番外編:三好健児
此方のエピソードは本編を補完する内容の物と成っております。
読まずとも本筋は問題なく読み進めていける様には成っていますが、これを読んで頂けると物語に更なる重みと深さが生まれると考えております。
一つ独立した物語の様に成っておりますので、どうか楽しんで読んで頂けると嬉しいです。
『三好、貴様また敵に情けを掛けたらしいな』
夕点呼の後。なぜか俺一人を呼出し兵舎を出た分隊長は、真っ暗な夜道の中余りにも平たい声でそう言った。
その人間的な物が一切合切削がれた声に、俺は反論も陳謝も返すことが出来ない。そして何故か、いつもなら口籠れば即飛んでくる筈の鉄拳制裁が、今日は鳴りを潜めていた。
それが返って、俺は一層震え上がりそうな程怖かったのである。
『お前のその臆病根性を今日こそ叩き直してやる。……これで、 あの敵の腹を突け』
暗闇の中をしばらく歩き捕虜収容所の裏まで来た所で、分隊長は銃剣をこちらに押し付けながらそう言った。
だが、その言葉の意味が俺には分からなかった。何故なら分隊長が指差す暗闇の先には、お腹を大きくした女性しか居ないのだから。
女は敵じゃない。それもビクビク震えて立っている事すら辛そうな妊婦なんて、何で銃剣で突き刺さなきゃならないんだ。
ドガ″″ッ!!!!
『ぼさっとするなァ″ッ″″!! さっさと言われた通りやらんか馬鹿者が!!!!』
さっきまで気味が悪いほど静かだったのに、今度は唯聞き返しただけで鉄拳が飛んだ。
鼻血が出て歯も折れたが、痛みは滲んでいて良く分からなかった。この世には痛みを凌駕する恐怖が有るという事を、この時俺は初めて知った。
『今日、佐藤が死んだな』
鼻と口元を押さえ蹲る俺の前へと屈み、分隊長は今まで聞いた事のない声で亡くなった戦友の名を呼んだ。
『佐藤とワシは同郷でな、まだ歯も生え揃わぬガキの頃から知っておる。駐屯地へと向かう汽車へ乗せるとき、あいつの母親から如何か面倒を見てやってくれと頭を下げられた物じゃ。 しかしそれが今日、頭を弾丸で撃ち抜かれポックリと逝ってしもうた』
淡々と話を進める分隊長の顔は、暗闇に沈んでいてどんな表情をしているのか見えない。だがしかし、そのボンヤリとした影から聞こえる声は、何処か浮世離れしている様に感じられた。
それがまた恐ろしくて、俺は唯黙って見上げ続ける事しか出来ない。
するとそんな分隊長の声が現実に意識が戻ってきたかの如く、急に明瞭と成ったのである。
『皆の前では、何処から飛んで来た弾丸かも分からんと言うたがな…………弾は背後から飛んできておった。覚えがあろう? 無いとは言わせん。貴様がッ、死んだフリをしておけと言った敵兵の方角からじゃ″!!』
その分隊長の話を聞いて、俺は一層恐ろしく成った。全身がブルブルブルブルと震えて止まらなく成った。
『 三好貴様、地獄に落ちて佐藤に詫びよ。お前の甘さが仲間を殺したのだ、その罰として魂を捨てろ! 貴様は佐藤の代わりに敵兵を殺しッ、誰よりも人を殺してッ国がために手を汚し、地獄の一番深き所まで落ちねばならんッ!! その覚悟を示せと言っておるのだ″!!!!!!』
俺は泣いた、ボロボロと大粒の涙を流して泣いた。そして情けもなく分隊長の足に縋って頼んだ。
他の事なら何でもする、だがこれだけはどうか勘弁して下さいと。俺の家にも腹に赤ん坊抱えた母が居るのですと。
しかし、そんな俺の顔を蹴飛ばして、分隊長は背後に立った。
『殺せ三好″!! さもなくばワシは貴様を信用できん、信用できん部下はワシがこの手で撃ち殺さねばならんッ!! お前を生かすにはこれ以外に手立ては無いのだ…ッ!!』
そう言われ背中に銃口を突き付けられて、俺は等々恐ろしくて失禁した。
分隊長の声には一切冗談の雰囲気が含まれていない。逆らえば本気で殺されると分かった。
後になって振り返れば、自分はここで死んでおくべきだったと思う。分隊長に心臓を撃ち抜いて貰えていたならば、今よりどれ程楽だったろうか。
『……………………………………………ッ う″あ″あ″あ″″あ″″あ″″あ″″あ″″″あ″″″!!!!!!!!!!』
だが俺は臆病で、二つの命より一つの命を選んだ。そしてその罪悪感から逃れる為自分を狂人だと思い込もうとして、自分の手を汚せるだけ汚し尽くしたのである。
だから、そんな臆病者で自分勝手な俺には、やはりこの地獄の底がお似合いだったのだろう。
彼は、ずっと逃げてきたのだ。
自分の犯した罪から。自分の臆病さから。自分の罪を叱咤する人間的な部分から。
女子供を計23人殺し、自らの嫁と子供すらもその手に掛けた狂人三好健二。彼は今も、無間地獄にて永遠の責苦を受け続けている。




