22.貫く凶刃
※一部流血表現注意
赤い雷の落ちる谷。
そう呼ばれる、切り立った岩壁の立ち並ぶ険しい場所があった。時折吹き付ける強い風によって削られた岩肌は、気の遠くなるような時をかけて作り出した自然の造形美を形作っていた。
「久しぶりだな、ジェイド」
細かい砂の混じる風が吹く中、一際高い岩山に佇む男があった。細身で長身。見覚えのある男だった。
赤みを帯びた暗い空。時折雷が遠くで落ちる。
「ライオネル……。いや、兄上……なのですか」
ジェイドは疼く胸を押さえながら、その男を睨み据える。
見知った竜務員のはずが、冷酷な表情のせいで、今は全く別の顔をして見える。
「ああ。お前の兄であり、アルベティーヌ連合帝国第一皇子、イーサンだ。顔は医術で変えたがな」
「医術……」
ジェイドは奥歯を噛みしめた。
どいつもこいつも、なぜそんな貴重な術を己の欲のためにしか使おうとしないのか。
そんな悔しさがジェイドの胸の中に芽生えていた。
「魔術の全く使えない貴様とは違って、俺は幼少期からあらゆる英才教育を受けていたからな。いや、それ以上に……血の涙を流すほどの努力をした、皇帝になるためだけに! お前がまだ子供の頃に死んだことになっていたお前は、俺のことなどほとんど記憶にはないだろうがなぁ、ジェイド」
「ならばまさか、病も自分で」
イーサンは口を残忍に歪め、真っ白な歯を見せて笑った。その目は、狂気に支配されている。
「そうだ。己の身体で実験した。どうすれば貴様を殺せるかを考えるのが、どれほど楽しかったか! 自分に仮死状態になるよう術をかけ、死んだふりまでしたのは、別人として貴様に近づくためだ。竜務員として宮廷に潜り込めば、ドラゴンに乗り降りする貴様と接触し、術をかけることができる。第一皇子としてのままの俺では、お前に近づかせてもらえなかったからな」
「当然だ」
突如そう口を挟んだのは、護衛官のハーディだった。ジェイドの後を追いかけ、アルキスやフェリックスもドラゴンに乗って応援に駆けつけていた。
「貴様は三の皇子を深く恨んでいた。そのことを、閣下もお気づきだった」
次々にドラゴンを下りて駆けつけてきた彼らにも、イーサンはたじろぐ様子を見せなかった。
「恨んでいた!? 当たり前だろう! こいつのせいで俺は皇帝になる可能性を奪われた! 父上は、貴様の母親を一番に愛していた! やっと生まれてきた心から愛する女との子、ジェイド。貴様は生まれた時点で次期皇帝となることが約束されていたのだ! そんな……そんなくだらないことで! 俺は皇帝になる道を閉ざされたんだぞ! 俺の母上も、ショックで衰弱して亡くなった……。全部……貴様のせいだ!」
「兄上。あなたの私怨など俺にはどうでもいい。ルナは、無事なんだろうな」
「ああ。貴様が大人しくしている限りな」
ニタリと隠微に口角を上げて笑う。
イーサンが何もない地面に向かって手をかざすと、一点に強いつむじ風が起こり、中から後ろ手と両足を縛られたルナが姿を見せた。
「ルナ!」
ジェイドは無事な姿に胸をなで下ろす。
一瞬何が起こっているのか分からないと周囲を見渡していたルナも、すぐに状況を解して叫んだ。
「ジェイ……っ! 何で来たのよ! 馬鹿っ! ……そんな状態で、私のためなんかに」
普段は勝ち気な彼女も、ハラハラと涙を流す。
それほどジェイドはまともな状態ではなかった。魔力を吸い取る呪詛のせいで身体に力が入らず、立っているだけで精一杯だった。
それでも彼はサファイアブルーの瞳を細め、優しい笑みを見せた。
「来るに決まっているだろう、ルナ。お前のためなら、たとえどんな状態だろうと」
「ジェイ……」
ルナは彼のその笑顔が、自分を安心させるためだけに浮かべられたものだと分かっている。本来なら、他人を気遣う余裕すらないだろうに。
今なら確信できる。
そんな強く優しいジェイドを、自分は心から愛していると。
「大人しくしていろ、ジェイド。そうすればこの女の命は助けてやる」
イーサンが鞘から剣を抜くと、ギラリと銀色の刀身が姿を現す。血に飢えるように艶めかしい光を放ち、どんな岩をも砕かんばかりの強さを秘めているように見えた。
その鋭く尖った切っ先を、真っ直ぐジェイドに向ける。
狂ったこの元皇子が何をしようとしているのか、分からないものなどいなかった。
「お前たちは手を出すな」
だが、今にも飛びかかりそうに隙を狙っていた護衛官らを、ジェイドはそう制する。
「でも皇子っ!」とフェリックスが反論した。
「黙れ。これは命令だ」
「いくら命令でも……ッ、これは」
「いいからお前たちは下がっていろ!」
渋々一歩、二歩と後ずさる。
そのやりとりを、イーサンは至極愉快そうに眺めていた。
「安心しろ、ジェイド。すぐに殺しはしない」
剣を持った手首をくねらせながら、まるでケダモノのような顔つきでジェイドの間近まで歩み寄ると、一瞬の間も置かず剣の柄でジェイドの頬を殴った。
「ジェイ!」
倒れ込んだジェイドの腹を、イーサンは執拗に蹴る。
「何が英雄だ、次期皇帝だ……。魔術も使えんこんな男に何ができる! 俺が命を握ってやっているんだ! ハッハハハ!」
イーサンはジェイドの腕を握ると、呪詛の力を強めた。
「ああああっ!」
ジェイドは表情を歪めてもがき苦しみ、悲痛な呻きを漏らす。
砂にまみれ、血反吐にまみれ、それでもジェイドは抵抗しようとしなかった。ルナはそれが自分の為であることが、胸を裂かれるほどに辛かった。
「やめて……お願い! 男なら……男なら正々堂々勝負しなさいよ! それとも、魔力を吸われて弱ったジェイに勝てないほど弱いの!? この卑怯者ッ!」
涙でぐちゃぐちゃになった顔で、ルナはそう叫んだ。
だが、そんな挑発の言葉すら、加虐の喜びに浸るイーサンの耳には届いていないようだった。
「死ね! 苦しみ悶えながら死ねぇッ!」
「やめて……っ! お願い」
ルナは必死に足に巻き付けられた縄を解こうともがく。下手に動けない護衛官やアルキスには、どうしようもなかった。
「これが皇帝になる男か? 笑わせるな!」
イーサンが高笑いすると、たくさんの雷鳴がとどろく。
「父上は……決して俺を、最初から皇帝と決めておられたわけではない……っ」
そんな、この世の終わりとも思える場所や事態の中でも、ジェイドは瞳に光を失わなかった。ゆっくり上体を起こし、決してイーサンから目を逸らそうとしない。
「……何?」
「父上は……常々言っておられた。お前がもし皇帝となり、次なる皇太子を選ぶ時が来れば……その時は父ではなく、一皇帝として選べ。もし情で無能なる皇帝を生み出せば、その因業は己の愛する子を殺すだろう、と」
「そんなものは……でたらめだ! お前だと決まっていたんだ! そのはずだ!」
「本当は……兄上が逃げたかっただけではないのですか。寝る暇さえ満足に与えらずに勉強し、痣ができるほど殴られながら躾され、母親や身内からのあまりに大きすぎる期待をたった一人で背負わされる。全て俺のせいにして、そんな環境から逃げたかっただけではないのですか」
「貴様……知ったような口を」
イーサンは剣の柄を逆手に握り替えると、怒りで醜く潰れた顔で、ジェイドを見下ろした。
もはや立ち上がることすらできないジェイドの心臓を目がけ、勢いよく剣を振り下ろす。
「もういい。くたばれ……ジェイドッ!」
その瞬間、ジェイドを庇うようにルナが飛び込んで来た。
勢いのついた大剣は、ルナの胸をあっけないほど簡単に貫く――
「ル……ナ」
「お嬢様ぁッ!」
「ルナちゃん!」
ジェイドは、目の前の出来事が、まるでスローモーションのように感じられた。
彼女の身体から引き抜かれる血濡れた凶刃、自分の方へ倒れ込んでくる愛しい彼女。
「ルナアアアアア!」
ジェイドは狂ったように彼女を抱えた。
胸の傷から徐々に、だが大量にあふれ出す血液を止めようと、ジェイドは自身の服を歯で裂いて傷口に当てた。
しかし、まるで大海に小さな綿を浸すが如く、あっという間に意味をなくす。
「ルナ……ルナ! しっかりしろ! 絶対に寝るな!」
だがルナの目は虚ろで、顔は血の気を失って真っ白だった。
「ジェイ……無事で、よか、た」
「喋るな!」
必死に傷口を押さえているのに、生暖かい血液は留まるところを知らない。
「くそッ!」
傷口を押さえるジェイドの手に、ルナが自身の手を添える。ガクガクと震えるジェイドに、ルナはそっと微笑みかけた。
窮地の場面でも、彼がいつもそうしてくれていたように。
相手を安心させるために笑う。
「ごめ、ね……ジェ」
添えられていたルナの手が滑り落ちたかと思うと、カクン、とルナの身体から力が抜けた。まるで人形でも抱いているかのように、生気がなくなる。
「ル……ナ。ルナアアアア!」
「嘘だろ、ルナちゃん……嘘だろ!」
フェリックスはパニックに陥ったように大声を上げ、アルキスは言葉さえも失っていた。
「あっははははは! 馬鹿な女だ! ジェイド、次は貴様だ!」
ジェイドはルナを置いて立ち上がり、一歩一歩イーサンの元へ足を進めていく。
「死ねぇ!」
斬りかかってきたイーサンから一瞬で剣を奪い、その先を尻餅をついて転んだ彼の喉元に食い込ませた。
あまりにあっけない形成逆転に、イーサンは驚愕を貼り付けた表情でジェイドを見上げる。
カッと見開かれたイーサンの瞳に映る、ジェイドの幽鬼の如くおぞましい顔つきに、イーサンは顔色を白黒とさせ、片方の鼻から鼻血を流し始めた。
彼の参戦に、敵が戦意喪失して戦いを放棄するとまで言われる帝国の英雄の威光。イーサンは今ヒシヒシとそれを感じていた。
アルキスはルナの元へ駆け寄り、護衛官らもジェイドの背後につく。
「ジェイド……殺すのか、俺を」
ジェイドは憎悪に身体を震わせながらも勢いよく剣先を引き、こぼれ落ちた涙を拭うこともなく鋭くイーサンをにらみ付けた。
「貴様を捕縛し、……裁判にかける」
「は……はあ? 俺を殺さないのか、ジェイド。憎いだろう、俺が! お前の愛する女を殺した俺が! ……ああそうか、貴様は実の兄が殺せないのか! ハハハ! 臆病者!」
「勘違いするな。俺の愛する女は、誰より命を重んじていた。その女の前で、貴様ごときとはいえ殺すわけにはいかない。ただそれだけのことだ」
「は! そんなにあの女に惚れ込んでいたのか。おい、今動いたんじゃないか?」
「ルナ……っ?」
期待にジェイドが振り返った隙を突き、イーサンは突風を巻き起こした。
「甘いな、お前は!」
風が巻き上げた砂埃に紛れ、イーサンは遠くまで走り去っていた。断崖絶壁の端で、この世を手に入れたが如く両手を広げて高笑いする。
「やはりお前のような者は皇帝になど向いてないッ! 俺こそが……俺こそがこの帝国を! 魔界を治めるべき器なのだ! いずれまたお前を殺しに行く!」
崖の下から、巨大な比翼をはためかせた真っ赤なドラゴンが浮上してくる。逃げる気だ。
「あの野郎……」
フェリックスが銃を構えた。当たらぬ距離ではない。
「やめろ、フェル」だがハーディが無理に銃身を下ろさせた。「皇子の女医術師に対する気遣いを無駄にすんじゃねぇ」
「でも……っ。くそ!」
悔しさに打ち震えるフェリックスとは対照的に、ハーディは事の成り行きを静かに見守っていた。
「心配すんなフェル。アイツはすぐ地獄に落ちる」
まるで何かを知っているかのような口ぶりでそう言ったハーディの視線の先には、浮遊するドラゴンの手綱に手を伸ばそうとするイーサンの姿があった。
「あっはははは! 馬鹿めが!」
だが次の瞬間、突如として足元が崩れ、イーサンは足を掬われ谷底へ滑り落ちる。
「た! 助けてくれぇ! ジェイド! ジェイドー! すまなかった! ジェイドーー!」
「まだしがみついてやがんのか。しぶてぇ」
フェリックスがテンガロンハットを下げる。
崖の端に辛うじてとりついていたイーサンが、都合よくもジェイドに助けを乞う。フラフラと立ち上がろうとするジェイドに、ハーディが「俺が」と名乗りを上げた。
白々しいほどゆっくりイーサンの元へ歩み寄り、おもむろに手を伸ばす。しかし、イーサンがその手を掴もうとした瞬間――
イーサンが必死の形相で掴んでいた箇所も崩れ去った。
「あああああああああああああ!」
谷底へ落ちていく彼の断末魔を聞きながら、ハーディは口元の布を下ろして煙草に火をつける。
「助けに来たのに落ちてんじゃねぇよ」
まるで弔いでもするかのように、銜えていた煙草をピンと谷底へ弾き落とした。




