6.ルナの願いとジェイドの口説き宣言
「……はあ」
展望台の柵に腕を乗せ、ルナは盛大にため息をついた。レストランの料理は、さすが国随一のシェフが手がけたとあって美味しい……はずだった。
だが、今のルナには何を食べても無味乾燥。ジェイドとフィオナ準皇女を前には、どんな高級料理も霞んで見えた。
「旨いモン食ったあとにため息はヒドイアル。折角高いもの奢ってやったのに」
ルナと同じように柵に寄りかかりながら、消明がそう言った。
「あんたのことだから、どうせ必要経費だって上に請求するんでしょう?」
「まあ、そういう不透明な金は使いたい放題アルけどな」
「やっぱり! 血税を何だと思ってるの、あんたはっ」
ビシッと指さすルナも彼はどこ吹く風。
ここは所謂デートスポットというやつらしかった。先ほどのレストランの敷地内にある展望台故に上流階級らしき人々しか見当たらないが、だからといって、庶民と違うことをするのかと言えばそうでもないらしい。
「あそこにある、あれ。あの木の下でキスをしながら願い事をして、もし二人の願いが同じだったらその願いが叶うって噂の場所アル」
消明が振り返って一本の大木を指さす。夜光虫がたくさん枝に止まっているせいで、まるでイルミネーションのように美しいが、ただの木にしかルナには見えない。
その木の下で腕を組んで寄り添う、ジェイドとフィオナの姿が目に入って視線をそらした。
「本当は結構傷ついてるアルか? そんな泣きそうな面して」
「そうかもね。でも自分から離れておいて傷つくなんて、それは……あまりに勝手すぎるでしょう?」
だから彼のことでどれだけ苦しくても、泣かないと決めている。
「お前は十分勝手アルよ、ルナ」
そんな重い言葉を、微笑みながら言うこのチャイナ男は、絶対にドSだとルナは思った。春玲とやらも、相当苦労させられたに違いない。それとも、好きな女の前では違うのだろうか。
柵の外へ視線を移す。これが世に言う百万ドルの夜景なのだろうか。柔らかなランプの明かりは、まるでたくさんのキャンドルを並べたよう。
少し風が強く吹くと、梢のざわめき立つ。肌寒さに、ルナは自身の腕を抱いた。まだ、春を知らせるハドレイヒ谷の風はやって来そうもない。
「私が人族の世界からこっちへ来たばっかりのころ。その時はまだ、医術なんてものに興味のかけらもなかったわ」
両親が他界して初めて知ったこの世界。人族の世界の裏にある、この不思議な世界の色んなことが珍しくて、市場、雑貨店、古びた劇場、広場。興味のある場所どこへでも行った。賑やかで、騒がしくあったが楽しかった。アルキスからもらったこの世界のお金を握りしめ、まるで幼い子供のようにはしゃぎながら、色んな所へ出かけた。
その頃が少し懐かしく、自然と笑みが零れる。
「ムドーも今後こっちに住むなら、色々勉強しておいて方が良いって、自由にさせてくれてた。こちらの文化や民族、生活習慣に慣れる必要があるって。でも、一度、すごく怖い顔で言われたことがある。唯一行くな、関わるなって言われてた場所。それが貧困街だった」
確かに女一人で行くような所ではない。衛生環境が悪い上に、犯罪の温床でもある。迷路のように入り組んだその街は、さまよい込んだ者を惑わせる。
「その頃は、ムドーの言いつけをきちんと守ってた。そんな危なそうな所に用事も興味もなかったし。けどある日、市場からの帰り、ものすごい大雨が降ってきた。急いで走って帰ろうとしたけど、街の医術師の家の前で、蹲ってる女の子を見かけて立ち止まったの」
見た瞬間に分かった。大雨に打たれて蹲るその幼い少女が、貧困街の住人だと。
「関わるなって言われていたし、大雨も降ってる。素知らぬふりをして通り過ぎようとした私の服を、突然彼女が掴んで言ったの。『お願い。あの子を助けて』って」
最初はその手を振り払おうと思ったのに、とっても力強い目に見入って忘れてしまった。強くて、だが同時に儚いほどに美しかった。
ルナと消明の間を、夜光虫がふわりと通り過ぎる。
「その子、誰を助けようとしていたと思う? 貧困街に捨てられていた、身寄りの無い赤ん坊」
「――……!」
消明も僅かに目を見開く。
その子もまだまだ誰かの庇護が必要な歳だというのに、親に捨てられた病気の赤ん坊をたった一人で育てようとしてた。
自分の食べ物を買うためのはずのお金を、その子のミルク代にし、靴さえ買えず、自分よりもその子を労り、寝る間も惜しんで働いていた。
子供だというのに、少女の目の下には隈まであった。
「どうしてそこまでするのって言ったわ。そしたら、その子は言った。私も親に捨てられて、ずっと一人で生きてきた。でも、やっと私にも家族ができた。この子だけが家族なの。だから守りたいの、って」
その覚悟と優しさに、どれだけ胸を掴まれたか。
「でも、その街の医術師は誰も瀕死の赤ん坊を診てくれなかった」
いくら頼み込んでも、いくらお金を払うと言っても。彼らは口を揃えて言った。
金ではなく、許可状を持って来いと――
「私はそこで初めて知ったの。この世界で貴族以外の人たちが医術師に診てもらうには、『許可』が必要なんだって。そんなことってある? 往診へ行こうとする、医術師を捕まえて問いただしたわ。あなたはそれでいいの、患者を前に放っておけるのって。そしたら、その医術師はこう言ったわ。医術師不足の今、診られる患者には限りがある。だからこそ、自分たちのこの尊い技術は、尊い者を助けるために使わなければならない。国を動かしているような、価値のあるべき方々こそ、優先的に救わねばならないって。それも怖いほど真剣な顔で」
ルナの柵を握る手が震える。
「価値があるって何? 裕福であるってこと? 地位があるってこと? 赤ん坊も、その子を家族だって、歯を食いしばって頑張ってる少女も無価値? ……そんなこと、誰にも言わせない」
この世界の医術のあり方は間違ってる。絶対におかしい。
「シャオ、あなた言ってたでしょ? 命の値段をつけるような世界を、二度と見たくないって。私もよ。人の命の価値なんて、誰にも決めさせない。だから私は今ここにいるの。許可なんてなくったって、誰もが平等に、救いたい者の命を救える社会にするために。ジェイへの……想いを捨ててでも」
それは、自分の幸福より何より優先すべき事だと信じている。頬から伝う涙も、この胸の痛みにも目を向ける必要なんてない。
「それじゃあ、俺たちの願いは一致したということアルか?」
消明が護符付きのシルクハットを脱ぐと、冷たい風が彼の髪を縫うように吹き抜け、彼の弁髪が靡く。周囲の女性の羨望の眼差しが突き刺さった。
だが消明はそんな女たちには今度は目もくれず、ルナだけをその瞳に映し、彼女のあごをそっと持ち上げた。
「これでキスすれば、俺たちの願いが叶う」
「そんな迷信……」
それでも目を閉じて口づけてくる消明の腕を、誰かが掴んだ。
「泣いて嫌がってる女に、何をする気だ」
ジェイドが怒気を漲らせて消明を見据えていた。長身のジェイドにそうして見下ろされると、驚くほどゾクリとする。
「ルナのこれは感激の涙アルよ、三の皇子」
そんなジェイドを前にいつもの調子で飄々と返す消明に、やはり諜報員とあって度胸は並でないなとルナは思った。
ルナも涙を拭い、消明に同調するように笑顔で肩を竦めてみせる。声は出せなかった。
諦めたように遠ざかるジェイドの背中を、ルナは見つめる。
「ジェイには言わないで。分かってる。彼が私をどう思ってくれているか。でも、私はここを離れられない。彼の思いには答えられない。だから、言わないで」
「三の皇子は……お前が思っている以上にお前を想っているアルよ」
「……え?」
どういう意味かと首を傾げるルナの耳に、女の甲高い声が飛び込んできた。
「どうしてですの……? だって私たち、結婚するのでしょう? 早く永遠を誓うキスして下さいませジェイ様!」
「だから少し待ってくれと言っている」
「どうして待たなければなりませんの? 嫌ですッ!」
「大声を出すな。この国にいる間は、気持ちの整理をしたい。お前とのことは、帰国してからちゃんと考える」
「修羅場アルッ!」
「何目を輝かせてるのよ」
ジェイドと準皇女のやりとりを、消明は大道芸を見る子供のような眼差しで見つめている。
「私というものがありながら、他の女のことを考えるなんて絶対に許しませんわ! ルナさんがそんなにお好き? ご覧になって! ああして、他の男とあなたを見て、せせら笑っているじゃありませんのっ」
ルナは突然自分の方を指さされ、野次馬たちの視線もこちらを向く。
(わ、笑ってない上に、私に振るのはやめてッ)
この中に知り合いでもいようものなら格好の噂の餌食となる。そうなったら最悪だ。
すでにヒソヒソ話をされている。
「二年も待たされて挙げ句こんなことになるなんて、まるで道化のようですわよ、ジェイ様! さあ、正気を取り戻して下さい。ね……?」
胸に寄りかかってくるフィオナの肩を、ジェイドはゆっくりと自分から離し、「すまない」とだけ言い残して彼女に背を向けて歩き出す。
フィオナの柳眉がつり上がった。
「あんな貧乳女のどこがよろしいの!?」
(だから私を指を指さないでッ! って誰が貧乳よ!)
ジェイドが足を止め、肩越しにフィオナを振り返る。
「俺は……ああいうちょっと謙虚な胸の方が好きだ」
ジェイドはビシッと決めてそう言った。台詞が台詞なら、まるで映画のワンシーンのように映っただろう。
「…………」
だが大勢の前で「謙虚な胸」呼ばわりされたルナは、隣で声を殺して爆笑する消明を制する気にもなれず、ただ乾いた笑いを浮かべながら立ち尽くすしかなかった。
○$○$○
「と、言う訳なのよムドー! おーいおいおいおいおい!」
テーブルに顔を伏せ、泣き叫ぶルナにアルキスは困ったように微笑む。
「それはそれは。災難……でしたね……」
「私はもう、外を歩けない身体になってしまったわ……っ」
まあ確かに哀れなことだと、アルキスも同情の念を禁じ得ない。
軽いノック音に反応したアルキスが、持っていたティーポットを置く前にルナが立ち上がる。
「いい。私が出るわ。きっと私の貧相な身体を誰かが見に来たのよ。そう、私を笑うためにね。あはは……あはははは」
「お、お嬢様……」
病みきったルナの顔に、さしものアルキスも引く。
どなたですかと扉を開けたルナの前に佇んでいたのは、申し訳なさそうな表情を浮かべるジェイドだった。
「ルナ、昨日は――」
バタンと扉を閉めた。
――「おい、話の途中だ、開けろ!」
扉をドンドンと叩くと同時に、くぐもった声が聞こえてくる。
「あんな大勢の前で恥をかかせておいて、よくもノコノコと会いに来たわね!」
――「だからそれを詫びに来たんだろうが! 開けろ! 開けて可愛い顔を見せろ!」
「やめてー! 惑わせないでー!」
扉を叩く音が止んだかと思うと、ゴンと扉に額を当てるような音が響く。
――「すまなかった。今日は、それだけ言いに来たんだ。…………じゃあな」
遠ざかっていく気配に、ルナは思わず扉を開けた。
「ジェイ……! ってまだいたの!?」
さっきと寸分も変わらない位置に立っていたジェイドに、再び扉を閉めようとした。だが、すぐに身体を扉の間にねじ込まれる。
「ちょっと……、用は済んだんでしょう?」
「フィオの言う、俺が道化というのは尤もだ。よくよく考えたら、俺だけが二年も一途にお前を想っていて、挙げ句傷つくのは不公平だ」
「はい?」
「だから――」
ルナの腕を引っ張り、ジェイドは柔らかな唇を押しつけた。一気に体中の血液が沸騰する。
「っ……ジェイっ」
抗議しようとして、反射的に顔を上げたことをルナは後悔した。
「ルナ、お前を口説き落として、また俺に惚れさせる。俺が帰る頃には、お前は自分のした選択の過ちに気づくだろう。……なんてな」
見とれるほどに美しく勝ち気な笑みを見せつけられ、心臓が跳ね上がる。
顔を近づけられ、またキスされるのかと思ったが寸前で止まった。
「また来るからな。覚悟しておけ」
「だから……私にはシャオが……っ」
耳まで真っ赤にするルナを強く抱きしめ、熱を持った耳元へ唇を近づける。
「愛している。あの時以上に、お前を」
じゃあな、と満面の笑みで去って行くジェイドを、ルナはただ見送るしかできない。
「……何なの……一体」
ルナは真っ赤な顔でへなへなと、腰を抜かしたように座り込んだ。




