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ポケットの中の無限

作者: 有栖川 幽蘭

私は、雨の中を歩いていた。降りやまぬ、という言葉がこれほど似つかわしい雨も珍しい。灰色の空から、同じ角度で、同じ速さで、無数の糸が地上に向かって絶え間なく降り注いでいる。その光景は、永遠に続くかのように思われた。


私の日々も、この雨に似ていた。同じ部屋で目覚め、同じ絶望を抱えて机に向かい、同じ一行も書けないという事実を確認して、また同じ布団に潜り込む。その繰り返し。それは、まるで終わりのない、悪夢の円環だった。


雨宿りのために駆け込んだのは、古びた玩具屋の軒先だった。色褪せた看板、埃をかぶった硝子窓。その中に、私は一つの筒を見つけた。厚紙で作られた、安っぽい万華鏡だ。子供の頃、誰もが一度は手にしたことのある、ありふれた玩具。


何かに引かれるように、私は店の中へ入った。番台に座る老爺は、私を一瞥しただけで、再び居眠りの世界へ戻っていった。私はその万華鏡を手に取った。ざらりとした厚紙の感触が、指先に伝わる。


片目を瞑り、その筒の先を、薄暗い電灯に向けた。


途端に、私の世界は消え失せた。


そこには、息を呑むほどに精緻な、光の幾何学模様が広がっていた。色硝子の破片が、互いに反射し合い、完璧な秩序を持った小宇宙を形成している。それは、この薄汚れた現実世界とは何の関わりもない、孤高の美しさだった。


私は、ゆっくりと筒を回転させた。


さらさら、と硝子の欠片が崩れる微かな音と共に、その宇宙は一瞬にして崩壊し、次の瞬間には、全く新しい、それでいて寸分違わぬ秩序を持った別の宇宙が立ち現れた。生成と消滅が、私の指先の僅かな動きひとつで、無限に繰り返されてゆく。


美しい、と初めは思った。この澱んだ現実から逃避させてくれる、束の間の慰めだと。しかし、その感情は、すぐに底知れぬ恐怖へと変わっていった。


この筒の中にあるのは、無限だった。だがそれは、豊かで広大なものではない。始まりも終わりもなく、ただ同じ法則性の下で、無意味な離合集散を永遠に繰り返すだけの、冷たく、そして空虚な無限だ。神のいない、ただ数学的な秩序だけで構成された、硝子の牢獄。


私の意識が、その模様の一部へと吸い込まれてゆくような感覚に襲われた。私という存在も、この色硝子の破片の一つに過ぎないのではないか。この万華鏡という名の巨大な運命の中で、ただ転がり、他の破片とぶつかり合い、意味のない模様の一部を形作っては、また次の瞬間には崩壊してゆく。そう考えると、激しい眩暈が私を襲った。無限とは、安らぎではなく、眩暈そのものであった。


私は、はっとして、顔から万華鏡を離した。


目の前には、埃っぽい、薄暗い玩具屋の現実があった。番台の老爺は、相変わらず眠っている。外では、雨が降り続いている。


しかし、その光景は、先程までとは全く違って見えた。雑然として、薄汚れて、淀んではいるが、そこには「揺らぎ」があった。予測のつかない、非対称の、不完全な世界。それは、あの万華鏡の冷たい完璧さに比べれば、何と人間的で、救いに満ちていることか。


私は、その万華鏡を懐に入れ、代金を番台に置いた。老爺は、最後まで目を覚まさなかった。


店の外へ出ると、雨はまだ降り続いていた。だが、もう、それが永遠だとは思わなかった。この雨は、いつか必ず止むだろう。


私は、ポケットの中の筒を、強く握りしめた。この小さな玩具の中に、あの眩暈を催すほどの無限が、今は静かに閉じ込められている。私は、ポケットの中に無限を飼い慣らしているのだ。


そう思うと、不思議と、足取りは軽やかだった。私の日々が、たとえ無意味な繰り返しの牢獄に思えたとしても、その外側には、不完全で、予測のつかない、揺らぎに満ちた世界が広がっている。今は、それだけで十分だった。

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