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第45話 自由に屋敷を抜け出せない!


 その日、ルッタ・アルルーは思い悩んでいた。


「これは……難しい問題です……」


 朝、自室にてピアノに向かいながら独り言を呟く。


「そ、そうですね……やはり難しいと思います……」


 隣で音楽を教えていたエルナは、この世の終わりとしか思えないルッタの演奏を聞いて冷や汗をかいていた。


 ここまで音楽の才能が悪い方に振り切れた子供を見るのは初めてである。


「まるで向いていませんね」


 ずれた眼鏡を直しながら、残酷な事実を告げるエルナ。


 ――デデーン!


「……許可なく鍵盤で感情表現をするのはやめてください」


 ――デーン!


「……怒りますよ?」


「ごめんなさい」


 ――ポロローン……。


「今の音色には少し可能性を感じましたが……次やったらお仕置きです」


「……はい」


 エルナに鋭い視線を向けられ、ルッタは大人しく鍵盤から手を引っ込める。出力が異常なだけで、音楽に触れること自体は嫌いではないようだ。


「ルッタ様が優雅に演奏する姿が全く想像できませんでしたので……何となく嫌な予感はしていましたが……ここまで悲惨だとは予想できませんでした」


 エルナはがくりと肩を落として続ける。


「最初、鍵盤にそっと手を置いた時はもしやと思ったのですが……気のせいでしたね」


 その中性的な容貌のおかげで、ピアノに向かえば一瞬だけ神秘性を身にまとえるのだが、音を出した途端に全てが崩壊するのである。


 ――ひょっとすると、彼はいずれ音楽で生き物を殺せるようになるかもしれない。


 そう思わずにはいられないほどの、聞くに堪えない不快な演奏だった。


「悪魔が曲を奏でれば、先ほどのような音色になるかもしれません」


 エルナの評価は散々である。


「いえ。この曲が難しいのではなく、難しい問題があるのです……!」


 しかし別のことで悩んでいたルッタは、彼女の言葉などまるで聞いていなかった。


「……またそれですか?」


「またそれなのです……!」


「もう少し曲の出来栄えについても悩んでいただきたいのですが……」


「うぅ……っ!」


 ルッタは苦しそうに頭を抱える。


(分身が……僕の言うことをあまり聞いてくれません!)


 現在エルナ先生の授業を受けているのは本体のルッタであった。


 最近、分身を酷使しすぎると高確率で脱走されることが判明したので、話し合い――という名の押し付け合いの結果、定期的に脱走係と日常係を交代するというルールが制定されてしまったのである。


(同じ僕なのに……どうしてこうも意見が合わないのでしょうか……!)


 理由はもちろん、同じルッタだからである。


「何やら苦しそうですので、今日の授業はこのくらいにしておきましょうか。……この後、イーリス王女とお会いになる予定もあることですし」


(そう言えば、そんなイベントもありましたね! 貴族というのも楽ではありません!)


 相変わらず、王女に対して失礼なことを考えるルッタ。


「……ルッタ様。くれぐれも、王女様の機嫌を損なわないようにしてくださいね」


 エルナはしっかりと釘を刺す。


「では、僕の演奏を聞かせてあげるというのはどうでしょうか!?」


「絶対にやめてください」


 ――デデーン!


 耳障りな不協和音が部屋に鳴り響く。


「……お仕置きですね」


「や、やってしまいました!?」


 かくしてルッタは、王女と会う前であるのにも関わらず、エルナから恥ずかしいお仕置きを受けることになったのだった。


 *


 昼、天馬の引く白銀の馬車でアルルー邸へとやって来たイーリスは、綺麗に巻いた美しい金髪をなびかせながら正門の前に降り立つ。


「御機嫌よう――ルッタ・アルルー」


 そして出迎えてくれたルッタに対し、ドレスの裾を摘まみ上げながら一礼した。


「ご、御機嫌よう……イーリス王女……」


 ルッタは何故か少しだけ後ずさりながら、ぎこちなく挨拶を返す。


 一陣の風が二人の間を吹き抜け、緊張感が辺りを支配した。


 ――刹那。


「会いたかったですわーーーーっ!」


 イーリスは両手を広げて叫びながら、全力でルッタに飛び掛かる。


「んぐっ……」


 王族である彼女の好意を無下にしないよう言いつけられているルッタは、抵抗することなく黙ってそれを受け入れた。


「前に会った時よりもずっと凛々しく――そして可愛らしくなりましたわねっ! これほどの美少年……また誘拐されてしまいそうで心配ですわーっ!」


 イーリスは彼の顔をぺたぺたと触りながら、無邪気にはしゃぐ。


(ええと、確か最初に会った時に言うのは……) 


 ルッタはそんな王女の肩を両手で掴み、無理やり引きはがして距離を取る。


「イーリス王女も、前会った時より、さらに綺麗に、美しくなられましたね。思わず見惚れて、言葉を、失ってしまいました」


 そしてまっすぐ視線を合わせながら、あらかじめ父から教えられていた文言を詠唱した。


「君に、悪い虫が、つかないよう、僕が護らなきゃ」


(……きゅんっ!)


 王女の頬が一瞬で赤くなり、先ほどの勢いが嘘だったかのように大人しくなる。


「ど、どこでそんな言葉を覚えたんですの……っ、い、嫌ですわもう……っ!」


 どうやら効果は抜群だったようだ。


「少し……顔を近づけてくださいまし……」


 彼女は上目遣いで控えめにお願いする。


「こうですか?」


「……ちゅっ」


 指示に従ったルッタの頬に、軽く唇が触れた。


「あなたは……悪い男の子ですわ……っ」

 

 イーリスは俯き、耳まで真っ赤にしながら呟く。


(レベル上げ……レベル上げがしたいです……! レベル上げレベル上げレベル上げレベル上げ――)


 一方ルッタはそれどころではなく、精神が限界寸前であった。


「ルッタちゃんのほっぺが……私以外のものに……!」


 そして、屋敷の窓からその様子を凝視していた姉――リリアの精神も限界寸前であった。


 ……アルルー家の内情は複雑である。

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