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海の見える町で、もう一度会えたら

作者: アサノクラ

「ニコか!?」


 まだ顔を洗ったばかりの朝早く。2ヶ月ぶりにドアをノックする音を聞き、主人の帰りを待ちわびていた飼い犬並みの勢いで扉を開ける。


「わっ! びっくりした…。えーと、集金でお伺いしました」

「あ、ああ…。すみません」


 そこにいたのは、ギョロっとした大きな瞳をパチクリさせる集金屋だった。不愛想な俺の態度を気にもかけず、にやけたような笑顔を見せる。


「エルさんの大きな声、初めて聞きましたよぉ。

 あの、ニコって…聖女ニコレッタ様のことですよね!? お知り合いだなんて、うらやましいなぁ」


「いや、別に…昔馴染みな、だけで……」


 なぜかテンションの高い集金屋とは裏腹に、湿っぽく口ごもる。根暗な自分に嫌気がさす。


 この貧民街出身の“聖女様”として有名なニコレッタは、みんなの憧れの的だ。

 それなのに、なぜか週に1度はこの小さくてみすぼらしい俺の家に遊びに来ていた。ただ幼馴染というだけなのに。

 他に友達はいないのかと聞くと、少し頬を膨らませて「エルと違って友達はいるけど、みんな忙しいんだ」と言っていた。確かに俺には友達はいないし、聖女様と違って暇ではあるが、失礼なやつだ。


 そういえばそのとき、「あんまり来ないほうがいい?」と聞かれたのを思い出す。

 俺は「ニコの好きにしたらいい」と、素直な気持ちを伝えた。聖女のニコレッタが俺のところに来るのはあまりよくないかもしれない、だが、わざわざ止めることでもない。そう思っていたからだ。

 俺の返事を聞いたニコレッタは少し眉をひそめ、無理やり口角を上げているような、何とも言えない表情をしていたような気がする。


 それが、なぜか急に顔を見せなくなって、いつの間にかもう2ヶ月が経つ。

 久しぶりに来たのかと勘違いしてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。好きにしたらいいなんて言って格好つけていたくせに、彼女が来ないことがこんなにも寂しいとは思っていなかった。


「ああ、間違えた。“()”聖女様、ですね。なんでも、最近聖女の力を失ったんだとか…残念ですねぇ」


 目をそむけて黙ったままの俺を無視して、噂話好きの集金屋は意気揚々と話し続ける。俺の長い前髪のせいで、目を逸らしているのにも気づいていないのかもしれない。


「エルさんは聖女の噂、知ってます?」


 聞いてもいないのに、特別に教えてあげると言わんばかりにジッと見てくる。何も知らない様子で戸惑う俺を見て、優越感を持っているのだろうか。

 答えない俺に我慢できなくなったのか、ヒソヒソ話をするように手を口元において話し出す。眉はひそめているが、口元のにやつきは抑えられていないことがわかる。


「なんでも、聖女の力を失った者は……教会から処分されるらしいですよぉ」

「!? なに…」


「他にも、ずっと教会に縛られてタダ働きさせられるとか、なんとか……。

 華やかに見える聖女様も、用無しになったらひどい目に遭うんですかねぇ」


 意味が分からない。

 理解が追い付かず固まる俺を見て満足気な顔が鼻につく。


「なーんて、ただの噂ですよ! それじゃあ」


 俺の反応を楽しむのにも飽きたのか、一方的に話し終わって去っていく。


 …なんて最悪な噂話だ。

 どうせ、噂好きの暇な平民が聖女を妬んで言い出したんだろう。

 そんなことがあるわけがない……そう頭ではわかっているが、姿を見せないニコレッタを思うと不安が募る。


 俺はなんであのとき、もっとニコレッタと話さなかったんだ――。



 **********



 2ヵ月前。

 いつも通り遊びに来ていたニコレッタは、古くなって動くたびにキィと音がする椅子にもたれかかり、いつも通りくつろいでいた。


 小屋のような狭い家の真ん中には、1卓の小さい机と2脚の椅子が置いてある。それ以外には家具はほとんどない。最初は机と椅子もなく、地べたに座って段ボールを机代わりにしていたほど、インテリアに興味を持つ余裕はなかった。

 でも、ニコレッタが遊びにきたときにからかわれて悔しくて。使い古された中古品だったが、俺なりに考えて選んで用意した。

 初めて机と椅子を見たニコレッタは、どんな表情をしていただろうか。


 それから、彼女が来るといつも、机をはさんで2人で向かい合って座るようになった。各々本を読んだり、うたた寝したり、落書きしたり…気ままに過ごしながら、たまに会話をする。その程度のことだったが、なぜかニコレッタはいつも楽しそうだった。


 キィ、と聞こえてふと彼女のほうに目をやると、オンボロ椅子に似つかわしくない綺麗な姿勢で座り直している。

 俺と目が合うと、真剣な顔で切り出した。


「エル。私ね…、もうすぐ聖女の力がなくなるの」

「え……」


 長いまつげで影ができた青色の瞳は、少しうるんでいる。

 いつものようなふざけた様子のないニコレッタを見て、にぶい俺でも冗談ではないのだと悟った。情けないことに、なんと返していいかわからず黙りこくってしまう。


 少しの間、沈黙が流れる。

 当惑している俺を見つめていたニコレッタは、コロッといつも通りの笑顔を向ける。


「ふふ。急に言われても困るよね」


 笑顔の彼女にホッとした俺は、ようやく言葉が出てくる。


「あ、いや…。ちょっと、驚いただけだよ。そんなこともあるんだな」

「すごく珍しいこと、みたい」


「……私…」

「でも、気楽になるしいいんじゃないか? やっぱりニコが“大聖女様”だなんて、似合わないしな」


 ニコレッタがいつも通り振る舞ってくれることに安堵して、なんとかいつも通りの自分を装う。

 自分の情けなさは置いておいて、彼女を励まそうとできるだけ明るく。俺なりに気遣いをした…つもりだったが、彼女の声を遮ってしまったかもしれない。


「…って悪い、何か言いかけてたか?」


 ――ニコレッタは俺の幼馴染で、貧しい平民が多く住んでいる地区で一緒に育った。

 幼いころは泣き虫で怖がりで。母親が異国出身とかで、瞳の色がこの国では見ない青色だったこともあり、いじめっ子に目を付けられていた。

 子どもながらに、いや、子どもだからこそヒーローにでも憧れていたのか。いじめられているニコレッタを助けたのが出会いだった。

 恐怖心からか、なかなか泣き止まないニコレッタを励ますために、恥ずかしいことも言ったような気がする。なんにせよ、それからは俺がいつもひっぱってやっていたんだ。

 だけど、6歳の頃。ニコレッタは急に“聖女の力”が開花して…いつの間にか俺とは別の世界の人間になっていた。


 ニコレッタの力は聖女の力を持つ者の中でも強大らしく、“大聖女”候補とまで言われていた。

 聖女として教育を受け、職務につき、立派になったニコレッタ。弱虫でいじめられっ子だったころの面影なんてない、明るく皆にやさしい聖女様になっていた。


 ニコレッタの活躍は自分のこと以上に嬉しかったし、応援をしていた。

 だけど……心の奥底では、彼女がまぶしかった。うらやましかった。


 彼女の活躍と反比例するように、俺は現実を知っていく。何かを成すこともなく、ヒーローになんてなれるはずもなく、この貧民街でただ生きているだけだった。


 何も持っていない俺なんて、もうかまう必要もないだろう。それなのに、ニコレッタは今も変わらず俺のところに来る。

 それはきっと嬉しいことのはずなのに。ひねくれた俺には情けをかけられているようで、正直悔しい気持ちもあったんだと思う。


 でも、彼女の聖女の力がなくなるのなら……もう一度、対等になれる気がする。

 最低なことに、俺は心配よりも嬉しさが勝り、彼女の気持ちなんて考えていなかった。


 そんな俺の心が見透かされたのかもしれない。

 ニコレッタは、開きかけた口を閉じてしまった。


「……ううん、なんでもない。

 そうだよね。私には大聖女様なんて、似合わないかぁ」


 眉尻がぐっと下がり、ハの字になりながら笑うニコレッタを見て、ズキンと胸が痛む。


「あ、いや、その…」


 素直に謝れず狼狽える俺には気づかず、ニコレッタはぽつりとつぶやいた。


「…でも、私は聖女になれてよかったって、思ってるんだ」


 微笑んでいるようにも、泣きそうなようにも見える表情だった。

 見たことのない神妙なニコレッタの様子に、俺は言葉に詰まってしまう。


 そんな俺を気にも留めず、パッと明るい声色でニカッと笑顔を向ける。意識的にスイッチを切り替えたかのようだった。


「なーんてね! ふふ。肩の荷がおりたってもんよ」

「あ、そうそう」


 すっかりいつもの調子に戻ったように見えるニコレッタは、カバンのなかをゴソゴソと探す。あまり出来がいいとは言えない、つたない作りの人形を取り出した。


「これね、私の宝物なの。私がはじめて聖女として治療した女の子がくれたんだ。

 手作りだって、かわいいよねぇ」


 優し気に微笑みながら人形を見つめる彼女に対し、ふーんと興味なさげに見る。人形の知識はまったくないが、なんとなくニコレッタに似ている気はする。

 少しの間人形を見つめていたニコレッタだったが、突然俺に差し出してくる。


「エルが持っててよ。私だと思って、大事にしてね!」


「は!? なんで俺が……」

「まぁまぁいいから!」


 俺に無理やり人形を押しつけ、立ち上がるニコレッタ。

 その拍子に鳴る、キィキィ悲鳴のような椅子の音がいつにもまして耳障りだった。


「…次会うときにでも返してよ。じゃあね!」

「あ、おい……!」


 ひらりと手を振り人形を残して帰っていくニコレッタの姿は、なぜか、寂しそうに見えた――。



 **********



「もっと、ちゃんと話を聞いていれば……。

 ニコは俺に、何か言いたかったんじゃないか」


 人形を握りしめ、あのときのニコレッタの表情を思い浮かべる。いつもと違う表情も、行動も、ニコレッタのSOSだったのかもしれない。


 今日はせっかくの休みだが、ニコレッタの来ない休日には、何の予定もなかった。


「――行く、か」


 キィッ。いつもより勢いのいい音がした。

 椅子から立ち上がり、教会へと向かう覚悟を決めた。



 **********



 聖女たちはみんな教会に住んでいる。職務をこなすだけでなく、教会で日々の生活を送っているのだ。

 教会に訪れるのは聖女を頼る貴族や富裕層の商売人など裕福な人間がほとんどで、それ以外は聖女の家族くらいだ。俺のような金のない平民が近寄ることはほとんどない。

 だからニコレッタが聖女になってからも、俺は一度も行ったことがなかった。それでも会えていたのは、ニコレッタが俺のもとに来てくれていたからだったんだと痛感する。


 平民だって教会に行ってはいけないわけではない。だけど、きっと嫌な目で見られるだろうと思うと恐ろしくなり、ただ避けていただけだった。

 聖女となったニコレッタがこの地区に戻ってくるときも、いろんな視線が集まっていたのかもしれない。羨望だけではない、俺のような小さい人間の妬み嫉みもないわけがない。想像はできたが、聖女のニコレッタにとっては気に留めることでもないんだろう、なんて勝手に決めつけていた。


 教会に近づくにつれて、着古して傷んだ生地の洋服を着ているような貧しい平民は見なくなる。猫背気味に周りをキョロキョロと見て自分と比べている俺と違い、堂々とした様子で歩く人々が行きかう。

 俺のことなんて、誰も気にも留めていなかった。俺にはそれが、余計に恥ずかしかった。


「ママ。怪我も治ったし、今度は海に行きたい!」

「あら。さっきまで泣いてたのに、すっかり元気ね。

 そうねぇ、海だとお泊まりが必要だから、パパに相談しましょうか」

「ぜったいだよ!」


 いかにもお坊ちゃまといった綺麗に揃えられた頭髪のハツラツとした子供と、上品に着飾った婦人の親子とすれ違う。聖女に治療をしてもらった帰りだろう。


「海が見たい」…そうニコレッタもよく言っていたことを思い出す。あまり頓着がなかった俺が興味なさそうにしていても、なにかと魅力を語っていた。聖女の研修で一度見れたらしい。

 そんなにいいものなんだろうか。海のことはわからないが、嬉しそうに話すニコレッタの青い瞳は美しく輝いていた。

 そんなことを思い出していると、教会付近に着いたことに気づく。


 教会という場所は近づくだけで、その立派さに気圧されそうになる。“高尚な人間のために存在しているのだ”と、威圧されているようだ。

 当然、中に入る勇気もなく、様子を窺うように教会の周囲をウロウロとさまよっていると、さすがに不審だったようだ。怪訝な表情の聖女に声をかけられる。


「…何かお困りですか?」


「あ、その…ニコは…。いや、ニコレッタ様、は…いませんか?」

「ニコレッタ…ああ、大聖女候補だった、あの子ね」


 ニコレッタの名前を聞いて、思い出すようにつぶやく。俺の恰好を見て、知り合いではないだろうと判断したのか。あっさりと告げてその場を去っていく。


「もうとっくにこの教会にはいませんよ。私はよく知りませんけど。それでは」

「え、それってどういう……」


 どういうことか、と聞こうとする俺の声はむなしく誰もいない空間に消えていく。

 教会には、いない。それは、つまり――。


 “教会から処分されるらしいですよぉ”


 集金屋のくだらない噂話を思い出す。ゾゾゾッと、感じたことのない悪寒がした。

 悪寒を振り払うように、肩から斜めにかけていたカバンをグシャっと握りつぶしていた。その拍子に、カバンからポロっと何かがこぼれ落ちたことに気づき、拾い上げる。ニコレッタがくれた人形だった。

 人形を持つ手に力が入る。

 “次会うときにでも返してよ”…そう、ニコレッタは言った。彼女は冗談は言っても、嘘を言う人間ではない。だから、ここ(教会)ではないどこかには、再び会える場所には、必ずいるはずなんだ。

 そう自分に言い聞かせた俺は、ニコレッタの居場所を知っている聖女がいないかと探し回る。

 猫背気味で、着古した生地の服装であることは変わりない。でももう、そんなことで卑屈になることも忘れていた。


 ニコレッタに、また会うんだ。



 **********



 どれくらいの時間が経っただろうか。明るく晴れやかだった青空も、いつの間にか赤く染まりだしている。

 聖女は多忙だと聞いていた通り、教会周辺には聖女はあまり見当たらない。仕事を邪魔するわけにもいかない。もう聞ける人はいないのか…と途方に暮れていたときだった。


「あの。ニコレッタのことを探していると伺ったのですが」

「! はい! 何か知ってるんですか!?」

「……失礼ですが、どういったご理由で……」


 声をかけてくれた聖女は、眉をひそめていた。あからさまに俺のことを怪しんでいるようだった。

 それはそうだ。みすぼらしい風貌の男が必死に、一人の聖女を探し回っている。何かしら疑うのが当たり前だ。

 見知らぬ聖女のあからさまな態度に、卑屈な感情を思い出す。恥ずかしさできっと真っ赤になっているだろう。ニコレッタに見られたらバカにされるに違いない。


 俺は無意識に、ニコレッタの人形を胸元に持っていき、ギュっと握りしめていた。お守りとしてすがるように。


「あら、それ」


 人形を目にした聖女は目を丸くして、俺の顔を見やる。


「もしかして、貴方は……。名前をお聞きしても?」

「! はい。エル、といいます。

 信じてもらえないかも、しれないけど…。ニコレッタの幼馴染なんです」


 見定めるような様子でジロジロと見られ、下を向く。ああ、余計なことは言わないほうがよかったかもしれない。そんなに疑わないでくれ。本当なんだ。

 さっきまでの勢いはどこに消えたのか。目線に耐え切れず自分から立ち去ろうとした、そのとき。


「本当に、存在したんですねぇ」


 驚くような聖女の声が聞こえてきて、俺はさらに驚くような声とともに顔を上げる。


「へ!?」

「あら、失礼だったかしら。ごめんなさい。ちょっと待っていてくださいね」


 聖女が何を言っているのかよくわからないまま、他にできることもないので素直に待つことにする。

 …恐ろしいボディーガードでも連れてこられたらどうしようか。くだらないことを考えていると、手に何かを持った聖女が一人で戻ってきて、安堵する。


「ニコからです」


 聖女が持っていたのは、手紙だった。

 “エルへ” そう見覚えのある字で書かれた封筒を渡される。


「先程は失礼しました。私、ニコの先輩で、彼女とは仲良かったんですよ」


 先程までの訝し気な表情は消え、優しく微笑む。こうして見ると穏やかそうな、いかにも“聖女様”らしい人だ。


「…ニコから、“宝物の人形を幼馴染に渡したんだ。その人は絶対に来ないと思うけど、もしも、もしも教会に来たらそのときに渡してほしい”…って。この手紙を預かっていました。

 でも、手紙だって届けることもできるのに、どうしてかなって気になってて。

 結局誰も来ないし、あの子の口ぶりから、本当は存在しない空想の人物なのかと思い始めてたんですよ」


 手紙を握りジッと見つめる俺に、柔らかい声色で説明してくれる。彼女の物言いや表情から、ニコレッタと親しかったのだと伝わってくる。


「あの、ニコは今、どこに……」

「私からは、何も言えないんです。ごめんなさいね」


 何とも言えない寂しそうな表情を見て、それ以上は彼女には聞かないことに決めた。

 ニコレッタの手がかりをもらったのに、お礼も何もできない。代わりにもならないだろうが、深く、丁寧に頭を下げて、精一杯感謝を伝える。


「いいえ、十分です。ありがとうございます」


 彼女が俺のことをどう受け取ってくれたかはわからないが、やんわりと口角を上げて目尻を細め、手を顔の横で上品に振りながら見送ってくれた。

 妹を想う、優しい姉のような笑顔に見えた。



 **********



 一人、家の真ん中でいつもの椅子に座っている。手紙を読み終えた俺は、誰に見られているわけでもないのに、誰にも知られないように慌てて目元を拭う。


「バカだな、ニコは。

 ……俺は、もっと大バカだけど」


 いなくなるまで、自分の気持ちに気づかないなんて。当たり前のように傍にいてくれた彼女を想うと、また目元に水が貯まる。


 貯金はどれくらいあっただろうか。いや、旅をしながらでも生きていく手段はある。どうせ、貧しい一人暮らしだったんだ。

 ニコレッタが来ないのであれば、ここで生きていく意味も理由も、ない。


 もしかしたら、気味悪がられるかもしれない。迷惑かもしれない。

 それでも、もう一度会いたい。俺だって、言いたいことがあるんだ。


「ぜったいに見つけて、人形を返してやるからな」


 呟き、体にグッと力をこめる。キィッと、背中を押す音が聞こえた気がした。



 **********

 **********



 エルへ


 って言っても、きっとエルが読むことはないんだろうなぁ。

 でも、もしかしたらもしかするかもしれないから、手紙を書きました。


 この前伝えた通り、私は聖女の力を失うんだって。

 泣き虫で何もできなかった私が聖女としてみんなの力になれるなんて、

 って嬉しかったんだけど、期間限定だったみたい。

 正直に言うと残念で寂しいけど、それも私らしいのかもね。


 エルは、私が聖女なんて似合わないって言いながら、なんだかんだ応援してくれてたよね。

 実はね、しんどいこともたくさんあったんだ。格好悪くて言えなかったけど。

 それでもこの10年間、聖女として頑張ってこれたのはエルのおかげ。


 そうそう、この貧民街をエルは嫌っていたけど、私はそうでもないんだ。

 もちろん嫌な思い出もあるよ。

 物心つく前に捨てられて、ほとんど覚えてもいないママの血を受け継いだせいで

 みんなと目の色が違うからっていじめられたことは、今でも思い出すと悲しくなる。


 でも、だからこそエルと出会えた。

 あのときエルが助けてくれて、私を仲間にしてくれたこと、本当に嬉しかった。

 エルは覚えてないかもしれないけど、「一生守ってやる」って言ってくれたんだから。

 その言葉のおかげで1人じゃないって思えて、強くなれたんだよ。


 私にとって、あれからずっとエルはヒーローなんだ。

 エルは「昔とはもう違うんだ」ってよく言ってたけど、

 たしかに変わったこともあるのかもしれないけど、それでも私にとっては、ヒーロー。


 出会ったときのことも、それから一緒に過ごした日のことも、ぜーんぶ大切な思い出。

 ぜっっったいに忘れない!!


 そう思ってたんだけど…ごめん。長くなっちゃったね。

 この手紙で伝えたかったことは、これからの私のことなんだ。


 私はもうすぐ、今までの記憶を失います。


 嘘みたいだけど、本当なの。

 聖女の力を失うことは本当に滅多にないことで、聖女機関でも公表されていないことなんだけど…。 

 (だから内緒にしてね!)

 聖女の力をなくすときに、同時にそれまでの記憶もなくなるんだって。

 だから、周囲の混乱を防ぐためにもってことで、この町を出ることになったんだ。


 本当は、最後に会ったときに伝えようと思ってたんだけど、うまく伝えられそうになくて…

 ううん。伝えるのが怖くなって、逃げちゃった。ごめんね。


 と、いうわけで! 私は今頃、新しい場所で新しいニコレッタとして生きています。

 ずっと憧れてた場所だから、きっと楽しく過ごしてると思う!

 だから、心配しないでね。って、エルは私がいなくても大丈夫だよね!

 あの人形も、押し付けちゃったけど…捨てずに持っててくれたら嬉しいなぁ。


 どうせ消えちゃう気持ちだし、勇気がなくて伝えられなかったけど…

 もしエルが、少しでも私のことを気にしてくれて、この手紙を読んでくれたのなら。


 “この場所で生きていたニコレッタ”との思い出と一緒に、

 この気持ちを、エルの記憶の片隅に残してもらえたらいいな。




 エルのことが、大好き!!!  


 ニコレッタ



 **********



「ふふ。またこの人とのこと書いてる」


 分厚い1冊のノートを開き、以前の自分が書いたと思われる日記を読む。その日の出来事の内容よりも、自分がどう思ったとか、その日のテンション感をそのまま書いただけ、という文章がほとんどだ。

 書かれている内容の記憶はもちろん、書いた記憶もないけど。それでも、なんだか私らしいな、とわかる。


 この町に来てもう半年以上は経っただろうか。聖女の力を持っていたらしい私は、力をなくす、つまり記憶をなくす1週間前にここに引っ越してきていた。

 だから、私にとってはここでの暮らしが人生ではじめての気持ちで、毎日が新鮮だ。最初は不安もあったけど、記憶をなくす前にたくさんのメモを残してくれていたおかげで、普通に生活ができている。


 記憶をなくす前の私は、どれだけ寂しかっただろうか。怖かっただろうか。それを思うと胸が締め付けられる。

 でもメモに記されたメッセージから、私が前向きに生きることだけを考えていたことが伝わってきて。新しい思い出をたくさん作って、人生を楽しもうと決めた。


 聖女機関からは十分な報酬はもらっていたみたいだけど、なんだか自分のお金じゃないみたいな気がして、好きに使うのも気が引ける。だから、すぐに仕事を見つけて、忙しい毎日を過ごしている。


 以前の私が残したものは、メモとお金以外には少しの家具と、この大量の日記だ。

 あまり広くはないけど住みやすい部屋の一角に積まれたノートたち。日記を書くのは私の昔からの趣味だったらしい。

 こうして、自分の過去を知ることができるなんて。記憶をなくすとは思ってもなかっただろうけど、いい趣味を持っていた過去の自分を褒めてあげたい。


 聖女になって文字を書くのを覚えてから毎日書いているから、たぶん10年分近くはある。なかには、もっと子供のころの出来事を思い返して、思い出を綴っているものまであった。


 毎日、順番を気にせずになんとなくノートを手に取る。それを少しずつ読んでいくのが楽しみになっていた。自分のことなんだろうけど、小説でも読んでいる気分だ。


「もう。人形を押し付けるなんて、強引だなぁ。でも、本当にこの人のことが好きだったのね、私」


「……やばっ、そろそろ行かなきゃ!」


 ノートにしおりを挟んで閉じ、急いで立ち上がる。キィ、と小さく椅子が鳴った。


「結構お金はあるのに、なんでこんな古びた椅子を選んだんだろ。

 なんか私も愛着わいちゃったから捨てられないし。…いつか日記でわかるかなぁ?」


 そう思うと少し楽しみになってくる。おかげでなんだか今日はいい日になりそうだな、そんな気持ちで職場に向かう。


 今の私は、海辺が見える商店街のお店で店員として雇ってもらっている。

 前に住んでいたところには海がなかったみたいで、昔の私はずっと海に憧れていたらしい。記憶を失っても趣味嗜好は変わらなかったようで、私も海を一目で気に入った。前の私のおかげで、素敵な場所に住めていることに感謝だ。


 商品棚の前にしゃがみこんで作業をしていると、後ろからお客さんの声が聞こえてくる。


「あの、すみません。この辺に」

「はい! なんでしょう」


 すぐに答えようと、顔を上げながら返答する。まずい、最後まで話を聞かずにお客さんの言葉を遮ってしまった。


「青い瞳の、女性、は………」


 前髪の長い男性のお客さんは、口を開けたまま言葉が途中で止まってしまう。前髪の隙間から見える目は見開かれ、そのまま固まってしまった。

 話を遮って怒らせてしまったのだろうか。そう不安に思ったのもつかの間、お客さんの目は次第に涙ぐんでいく。


「え、あの……?」


 戸惑う私から、必死で涙を隠すように目をゴシゴシとこする。こすったせいで真っ赤になった目が、まるで愛しいものを見るときのように、優しく細められる。

 その目がとらえているのは、私だ。


「久しぶり。……いや、はじめまして。

 なのに変だと思うけど、渡したいものがあるんだ」


 そう言って差し出された人形は、どこか私に似ている。そんな気がした。

お読みいただきありがとうございました。

よろしければブックマークや評価、ご感想などの応援をいただけますと大変嬉しいです。



男主人公の物語が書きたくて挑戦しました。

再会した2人ですが、ニコにとっては初対面なので、きっとこの後はお互いぎこちないんだろうな…エル頑張れ!…と思っています。

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― 新着の感想 ―
2人が会えて良かった。 記憶が無くても、2人で少しづつ寄り添えていけたら良いなぁと思いました。
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