼らの真っ赤な瞳や絵画の中の人物が、ジッとこちらを見ているような気がして、段々と落ち着かなくなっていった。

 独り言だろうと、何か喋っていないと著しく不安になる。

「冗談でしょ……もう、勘弁してっ」

 言い知れぬ不気味な雰囲気に圧倒され、魔物や魔獣に襲い掛かられるのではないかという恐怖心に支配されていく。突然、尻をするりと柔らかなものが掠めた。

「きゃああああああッ!」

 ありったけの鋭い声で叫ぶと、幾匹ものコウモリも驚いたように飛び去って行った。

「こんなところで何してるアルか?」

 このムードには不相応な、明るい声におずおずと振り返る。

「お前も厨師アルか?」

 中華服姿の三つ編み青年が、肩に汚い袋をかけてこちらを見つめていた。にこやかな彼の左眉から顎へは、ヒビのような模様が入り、中華帽に貼られた札が顔の中心を走る。しかしおそらく、相当に整った顔をしているだろうことは推測できた。

 魔物でも魔獣でもないらしい。「お前も」と言ったということは、彼はどうやらコックなのだろうとルナは推しはかった。

「あ、いえ……って今、お尻触ったのあなた?」

「まさか、気のせいアルよ。厨師の劉消明(リュウ・シャオミン)アル。『明』かりを『消』すでシャオミン、いい名だろう?」

 さし伸ばされる手を、恐々つかんで握手を交わす。

 少々胡散臭い気もするが、見た目は自分と同じくらいの年で、コックなら仏頂面で礼儀に煩い貴族とは違うはず。張りつめた緊張の糸が解けたせいもあって、妙に親近感を覚えた。

「医術師のルナ・クロエよ。あなたはここで何してるの……?」

「コウモリ狩りアル。ここは飼育場アルからな」

「飼育場? へぇ、どうりでコウモリがたくさん」

 高級だと言うコウモリ代で下士官の月給に達していそうなほど、消明の持った袋はこんもりと膨らんでいた。

「欲しいのか?」

 あまりじっと見つめていたルナの表情を「物欲しそう」だと取ったのだろう。コウモリを取り出そうとする消明に慌てて、

「いえ、コウモリはあんまり好きじゃないの。それより来賓用客室が並んでいるところって、どっちか教えて欲しいんだけど」

「さあ、食い物の無い所に興味はない」

「え……。じゃ、じゃあお城の正面口は」

 どこからか「シャオー」と叫ぶ声があった。さきほどシャオミンと名乗っていたことから、おそらくこのチャイナ男のことだろう。

「まあ頑張れアル。三の皇子は、女を何の力もなく、男に(すが)るだけの無能だと嫌ってるらしいアルから」

 遠ざかっていく消明を見つめながら、ふと思った。

「何で私が皇子の担当だって分かったのかしら。……じゃなくて私も一緒に――っ」

 だがもう彼の姿はどこにもない。焦って走り出そうと体を前傾させた瞬間、

「お嬢様、こちらにおられたのですか」

 今、一番聞きたかった声に勢いよく振り返る。

「心配しましたよ、待てど暮らせど帰ってこられない上、薬草園からも姿を消されて」

師匠(ムドー)っ……! 何でここが?」

「こちらへ向かった者がいるらしいと聞いたのです。まさか本当に迷子になられていたとは」

「もうこのままコウモリになるかと思ったよぉ」

 現れたアルキスに抱きつき、彼の広い胸に涙で濡れた顔をこすりつける。

「お嬢様、お気持ちは最大限お察しいたしますが、服で鼻水を拭くのはおやめくださいませ……」

 手巾を手渡され、それで思い切り鼻をかんだ。

 

 

「陰謀よ陰謀! 第二皇子の一派が私を永久迷路に放り込むつもりだったんだわ」

 アルキスに連れられ、俄然調子の戻ってきたルナが息巻く。

「永久迷路と申しましても、すぐに戻ってこられる範囲で危険なものもおりません。いくらなんでも、そのような子供じみた悪戯をするとは思えませんが」

「子供じみた悪戯なんてもんじゃないわ。困ってる人を掴まえて、何て言う根性の悪いっ! 私がその歪みきった精神を……っ」

 鬼の形相でパキパキと指を鳴らす。

「お嬢様、素に戻りすぎです」 

 指摘され、恥じらうように咳払いした。

「お二方、こちらにいらっしゃいましたか」

 鈴の音のような声。振り返る前に誰か分かった。

「どうしたの、クラーラ」

 ルナの部屋を担当している可愛い侍女が、切らした息を整えるように胸に手を当てる。その動作も憧れるほどに愛らしかった。

「三の皇子の診察をお願いしたいので、お部屋に案内するようにとの言いつけを」

 やっと帰って来やがったのねと思いつつ、口にするのは何とか止まった。だが顔には出ていたのだろう、アルキスに肘で小突かれる。

「そ、そう、お会いできるのがすごく楽しみだわ。どんな御方なの?」

 真珠の跳ね返す光のように柔らかな笑みを浮かべ、クラーラは両手を前で合わせて数歩歩いた。

「高貴でお美しい方ですわ。ほら、こちらに肖像画が」

 クラーラの示す絵を見て、ルナは我が目を疑った。

「あれって……」

 肖像画の青年は先ほど道を尋ねた、あの無愛想な嘘つき兵士だった。

 

 


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