表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

釣りの神童

作者: 南蛇井

少年の名は浜崎海斗。

港町で生まれ育った海斗にとって、釣り竿はおもちゃであり剣であり、友達だった。


七歳のとき、町の釣り大会で父親を押しのけて一番大きな鯛を釣り上げた。

それ以来、彼は「釣りの神童」と呼ばれた。

漁師たちも、観光客も、漁協のおじさんたちも、海斗を見つけると目を細めて言った。


「おう海斗、今日はどこで釣るんだい? 船出すか?」


彼はいつも、ひとり波止場に腰かけて、じっと海を見つめていた。

友達が鬼ごっこをしていても、遠くで母親が手を振っても、海斗の視線は浮きを離れなかった。


中学に上がるころには地元の新聞に何度も載り、釣り雑誌にも取材された。

「プロの釣り師になれる」「将来はテレビに出るぞ」

誰もがそう言った。


ただひとつ違ったのは、海斗自身は一度も「なりたい」とは言わなかったことだ。


高校生になった海斗は、釣り以外を知らなかった。

授業には寝坊して遅刻し、テストは白紙同然。

先生も呆れて、「海斗、おまえの将来はどうするんだ」と何度も言ったが、海斗は笑っていた。


「将来なんて、釣りしてりゃいいんすよ」


誰もが「才能があるから」と言ってくれた。

だけど、才能が飯を食わせてくれるわけじゃないことに、海斗だけが気づいていなかった。


十八歳の春。

進学も就職も決まらないまま、港の片隅で海斗は今日も竿を垂れている。

近所の子供が遠巻きに見ていた。

「ねえ、あの人が釣りの神童なの?」


母親が子供の手を引いて、少し離れた場所へ移動していく。

海斗のそばに誰も座らなくなった。


「あれ……釣れねえな……」


一匹も釣れない海を前にして、海斗は初めて「海が怖い」と思った。

海は優しくなかった。

子供のころの自分だけを、もう一度は許してはくれなかった。


錆びた釣り針を握りしめ、海斗は思った。

――おれ、これから、どうするんだろう。


波は答えず、ただ揺れていた。




『釣りの神童』 二十代編

港町の冬は冷たい。

二十歳になった海斗は、今も変わらず同じ堤防に座っている。


高校を出て、漁師になるでもなく、町を出るでもなく、日雇いのアルバイトを転々としては金を竿と餌に変えた。

コンビニの夜勤、港の荷運び、土木の手元。

どこへ行っても最初は「釣りの神童さんじゃないか!」と笑われ、数ヶ月で辞めた。


「海斗、おまえ働けよ」

母はもう何も言わなくなった。

町の人も、「すごい子だ」と言っていた声は、今では裏で「ただの釣りバカ」と笑われている。


二十二歳のとき、テレビ局の取材が来た。

かつての「釣りの神童はいま」という特集だった。


マイクを向けられて、海斗はいつも通り笑った。

「釣りしか、してないっす」


放送されたのは、どこか冴えない青年が海を眺めるだけの映像だった。

思い出に浸るように語る町の大人たちと、呆れ顔の若い漁師たち。


それを見た夜、久しぶりに会った同級生に居酒屋で言われた。


「おまえ、ほんと何やってんの? まだ釣りしてんの?」


海斗は笑ってビールを飲み干した。

笑っていたけど、心臓の奥でずっと寒い風が吹いていた。


二十五歳の夏、父が病で倒れた。

父は町の港の小さな船を一艘だけ持っていて、ずっと海斗にそれを継がせたかった。


見舞いに行くと、父は弱い声で言った。


「海斗……船を……おまえに……」


海斗は父の手を握った。

その目は、海ではなく床を見ていた。


父の死後、残された船は借金のカタに取られた。

母も町を出て姉の家に引っ越した。

残ったのは、釣り竿と錆びたリールだけ。


「なあ、神童さんよ……。そろそろ釣り以外のこと、考えろよ……」


誰かが言ったが、海斗は笑って海に背を向けた。


「……そうだな。明日、考えるわ」


けれど翌朝も、海斗はまた海を覗き込んでいた。

浮きが揺れて、何も釣れなかった。


海は変わらず青く、海斗だけが年を取っていった。

誰も彼を呼ばない。

「神童」という言葉だけが、遠い波音みたいに耳の奥で響いていた。



三十歳を過ぎた浜崎海斗は、もはや町でも目立たない存在になっていた。

子供のころ彼を囲んでいた大人たちは年老い、同級生たちは町を出て家庭を持ったり、港を継いだりした。

誰ももう「神童」などとは呼ばない。

「浜崎の海斗さん」――それだけだ。


彼は町の安アパートの一室に住み、昼間は港の荷捌き場で働く。

夜は釣り竿を担いで堤防に立つ。

あのころと同じ場所、同じ海、同じ竿。

だけど、浮きの向こうにあったはずの「未来」は、海の底に沈んで二度と浮いてこなかった。


今夜も海斗は、膝にコンビニ弁当の空き箱を乗せたまま、浮きの小さな揺れをじっと見つめている。


「……釣れねえな」


そうつぶやく声だけが、夜の潮風に吸い込まれる。

二十代のころよりも、頬の骨が浮き、指の節々がごつごつと目立つようになった。

海斗はまだ若いと言える年齢だったが、誰よりも早く老いた気がした。


波止場の向こうで、若い釣り人たちが笑い声を上げている。

スマホで釣果を撮り合い、SNSにアップしているのが遠目にもわかった。


海斗は、スマホも持たなかった。

連絡する相手も、見せる相手もいなかったからだ。


浮きが沈む気配はない。

静かな波の音だけが、昔と同じく、何も言わずに海斗の横にいた。


次の朝も、海斗はまた海へ向かった。

そしてまた、何も釣れなかった。


三十二の冬、海斗は初めて病院に入院した。

過労と栄養失調だった。

仕事の合間にカップ麺だけを啜り、夜通し堤防に立つ生活が十年以上続いていた。


「浜崎さん、ちゃんと食べてくださいね」

看護師にそう言われ、海斗は子供のように笑った。

笑ったが、内側から何かが錆びて崩れる音がした。


町の若い漁師たちは、もう誰も海斗に声をかけない。

時折すれ違えば、「まだ釣ってんのか」と笑い、また黙って去っていく。


昔の仲間は、正月に集まっても、海斗を呼ばなくなった。

結婚式にも呼ばれなかった。

誰もが海斗を「過去の象徴」として、心の中にだけ置いていた。


退院して数日後、海斗は父が残した船の写真を見つけた。

古いアルバムの中で、海斗が小さな手で舵を握っている写真だ。

父の顔も、母の笑顔も写っていた。


その夜、海斗は久しぶりに酒を飲んだ。

堤防ではなく、自分の部屋で、ひとりで。

安い焼酎を煽りながら、窓の外の港を眺めて思った。


――おれは、何も残さなかったな。


三十五のとき、港の若手が海斗に声をかけた。

「浜崎さん、そろそろ船に乗りませんか? 俺らの親父が船頭やってて、人が足りないんです」


嬉しかった。

久しぶりに「釣り」以外のことで誰かが頼ってくれた気がした。


翌朝、船に乗り込んだ海斗の手は震えていた。

糸を垂らす手は熟練でも、網を引き上げる腕力はもう戻らなかった。

潮風に当たり、足を滑らせて甲板で膝を打った。


若手たちは笑顔で「大丈夫っすか!」と声をかけてくれた。

それが悔しかった。

あのころの「神童」には、こんな情けない姿など想像もできなかった。


仕事の後、船頭のじいさんに言われた。


「海斗、無理すんな。おまえは釣りだけしてろ。網は若いもんに任せとけ」


それを聞いて海斗は頷き、船を降りた。

帰り道、町の灯りがにじんで見えた。


三十七の夏。

堤防に立つ海斗の姿は、子供たちの間では少しした噂だった。


「昔すごかった人らしいよ」

「え、今は? なんであそこにいるの?」

「さあ……おじさん、釣りしかしないんだって」


海斗は、遠くの子供の声を聞いていた。

耳はまだ若かった。

だけど体はもう、竿を握る指さえ震えていた。


三十八の冬。

堤防の上に立った海斗の目の前を、何かが横切った。

それは、大きな鯛だった。

海斗が七歳のとき、最初に釣り上げたあの鯛のように、白波を切って跳ねた。


思わず叫びそうになったが、声は出なかった。


海斗は竿を振りかけて、やめた。

糸を巻き取って、静かにポケットにしまった。


「……もう、いいか」


吐く息は白く、港の街灯がぽつりぽつりとついていく。

浮きは海面に沈まず、ただ暗い水面に揺れていた。


次の日の朝、海斗の姿は堤防になかった。


港町の人たちは、誰も驚かなかった。

ただ一様に、「あの人は、海に帰ったんだろう」と言った。


それで、すべてが終わった。



港町の春は、波音とともにやってくる。

桜は早くに散って、堤防の先にはもう新しい釣り客の姿が並んでいた。


浜崎海斗の姿が、そこにない春は初めてだった。

誰も声には出さなかったが、誰もが知っていた。


「浜崎の海斗さん、どうしたんだ?」


「いや……もう、帰ってこんだろうな……」


大人たちは、うっすら笑ってそれ以上を言わなかった。


ある朝、小さな男の子が海を覗き込みながら父親に訊いた。


「おとうさん、ここで一番大きい魚を釣ったのはだれ?」


父親は少し考え、遠い目で波を見た。


「……昔な、この町に“釣りの神童”って呼ばれた子がいてな。そいつが、一番大きいのを釣ったんだよ」


「すごいね! いまは?」


「さあな。……いまも、どこかで釣ってるのかもしれん」


父親は子を抱き上げ、海の向こうを指差した。

穏やかな波の下で、海斗の面影はまだどこかで糸を垂れているような気がした。


港に吹く風はまだ冷たい。

しかし、海斗が愛した海は、何も変わらず青く光っていた。



浜崎海斗がいなくなってから、港町の人々の暮らしは何も変わらなかった。

漁師は沖に出て、子供たちは学校へ行き、堤防には休日ごとに釣り客が並んだ。

町の片隅にひっそり残された海斗の安アパートは、やがて新しい住人に貸し出され、誰も彼の部屋を覗こうともしなかった。


それでも、ほんのときどき、港の古い漁師や海斗を知る大人たちは語り合った。


「浜崎の海斗さん、あいつはほんとに魚が寄ってきたんだ」


「俺も子供の頃、横で釣らせてもらったよ。釣れなかったけどなぁ」


飲み屋でそんな話が出ると、隣の若い漁師が口を挟む。


「でも最後は、なんにも残さなかったんすよね?」


誰かが苦い顔をして、酒を煽って話題を変える。

神童の思い出は、いまや古い武勇伝か、笑い話のどちらかだった。


海斗の釣り道具は、母親が遠い親戚に引き取らせた。

もうサビだらけで使い物にならなかったが、親戚の子供が面白がって飾りにしたという。


海斗が長く座っていた堤防の石段は、少しだけ色が褪せている。

そこに腰掛ける人はいても、誰も彼のように夜明けから夜更けまで海を眺め続けはしなかった。


春の終わり、町の小さな釣り大会が開かれた。

子供たちが夢中で竿を握り、親が笑い声をあげる。

その輪の外れで、白髪交じりの古い漁師がポツリと呟いた。


「神童の坊も、こういう顔してたなぁ……」


大会が終わり、誰もいなくなった堤防に、小さな波音だけが残った。

海斗が見ていたのと同じ海が、誰にも答えずきらきらと揺れている。


もし今、どこかで海斗が釣り竿を垂らしているとしたら――

それはもう、誰のためでもなく、誰に見せるためでもなく。

ただ海と、自分だけのものだろう。


港町にはもう「神童」はいない。

けれど、この海だけは、ずっと彼の海のままだった。


それだけが、誰も知らない、静かな事実だった。




『神童の意思を継ぐもの』

海斗がいなくなって、何年かが過ぎた。

町は変わらず、海も変わらず、堤防だけが少し新しく整備されていた。


ある春の午後、ひとりの少年が堤防に腰を下ろした。

小学校のランドセルを脇に置き、慣れない手つきで小さな釣り竿を握っている。


「……全然、釣れないなぁ……」


少年の隣に座っていたのは、港の古い漁師だった。

白髪交じりのその人は、ぽつりと昔話を語り始めた。


「坊主、知っとるか。ここにはな、昔すげえ釣り名人がいたんだ。浜崎海斗っちゅう神童よ」


「じんどう?」


「神童――小さい頃から魚が寄ってきてな……大人になってもずーっとここで釣りよった」


少年は目を丸くして波を見た。


「じゃあ、その人、いまは?」


漁師は笑った。


「いま? いまもここいらの海を泳いどるんじゃないかの。釣りたい魚を連れてきてくれるかもしれんぞ」


少年は真剣な顔で竿を握り直した。


「じゃあ、ぼくもその人みたいになる! いっつもここで釣るんだ!」


その日、少年は結局一匹も釣れなかった。

だけど帰るとき、漁師はぽんと少年の肩を叩いた。


「お前さん、いつかあの人の続きをやってくれや」


「うん!」


港町の堤防には、今日も海斗の影が揺れている。

竿を握る小さな背中に、海斗の笑顔が重なるようだった。


海は誰にも答えない。

けれど、新しい「神童」をいつか許すかもしれない。


そして誰かがまた、海とだけ話をするだろう。


春の海風が頬を撫でる朝、港町の堤防にはひときわ小さな背中があった。


少年の名は浜崎湊はまさき みなと

浜崎海斗の血は引いていない。ただ偶然同じ「浜崎」の姓を持つだけの、釣りが好きな小学生だった。


「……今日は絶対釣るんだ」


湊は誰もいない堤防の先端に立つと、糸を垂らした。

小さな手でリールを巻くと、海の底から小さな波紋がふっと浮き上がる。


数年前、港の古い漁師に聞かされた「釣りの神童」の話が、湊の胸にはいつも灯っていた。

学校の友達はゲームや遊びに夢中だったが、湊は放課後になると、必ず海へ走った。


最初の頃は全く釣れなかった。

誰も教えてくれない。親も釣りはしない。

だけど湊は一人で、古い釣り雑誌を読んだり、港の漁師に頭を下げて餌の付け方を学んだ。


「……海斗さんみたいに、なれるかな」


独り言を海に溶かしても、波は何も答えない。

それでも浮きが静かに沈んだ瞬間、湊の胸はどこよりも熱かった。


町では誰もまだ彼を呼ばない。

ただの「釣りが好きな子供」。

だが港の大人たちは時折、あの小さな背中を遠目に見て、ぽつりと漏らす。


「……なんだか、あいつに似とるな」


遠い記憶に沈んだ「神童」という言葉が、少しずつ誰かの口から蘇り始めていた。


湊は知らない。

自分が、もう一度あの海に「釣りの神童」を生むかもしれないことを――


青い波が、小さく光を返した。



『第二の神童』 栄光と苦悩

浜崎湊は、港町でふたたび生まれた「釣りの神童」と呼ばれるようになった。

まだ中学生になる前に、港の誰もが驚くような大物を釣り上げたのだ。

その一匹のマグロは、地元のニュースに取り上げられ、SNSで瞬く間に拡散された。


「これが第二の神童だ!」

「浜崎海斗の生まれ変わりだ!」


町の人々は、口々にそう言って湊の肩を叩いた。

漁協は大会に呼び、釣具メーカーは写真を撮り、湊はいつの間にか周囲から押し上げられていた。


最初は楽しかった。

海斗の雑誌の切り抜きを探し、父でもない海斗の存在を遠い兄のように感じた。

「海斗さんの続きをやるんだ」

小さな心にそれだけを灯して、毎日海に立った。


だが「神童」と呼ばれるほどに、湊の釣りは孤独になっていった。

友達と遊ぶ時間はなくなり、家族との会話も減った。

誰かが教えようとする前に、「湊くんは特別だから」と大人たちは手を引いた。


「君ならもっと大物が釣れるよ」

「君にしかできないんだ」


期待だけが、湊の背中に重く積もった。


中学に上がると、湊はプロの釣り番組に招かれた。

海外遠征の話も来た。

学校に行かない日が増え、教師からも友達からも浮いていった。


「湊、おまえほんとにそれでいいの?」


久しぶりに会った幼馴染の言葉に、湊は答えられなかった。


十五の冬、テレビ番組での撮影中に湊は初めて魚を取り逃した。

狙っていた巨大なマグロは糸を切って海に消えた。


番組スタッフは苦笑いをして湊を慰めた。

SNSは酷かった。


「結局こいつも昔の神童と同じじゃないか」

「所詮子供の釣りバカ」


嘲笑のコメントを湊は夜の部屋で繰り返し読んだ。

布団をかぶっても、頭の奥で海斗の名前が響いていた。


――おれも、同じように、終わっていくのか?


港町の堤防は、あのころと同じ形で湊を迎えた。

久しぶりに一人で立つ堤防は、波の音だけが優しかった。


夜明けの冷たい潮風に吹かれながら、湊は小さく笑った。


「……海斗さん、どうしたらよかったんだろうな」


遠く、海が静かに光っていた。

神童の栄光も苦悩も、すべて呑み込むように。


湊は震える指で、もう一度竿を握った。



十五の冬を越えたころ、湊は釣りから少し離れた。

学校にも行かず、家に籠もり、海を見ない日々を初めて過ごした。


「もう、俺には無理だ」


雑誌の切り抜きも、釣り大会のトロフィーも、全部押し入れにしまった。

あのころ自分を「神童」と呼んだ大人たちは、今は遠巻きに笑うだけだった。


誰もいない部屋で、湊は思った。


――海斗さんも、こうだったんだろうな。


ある日、港の古い漁師が湊を訪ねてきた。

あのとき、初めて「神童」の話をしてくれた人だった。


「おまえさん、竿を握れんのか?」


湊は首を振った。

漁師は鼻で笑った。


「釣りしか知らん子供が、釣りを放り投げたら何が残るんじゃ」


湊は言葉に詰まった。

心の奥に、海斗の背中がまたちらついた。


「おまえさんは海斗じゃねえ。海斗の続きをやるのはおまえだろ」


漁師の声は厳しかったが、どこか優しかった。


春が来て、湊は堤防に戻った。

錆びたリールをオイルで磨き、釣り針を新しくした。


堤防には子供たちが集まっていた。

SNSで湊を見て憧れた、小さな釣り少年たちだった。


「みなとくん、教えて!」


湊は戸惑った。

けれど、海斗が誰にも教えなかったことを、自分は教えようと思った。


「いいよ。まずは糸の結び方からな」


小さな背中が、また少しずつ増えていった。


湊はもう「神童」ではない。

ただの釣りが好きな兄ちゃんだった。


だけどそれでよかった。

誰かに釣りの楽しさを伝えて、海の怖さも伝えて、失くさずに生きていく。


湊の後ろに立つ子供たちは、昔の自分だった。

そして、かつての海斗でもあった。


夕焼けの海が赤く染まる。


湊は笑った。

新しい糸が、波間に揺れた。


「……海斗さん、俺は俺の続きをやるよ」


波が静かに答えた気がした。


高校を出るころには、湊はもう「神童」とは呼ばれていなかった。

誰もそう呼ばなくてよかった。

湊自身も、その呼び名を必要としなかった。


湊は港町に残った。

漁師にはならなかったが、港の子供たちに釣りを教える小さな教室を開いた。

地元の漁協がそれを後押しし、古い倉庫を改装して「釣り学舎まなびや」と名付けた。


週末になると、親子連れが集まってきた。

釣り竿の選び方、餌の付け方、魚を無駄にしない方法――

湊は笑いながら何度も同じことを教えた。


「釣れなくてもいいんだよ。海を好きになってくれれば、それでいいんだ」


子供たちは湊を「先生」と呼んだ。

時々、「神童だったんだよね!」と冗談交じりに言われても、湊はもう笑って頷けた。


堤防には今も湊がいる。

しかし、彼の横には必ず誰かが座っている。

孤独ではない。

竿を握る手も、もう震えなかった。


ある年の夏、県外から取材が来た。

「第二の神童のその後を追う」という企画だった。


湊は取材に応じた。

小さな教室の子供たちと並んで笑う自分を、カメラが映す。


「神童なんて、大したもんじゃなかったですよ。

 でも、釣りはずっと好きです。

 子供たちが大人になっても、海を好きでいてくれたら、俺はそれで充分です。」


映像を見た町の古い漁師は、テレビの前で呟いた。


「……海斗が見たかったのは、こういう景色だったんじゃろうなぁ」


湊の教室は、今では町の名物になっている。

時折、かつての海斗を知る人がふらりと堤防に立ち寄っては、湊に手を振る。


「おう、湊! 今日は何が釣れとる?」


湊は笑って答える。


「秘密です! みんなにだけ教えますから!」


神童の影はもうどこにもない。

けれど、波の音は変わらない。


湊は今日もまた、子供たちと並んで糸を垂らしている。


青い海と、笑い声と、静かな波――

これが、浜崎湊の選んだ「神童の続きを生きない生き方」だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ