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緋色の月を愛でる夜は――  作者: 二上 ヨシ
第二章  ~ハドレイヒ谷の風に舞う~
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3.ジェイドの婚約者とルナの「恋人」

 豪奢な観音開きの扉の前。

 ルナは緊張した面持ちでそこに佇んでいた。この扉の向こうには、彼がいる。

 アルベティーヌ連合帝国皇太子であり、かつて求婚までされた男――ジェイド。

 忘れたつもりでいた。

 だが、彼と二年ぶりに再会して確信した。自分はまだ、彼を強く想っていると。

 ジェイドの方も、ずっと自分を想い続けてくれていた。

――お前と絶対に結婚してやるからな!

 自分を追いかけて来てくれた。別れ際の言葉を現実にしようと。

 嬉しさと、逃げ出したい気持ちが複雑に絡み合って、胸の中がモヤモヤした。

 覚悟を決め、ノックして扉を開ける。

「し……失礼します」

 入国こそ一亡命貴族としてだったが、待遇は国賓クラスらしい。落ち着いたアンティークな家具が絶妙な位置に配置された、品のある広い客室だった。

 窓際のゆったりしたアームチェアに、ジェイドは足を組んで座っていた。他には誰もいないらしい。空気が重く感じられた。

「座れ」

 肘掛けに肘をついたまま、ジェイドは微動だにせずルナにそう言い放つ。怒っているのだろうか。

 そう思うほど、彼の口調や声はどこか冷たく聞こえた。

「いえ……私は立ったままで」

「座れ」

 有無を言わせぬ物言いに、ルナは怖ず怖ずと彼の向かいに座った。クッション部分が、思った以上に柔らかい。

 ジェイドはそんなルナの様子を、ただジッと青い瞳で追いかけていた。

 しばらく続いた沈黙に、ルナは一層気まずさを覚え、必死に話題を考えた。だが、何からどう話して良いのか分からない。

「……元気だったのか?」

 口火を切ったのは、ジェイドだった。さきほどとは打って変わって優しい声になり、心なしか表情も和らいでいる。

「え……ええ、まあ。この通り」

「特級医術師になったんだな。念願の」

「うん。来てすぐに試験を受けて……一応通った」

「ここは違うか。我が帝国と」

 ジェイドはどこか、遠い目で窓の外を見つめる。

 ノアールは、まるで守られるように高い山々に囲まれていた。季節は比較的はっきりとしてそれぞれ良さがあるが、特に冬と春の堺の短い期間に訪れる、ハドレイヒ谷から吹く花弁を含んだ季節風が、殊更ここの人々に愛されていた。

 今年もその時期が近づいているはずだが、どうしたことか、なかなかやって来ない。今年はやけに冬が長かった。

 ルナも同じように窓の外を眺める。

「全く違うわ。ここでは人と医術に壁がない。紹介状さえあれば、誰でも平等に特級医術から治療を受けられるの。貧しい人にも、裕福な人にも、医術は平等に与えられる。まあ……色々問題はあるけど」

 ルナがジェイドに視線を戻すと、彼はいつの間にか自分の方を食い入るように見つめていた。

「ジェイ……?」

「はぁ……。お前が怖がると思って我慢していたが、もう気取るのもここまでだ」

 彼はそう言うと、間にあったローテーブルを踏みつけて飛び越えると、驚くルナの両頬を包んで鼻先が触れあうまで顔を近づけた。

 ルナの心臓が飛び跳ねる。

「ち……ちょっと」

「一応聞く。キス……してもいいか?」

 いつもは穏やかなブルーの瞳が、今は赤く血走ってランランと輝く。

「してもいいかって……この状態で聞くこと!?」

「これでも理性で何とか抑えているんだ、早く答えろっ。してもいいか?」

 ダメだと言ったら、発狂でもするんじゃないか。そう思うほどジェイドは鬼気迫っていた。

「…………一回、だけなら」

 言い終わるか終わらないうちに、性急に唇を重ねられた。

「ん……っ」

 優しさを忘れたような激しいキスに、ルナはジェイドの服を強く握った。それでも一回だけだという言いつけを守ろうとしているのか、唇を離さないまま何度も角度を変えてはルナを翻弄する。

 いい加減身体が酸素を欲しているというのに、ジェイドはますます口づけを深めていった。まるで会えなかった二年間を埋めるように。

「んん! んっ!」

 何度も彼の背中を叩いて、足で腹を蹴るように彼から逃れる。ヒドイかと思ったが、なりふり構っていられない状態だった。

「ぐ……苦しいっ、私を、殺す気……?」

 真っ赤な顔で、肩でゼイゼイと息をしながら訴えるようにジェイドを見上げた。

「お前が一回だけなどと、けち臭いことを言うからだろう」

 もう少ししたかったのに、と恨めしそうにルナを見下ろす。獲物を取り逃がした獅子も、きっとあんな顔をするのだろうと思った。

 隙を見せれば先ほどの続きをされそうで、ブルリと身体が震える。

 そんなジェイドの面貌に、不意に陰が落ちた。ルナの足元に跪き、彼女の手を取って口づけ、恭しく見上げた。これはさすが上層階級の男としかいいようがない、所作の美しさ。

 彼は意識してしているのではないだろうが。

「俺はまだ、あの時の気持ちを忘れてはいない。お前を今でも、あ……愛している。ここがお前にとって、どれだけ魅力的な国か分かっているつもりだ。だが……戻ってきてくれないか。俺の元へ。一緒に帝国を作り替えよう、ルナ」

 柔らかな彼の微笑みが痛々しく、精一杯の強がりに見えた。この二年、ジェイドはきっと辛い思いを抱えてきたのだろう。

 他の誰でもない、自分のせいで。

「ジェイ……」

 ジェイドの帝国だけに限らず、この世界の医術師不足は深刻だった。医術師が一人もいない街など珍しくはなく、小国ならば数名しかいないということもある。だからこそ国の上流階級たちは、医術師を自分たちの元へ囲おうと躍起になっていた。

 それが故、ますます医術師は一般の人々から遠い存在となり、施術を受けられず命を落としていく市民が世界中で後を絶たない。

 そんな医術師不足のこの世界に、広く医術を普及させるには、ノアールに住まう大勢の優秀な特級医術師たちの協力は必要不可欠だ。

 ノアールで名と地位を上げ、異国との関わりを改善させてこそ、病に苦しむたくさんの人々を救える。だからルナはここへ来た。

 ジェイドのことは愛しているが、彼は平和協定も結んでいない帝国の皇太子。それどころか、ノアールが軍備を拡大していることに深い不快感を示し、二つの国家の間に微妙な緊張感すら生み出していた。

 そんな中で彼の元へ行けば、帝国の民は、元ノアールの特級医術師のルナを招き入れたジェイドに不信感を抱くだろう。または帝国とノアールに、より深い溝を作ってしまうかもしれない。

 それだけは避けたかった。

「ごめんなさい、ジェイ、私……」

「悪い方に考えすぎなんじゃないのか」

「え?」

「ノアールと我が国の関係が良くないから、それをお前は気にしているんだろう?」

 ルナが言わんとすることを先読みしたのか、ジェイドは必死に食い下がる。

「お前と俺が結ばれれば、帝国とノアールに強い絆が生まれる。友好の架け橋になれるかもしれない。ノアールが亡命貴族として帝国皇太子の俺を入国させたのは、帝国と平和協定を結ぶきっかけにしたいという考えがあるからじゃないのか」

 あの総帥と正秘書官の二人も、そう考えてジェイドを招いたのだろうか。

 魔界には、アルベティーヌ連合帝国の他に、秦華帝国、メナフィス新王朝という三巨大国家があった。現在はどの国との協定を結んではいないが、ノアールが一層の発展をするには、いずれかの国と国交を持つ必要がある。

 秦華帝国の皇帝は、知性もあって人柄がよく、大層人望に溢れているそうだが、気が弱く頼りない。そんな彼を裏で操ろうとする、宦官や官吏たちがごまんといる陰影要素の強い国だった。

 メナフィス新王朝は賢く剽悍ひょうかんな若き王だが、血脈意識と排他的要素の強い、関わりを持つのが難しい国。

 そんな三国家の中で言えば、アルベティーヌ連合帝国が一番協定を結びやすい国ではあるだろう。

 ノアールが危険な国ではないと分かってさえもらえれば、関係は改善される。ならばジェイドとも……。

 そんな考えが、ルナの脳内を巡る。

「ルナ、俺と来てくれ」

 剣術で鍛え上げられた、ジェイドの男らしく温かな手に力がこもった。

 いや、そんな政治的なことなど後付けに過ぎない。この真摯な眼差しを、どうすれば拒絶できるというのか。

 ルナは頬を緩めた。

「分かっ――」

「それは困るアル」

 いつの間にか、中華服の男が扉にもたれ掛かるように佇んでいた。中華帽から下がる護符の向こうにある漆黒の瞳が、面白いものを見つけたように細められた。

「亡命貴族が来たというから、どんなツラか拝みに来たら、見覚えのある顔アルな」

「お前……っ」ジェイドが双眸を窄める。

 僵屍きょうし族出身で魔界三竦みの内の一つ、秦華帝国の高級官吏を父に持つ、劉消明リュウ・シャオミン。以前、間諜として連合帝国の宮廷に潜り込んでいた男だった。

「何の用だ。出て行け」

 ジェイドは立ち上がると、ゆったりと近づいてくる消明を睨み据えた。

「残念アルが、ルナを男と二人きりにさせなくない」

「何を寝ぼけたことを。お前がどうこう言えることか」

「勿論」とルナを見やると、突然腕を引っ張って抱き寄せた。

「ちょ、シャオっ!?」

「おい!」

 消明の行動にルナはギョッとして声を上げ、ジェイドは消明の腕を掴む。

「ルナは今、俺と付き合ってるアル」

「――!?」

 驚いたのは、ジェイドだけではなかった。ルナとて消明の言っていることを解するのに、数秒を要した。

「本当なのか……ルナ」

「ち、違……っ」

「何なら証拠を見せてやろうか?」

 ルナは、自分の腰をぐっと抱いてくる消明をキッと睨む。

「シャオ、あなた何言ってるの?」

 一体何が目的でそんなことを言うのか、と小声で消明に問いただす。消明はそっとルナの耳に唇を寄せ、

「本当にいいアルか? そんな安易な考えで。最近は大人しいアルが、今の総帥は過激派と言われる男アルよ。お前を使って、帝国を吸収しようと考えていても、おかしくはない」

 総帥のランスの噂なら聞いたことはある。

 ランシュリー・ザイン・ルシフェル総帥は魔艶イーキュバス族。女とも男ともつかない恍惚とするような容姿を持ち、自在に誘香を漂わせて老若男女問わず己と色に狂わせられる。

 ルナは彼に上司以外の特別な感情を抱くことは無かったが、それは彼が誘香をルナには使っていないのか、それとも自分が驚くほど鈍感だからかなのかは分からない。

 ただ一つ言えるのは、彼はその美しい容姿とは真逆の、目を背けたくなるほど醜い獣を心に飼っているらしいということ。自身のかつての師すらも、残酷な方法で手にかけてしまうほどに――

 消明の囁きに、ルナはぐっと拳を握った。

「――ごめんなさい……ジェイ」

 ジェイドの表情が、あからさまに歪んだ。

「俺には婚約者がいる。お前を連れて帰れなければ、俺はその女と結婚することになる」

 責めるような、懇願するような口調で俯くルナをのぞき込む。

 そんなジェイドを、ルナはまっすぐに見られなかった。

「結婚すれば、俺は妻となる女がどんな女だろうと忠義を尽くすつもりだ。その女だけを愛し、子を育み、どちらかが命を終えるまで共に思いやり、助け合う。その相手が、お前じゃないなど、俺は……っ」

 ジェイドの柳眉が苦しげに潜められる。その言葉と思いやりが胸の奥に深くつき刺さった。

「ルナ……教えてくれ。本当の気持ちを。例えそれがオレの望まぬ答えでも、お前の本心なら受け入れる覚悟だ」

 勝手に離れていった自分を、二年も想い続けて来てくれたというのに、それでも彼は自分の気持ちを優先しようとしてくれている。

 ルナに向かって、この手を取れとばかりに掌を差し伸べた。その手が取れたら、どれだけ幸せだろう。

「私の、本心は……」

 言葉が出てこない。彼を受け入れてはならないと思うのに、危うく本当の気持ちを吐露してしまいそうになる。その言葉を喉の奥に押し込めるだけで、精一杯だった。

 ルナはそっと息を吐く。

(ごめんね……ジェイ)

 消明の腕を引っ張って頬に口づけた。ジェイドの目の前で。それが、答えなのだと言わんばかりに。

 一瞬、酷く傷ついた顔をしたジェイドは、すぐさま乾いた笑いを浮かべた。

「そうか……二年だもんな。振られたというのに、俺がしつこくお前を想いすぎていただけか……。まあいい。実を言うと、婚約者のフィオナはなかなか俺好みだ。美人な上に、スタイルも性格も良い。お、お前も、そいつと幸せになれ。はっ、そんな胡散臭い男のどこがいいんだ。俺の方が何倍も良い男だというのに。本当にお前は見る目がないな……全く……」

 早口でそうまくし立てたかと思うと、差し出されていた手が下りる。 

 その光景はまるで、二人を繋いでいた糸が、プツリと切れて垂れ下がったかのようだった。


○$○$○


「ふ……振られたあ!?」 

 ルナと消明が出て行った客室で、裏返ったロイ秘書官の叫び声が響く。

「速攻ですやん! 二年も苦労して交渉し続けて、やっと入国できたその日に振られたて! せめてもっと粘れやーっ」

「黙れ。振られてなどいない!」

 ジェイドは肘掛け椅子に膝を抱えるように座りながら、ふて腐れたように反論する。

「けど、ルナ様には新しい彼氏がおったんでしょ? 間違いなく振られてますやん!」

「だから振られたのではなく……、お互いちゃんと別れを言っていなかったから……。今日、ちゃんとしようとしただけで……。俺はルナに会いに来たわけではなく、ノアールの総帥と政治的な話をしに来ただけだ。そ、それに、俺も別にルナでないとダメなどというわけではないしな!」

「会えんかった二年の間も、ずっとあの方だけを想ってて? 会えへん辛さを、小生ら部下にぶつけとって!?」

「煩い! もういい、ルナとは終わったんだ! 次だ……次っ」

 ローテーブルの上に足を投げ出し、物憂そうに言い捨てる。

 ロイはハアとため息をついた。そうは言っても、彼は強いショックを受けているのだろう。

 女嫌いと言われていたジェイドを、ここまで惚れ込ませたというのに。

 ルナも随分と罪作りな女だと、ロイは思った。

「まあ! それを聞いて安心しましたわ、ジェイ様」

 突如聞こえた、鈴の音のような愛らしい声に、ジェイドとロイは顔を見合わせる。どちらの声でもないのは明らか。

 ジェイドは椅子に座ったまま振り返った。

「お前……」

 戸口に佇んでいたのは、絶世の美女だった。ほんのり桃色に色づいた柔らかな長い髪、透明感溢れる白磁器のような肌。潤んだ大きな瞳は目を逸らしがたい程の魅力を備え、上品で愛らしい唇は艶やかに照っていた。

 ウエストクリス準帝国の準皇女、フィオナ・ワーレン・ウエストクリスだった。その美貌に、一目で狂う男が多いと聞くのも頷ける美しさである。

「フィオ、一体どうやって。まさか……」

 連れてきた覚えのない許嫁の登場に、ジェイドがジロリとロイを見る。

「し、小生ちゃいますよ!?」

わたくしとて準帝国の第一準皇女。いくらでも手はありますわ、ジェイ様」

 彼女が一歩足を踏み出すたび、甘く良い香りが振りまかれる。

「立ち聞きのような真似をして申し訳ございません。ですが帰国後は、やっとワタクシと結婚して下さるのね? 幼い頃から許嫁だった私と」

「……ああ、そうだな」

「ちょ、皇太子!」

 そんな安直なことで妻を選んでは、絶対に後悔する。ジェイドは今、ルナに恋人がいたというショックで、正常な判断ができていないだけだ。

「準皇女。あのですね、も、もう二、三日お待ちいただいても……」

「ジェイ様、私……、嬉しいですわっ」

 ローテーブルに足を投げ出して座るジェイドに縋るように、フィオナはジェイドの腰に抱きついた。だが、彼女ほどの美人に抱きつかれているというのに、ジェイドは仏頂面のまま。

「準皇女、ジェイド皇太子のことは、もうちょっとそっとしといて――」

 全て言い切る前に、誰かに強い力で腕を握られた。痛みを感じる前にとっさに振り返ると、ごぼうのようにヒョロリとした長身男に、二の腕を掴まれていた。

 その体躯からは、想像もつかないほど力が強い。おまけに顔の上半分は白い仮面に覆われた、異様な風体であった。

(こっわぁ……、何こいつ)

 おそらく、準皇女のボディーガードなのだろう。シャンとした正装の胸元に、護衛のピンバッジが光る。

「ロイ様。申し訳ございませんが、ジェイ様とラブラブな恋人同士、二人きりにしてくださいな。ね、ジェイ様?」

「そうだな……少しは気を遣え、愚か者」

 ルナに振られても哀しくなど無いという精一杯の強がりであることは明白だが、その勝手な言いぐさと愚か者呼ばわりに、ロイはこめかみに青筋を浮き立たせた。

「これはどうも気がつかんで」

 怒りで奥歯がガタガタ言う。もう二度とジェイドの恋路を手伝うまいと、心に誓った。

「うふ、いいんですのよっ。あーん、ジェイ様ぁっ、好き好きっ、にゃんにゃんっ」

 フィオナは嬉しそうにジェイドの身体に頬をすり寄せる。

 ロイは、彼女が幼い頃から、ジェイドを慕っていたのは知っていた。許嫁だと互いに引き合わされたあの時からずっと。

 ジェイドの方は、興味なさそうに振る舞っていたが、今は心なしか楽しそうにも見える。

(勝手にしろっちゅうねん! 小生はああ言う馬鹿っぽい女、嫌いやわぁ……)

 ごぼうボディーガードに襟首を持って引きずられながら、ロイはずり下がる眼鏡を押し上げた。


○$○$○



――その女と結婚する

 客室を出ても、ジェイドの言葉が何度も何度もルナの頭を巡っていた。

「さっきの嘘、撤回してやろうか、ルナ?」

 ポケットに両手を突っ込みながら隣を歩く消明が、薄い笑みを浮かべながらそんな事を言う。

「もしかして、楽しんでる?」

「ははは、まさか」

 この男のやることはよく分からない。本当はルナのことも帝国のことも心配などしておらず、状況をひっかき回して楽しんでいるのだろう。

 とはいえ、先ほどのことには感謝せざるを得ない。

「撤回してくれなくて結構よ。私、どうにかしてたわ。ジェイと私が結ばれるくらいでノアールと帝国の関係が変わるくらいなら、今頃協定の一つや二つ、結んでるわよね。ノアールに入った今、私も帝国皇太子のジェイドとは一定の距離を置くべきだわ。その上で両国の関係改善を図る……それで、いいの」

 先ほどから涙で廊下が歪んで見えそうになるが、この飄々とした中華男の前では泣きたくなどない。早く一人になりたかった。

「悪いけど、用事があるから」

 踵を返そうとして、突然手首を掴まれた。

「何?」と肩越しに振り返る。

「痛みを抑える特効薬アル。じゃあな」

 立ち去る消明の背中から、彼に手渡された手の中の包みへ視線を移す。紙に包まれていたのは薬でもなんでもない。

 ただの飴玉だった。

「まあよく効きそう。さすが特級医術師ね」

 その言葉に反応するように、消明は歩きながら手を上げる。

 憎まれ口を叩きながらも、彼の余計な気遣いが嬉しかったのは事実だった。

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