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夏の暑さがしつこく残り、残暑にもいい加減嫌気がさしてため息が漏れる。
そんな日々を過ごしながらようやく肌を撫でる風に心地よさを感じ始めた10月。
僕は今日も机で一人、退屈な授業をBGMに、ノートにつらつらと文字を書き綴っていた。
僕の名前は城之内彰。
兵庫県にある明石西高等学校に通う、類い稀なき才能を持つ高校一年生の男子だ。
何の才能かって?
それは小説を書くという才能だ。
僕の書いた小説で、後々日本中が涙し、時に笑い、時に温かい気持ちになるはずだ。
そんな未来を実現するために、日々授業の話もそこそこに、毎日物語を紡いでいる。
そして普段から周りの様々なものに目を向け、ネタ探しにも余念がない。
物語を書くに当たって様々な経験、その一つ一つが糧となる。
知的好奇心。
そう言ってしまえば簡単なように聞こえるが、なんにでも興味を持つということはそれだけで才能だ。
誰かの言葉、書物の一説。周りの景色、日常のありふれた風景。
その全てに物語のピースとなるべき何かが潜んでいるような気がして、僕は毎日気が気じゃないんだ。
そんなことばかりを考えているものだから、いつもそれ以外のことは手につかない。
きっと僕は、文字を紡ぐことに恋をしているんだ。
「……のうちくん。……城之内くん!」
「……?」
そんな僕の心の呟きを遮るように、声をかけてくる者がいた。
僕はかけている眼鏡をくいとやり、声を荒げるその少女を一瞥すると、視線をすぐに前へと戻した。
「ちょ……ちょっと!? 無視!?」
彼女は宝条美咲という僕のクラスメート。
美しく咲く宝などという名前は本当にかわいそうだと言わざるをえない。
ルックスもスタイルも平凡。
地味過ぎるわけでもなく、派手すぎるわけでもない。
長く、背中まで届く黒髪は艶やかで一定の女性らしさはあるものの、男心をくすぐる要素は特にないように思える。
成績は詳しくは知らないが、試験結果で上位に名を連ねる僕の周りに名前が掲示されているのは見たことがないため大したことはないだろう。
特に何の特筆すべきこともない女子生徒だ。
まあここまでくれば、最早それ事態が何かの才能かもしれないが。
「ちょっと城之内くん! 何で無視するのよ」
宝条は更に声を荒げ僕に詰めよってきた。
かなり近くに来たため彼女の長い髪が一瞬僕の頬を撫でる。その拍子にいっちょ前にフローラルな香りが鼻腔を擽り、胸がざわついた気がしたが、すぐに心に凪ぎが訪れる。
やれやれ。ちょっと返答しなかったくらいでうるさい女だ。
「聞こえてるよ。一体なんだい?」
僕は少し顔を傾け宝条の顔へと視線を移した。
彼女は先程の荒ぶった語気ほどは怒っていないようだった。コバルトブルーの瞳はフラットな感情を讃えていた。
「なんだいって……今日城之内くん日直だから。私と」
「日直?」
「そうよ……って初めてでもないでしょーに。黒板消すの手伝ってよね。高いところ。私届かないもの」
僕は宝条と違って背が高い。185センチあるのだ。クラスでは一番なので何もしなくても目立ってしまうのだ。
自慢じゃないがルックスもそこそこで、授業も大して聞いていないのに、勉強もできるもんだから、きっと女子の間でもさぞかし人気があるんじゃなかろうかも思っている。
そんな宝条は自分の身長が低いのを盾に僕に絡みにきたようだ。
せっかくの同じ日直なのだし、僕と仲を深めるのには絶好の機会なのだからね。
そんな事を思いながら僕は宝条の顔をまじまじと見た。
立っている宝条と座っている僕の顔がほとんど同じ位置にある。
彼女は少しぎょっとしたように僕を見て数センチ後ろに下がった。
「さて。問題だ」
「え? は? な、何よいきなり?」
唐突な僕の言葉に明らかに同様動揺している。
全く、御しやすい女だ。
「宝条は高いところに手が届かない。どうすれば届くようになるでしょうか?」
「……は? な、なんなの? だからあなたに頼んでるんだけど?」
僕の突然の問い掛けに疑問符を頭の上に浮かべる宝条に向かって大仰にため息を吐いた。
宝条の体がそれに合わせてぴくんと動く。
「宝条、そんな事は自分でなんとかしてくれ。黒板の高いところの文字を消すなんてこと、椅子でも使えばどうにか出来ることだろう? だけどね、僕は忙しいんだ。僕は今物語を生み出している最中なんだよ。これは僕にしか出来ないことだ。邪魔しないでくれないか」
「は……はあ? あなた、なんなの? 物語? って小説を書いてるってこと? でも、日直が」
戸惑う宝条を見て、僕は不意にあることを思いついた。
それはとてもいいことのように思えて、すごく胸が踊った。
そうなったらやらない手はない。
僕はほくそ笑みながらそのまま立ち上がり彼女を見下ろす。そして一度眼鏡に手をかける。
彼女には出来るだけ冷淡な目を向けて、淡々と言葉を紡いでいった。
「ふふ……どうだっていいだろう? 僕に構わないでくれ。僕はね、実は前から君のことが気に入らなかったんだよ。正直今一緒に話していることさえ苦痛なんだ。頼むからあっちへいってくれないか」
「……」
凄む僕に彼女はぽかんと口を開けて僕を見上げていた。
ククク……。急に異性からこんな事を言われれば、大抵の女はビビって何も言えなくなるだろう。
僕は何故かこの女を凄くからかいたいと思ってしまったのだ。
この平凡で能天気そうな女をびびらせて追い払ってしまいたいと。そんな事を考えたのだ。
このまま彼女が目の前からいなくなれば日直の仕事も押し付けられる。一石二鳥だと思ってしまったのだ。
それに、彼女の反応が、小説のネタになるかもしれない。
貪欲にそんな事も思ってしまっている。我ながら、いい考えだ。
別に目の前の女一人に嫌われたってどうということはない。それが物書きとしての糧となるのならば安いものだ。
さあ、早くいなくなってしまえ。
心の中でニヤけた笑みを浮かべながら依然として宝条を睨み付けていた。
だが以外にも彼女は特に臆した様子はない。
それどころかじーっと不思議そうに僕の顔を見ていたのだ。
「ふ~ん……そうなんだ? でも何で? あなた、私のことなんて何も知らないじゃない?」
ほう。
私は彼女の返答に少し嬉しくなった。
思いの外物怖じしない奴だ。中々面白いじゃないか。
もう少しからかってやろう。
「君みたいな平凡な女と一緒にいると、僕まで平凡になってしまいそうなんだよ。僕の想像力を掻き立てる時間を奪わないでもらえるかな。とにかく早くどこかへ行けよ」
そうして彼女の肩に力を加え、とんと後ろに押してやった。
彼女はふらつきたたらを踏む。後ろの机にお尻が当たってガチャリと無機質な音を立てた。
普通なら腹を立てるだろう。そう思ってやった。
ここまでされれぱどこかへ行ってしまうに違いない。
そう思ったが、宝条は思いの外静かに僕を見つめていた。
体勢を崩したことも何とも思っていないような瞳で僕を見つめ、やがて苦笑したように顔を歪ませた。
「そっかあ。そういうことかあ。……よく言われるわ~。私何やっても平均的でさ、月並みなんだよね~。つまんないっていうかさ。仲いい友達もあんまいないんだ。あ、別にあたしはそんなの気にしてないけどね? まあそういうことはっきり言ってくる人はあんまりいないんだけどさ。なんかそういうのって口で言われなくても伝わるんだよね」
そう言い宝条は短いため息を吐いた。
だが特に傷つくとか、嫌だとか。そういった反応ではなく、僕の言葉を素直に受け取ったようだった。
「まあいーわ。あんたみたいな物事はっきり言ってくれる人私嫌いじゃないわよ。あ……って私、嫌われてるんだっけ? そんな人に嫌いじゃないとか言われても嬉しくも何ともないよね。とにかく分かった。やりたいことがあんならやればいいじゃない。黒板消すくらい一人でもやるわよ。じゃーね」
そう言って宝条は踵を返し、黒板の方へと戻って言ってしまった。
結局思っていた方向とは違った形だったが、目的は果たせた。
でも何だか釈然としない。まああんな悲観的な女、どうでもいいんだが。
僕は机に座り直し、椅子に乗って黒板の白い字を一生懸命消している宝条をちらと横目で眺めていた。