猫王女と鼠王子の危険な婚約
サバンナの端、セレンゲティ川のほとりに立つ古城ンドラの格式高い謁見の間に重々しい声が響く。
「二日後、この城の聖堂でアルドゥハイ神の前に、両者の婚約を結ぶ」
灰色の髪の風格ある男性、狼公ハサニ・ムウィトゥから紹介され初顔合わせをした婚約者たちは、非常に対照的だった。
猫の王女ニェリ・マルキアは臆することなく堂々と婚約相手を観察し、鼠の王子アユブ・キパニャは全身の震えを必死で堪えていた。
猫族側は細身の敏捷そうな女性が並び、鼠族側は小柄な青年たちが顔を引きつらせている。狼公は満足げに頷き、背後にいる者に告げた。
「婚約式までお二方の世話を頼むぞ」
イボイノシシとコウモリの一族を代表する者が進み出て、二人にお辞儀をした。
「何なりと仰せつけください。それではご歓談を」
仲介者たちはさっさと退散し、部屋に二人きりで残されると悟ったアユブは助けを求めるように仲間を見た。しかし、側近たちは一様に見て見ぬ振りを貫き退出してしまった。
扉が閉まる音を最後に、広い部屋は沈黙が続いた。面白そうに自分を見下ろす猫の王女を、 アユブはおっかなびっくり見つめた。
褐色の肌に赤毛。金色の目は大きく目尻がつり上がっている。そのいでたちは腰から下は細身の巻きスカート、上半身は胸に光沢のある布を巻き、端を右肩から垂らしていた。腕や腹がむき出しになった奇抜に思える衣装だが、原色に金糸の刺繍がされた布地は豪華で彼女によく似合っていた。
半ズボンに裾の長い上着という典型的な宮廷服を着たアユブは、自分の姿が窓ガラスに映るのをちらりと見た。小柄と言うより寸足らずな体型では道化にしか見えないのではと内心溜め息をつく。
顔を上げた彼は、目の前にニェリ王女の顔があるのに驚き後ずさった。自らの腰までもない相手に屈み込んだ王女は笑い、珍しそうにアユブの髪に触れた。
「変わった毛色。手のひらに乗るような婿君が来るのかと思ったけど、モルモット王国の者は思ったより大きいのか」
白、黒、茶の三色に色別れした髪を、アユブは片手で押さえた。
「こ、これは、王国では珍しくない色で……、二色か単色の者がほとんどだけど……」
よりによって自分が猫の王女と婚約する羽目になったのもこの毛色のせいだったと、アユブは忌々しく回想した。鼠族の例に漏れず子沢山な父王はこの婚約話を打診され断れないと知った時、真っ先にアユブの三毛を思い出してしまったのだ。
間近にあるニェリの金色の瞳が鋭く輝き、反射的にアユブはびくりとした。猫の王女は長い指で鼠の王子の顎を掴み、しげしげと眺めた。
「まあ、一口で終わってしまうよりはいいかもね」
その目は楽しげに細められ、桃色の舌がちろりと赤い唇を舐める。アユブは限界だった。
「わーーーーー!!!」
悲鳴と共に王子の姿が一変した。ヒト形をとっていた身体はふさふさとした白黒茶の被毛に覆われ、短い四本の足で部屋の隅に全速退避する。
ニェリは金色の目を瞠り、真体になったアユブに近寄ろうとした。三毛のモルモットは思いも寄らないほど機敏に彼女の側をすり抜け、廊下に遁走した。
抜け殻のような宮廷服を拾い上げ、猫の王女は婚約者に向けて警告した。
「命が惜しいなら不要不急の外出は控えなさい。うちの子たちの爪に引っかけられても知らないから」
返答はなく、小さな足音だけを残してアユブは敵前逃亡してしまった。
くすくすと笑うニェリに、呆れ声で侍女が呼びかけた。
「早速逃げられたのですね、姫様」
「人聞きの悪いことを。親切に逃がしてやったのに。まったく、あんな無力な者を寄越すなんて、森林派は何を考えているのやら」
「例の話の手がかりをずっと調査しておりますが…」
悔しそうな侍女に王女は笑いかけた。
「簡単にボロを出してくれないさ。焦るな、アヤナ」
深々と頭を下げ、黒髪の侍女は告げた。
「ハシナはこの城を、カミリは城下を、ネアは来客を探っております」
鷹揚な仕草で頷くと、猫の王女は赤い髪を掻き上げた。
「いずれ、何らかの動きがあるはず。出来れば無関係な者を巻き込みたくないけど…」
彼女の目は小さな婚約者が消えた廊下に向けられていた。
モルモット王国の王子側近たちが待機する部屋に、三毛の小動物が飛び込んできた。
「王子?」
「アユブ様?」
「大丈夫ですか、殿下」
ぷるぷると震えるモルモットに毛布を掛けてやると多少落ち着いたのか姿が変化した。真体からヒトと呼ばれる二足歩行動物の形を取ったアユブはぼそりと呟いた。
「……無理」
周囲のやっぱりと言いたげな視線を集めながら、王子は本格的にキレ始めた。
「無理無理無理無理無理ーーーーー!!!! だって猫だよ? 彼女猫なんだよ? あれって僕のこと婚約者じゃなくて餌としか見てないよね? 何で僕なんだよ、モルモットなんだよ! 大きさで言えばヌートリア公国やカピバラ王朝の方が釣り合うじゃないか! 父上は僕が食い殺されてもいいんだ! あの猫に食べられたら呪ってやる、恨んでやる、化けて出てやる! びぃぃぃぃぃぃ~~~~~~~!!!!!!」
わめき散らした挙げ句に泣き叫ぶ狂騒状態に側近たちは持て余し気味だった。中の一人、濃褐色の肌と黒髪を持つ青年が仕方ないと提案した。
「…取りあえず、静かにさせていいっスか?」
側近たちは視線を交わし、王子の乳兄弟ハキに任せることにした。彼はアユブに歩み寄った。その後、鈍い音がして泣き声がやんだ。毛布ごと王子を引きずりながら、ハキが何事もなかったように言った。
「じゃ、寝かしつけてきますんで」
「頼む」
ようやく静かになった控え室で側近たちは顔を見合わせた。リーダー格のサヘルが白い髪を揺らせて溜め息をついた。
「二人きりになって五分も経たずに真体晒して逃げ帰るとは、まさかと言うか予想どおりと言うか……」
この世界の住民は普段は「ヒト」形をしているが、強い衝撃を受けたり戦闘態勢に入ると真体に移行する。真体は一族の真祖の加護によるもので、それぞれの種族によって異なる。
「陛下が適当な人選をなさるからだろう。王子だけでも……何人いたかな」
「正確な数を把握している者などいるんですか?」
「言うな、我々のような非力な一族が生きながらえてきたのは旺盛な繁殖力のおかげなのだから」
側近たちが薄ら寒い笑顔を浮かべた時、ハキが戻ってきた。
「ぐずぐずしながら寝ちゃいましたよ。って、どうしたんスか?」
「どうやったら殿下が婚約式まで生き延びられるかを考えていた」
護衛役の大柄な(モルモット比)ヤジドが難しいい顔で唸ると、ハキはあっさりと答えた。
「あー、難しいっスね。今もこの城に続々と集まってる連中、どいつもこいつも覇権握りたくてウズウズしてる奴らばかりじゃないっスか。ウチのような森林派の隅っこで生き延びてきたのなんて一つもいやしない」
そう言ってハキは窓の外に顔を向けた。ンドラ城の広い庭園には続々と荷役獣に曳かせたワゴンが到着し設営していた。ワゴンは乗る種族によって様々な大きさと仕様になっており、羆大公のものなどは大型荷役獣四頭立てという巨大さだ。
庭園から室内に顔を戻し、今回の婚約式の折衝にあたってきたトゥマイイが疑わしげに言った。
「猫族はともかく、何で鼠族にこの話が回ってきたのかが納得いきませんが、引き受けたからには婚約式は無事に終えてもらわなければ」
その場の全員が無言で頷く。策略家のトゥマイイは続けた。
「つまり、式さえ終えれば後のことは知ったことじゃない。さっさと逃げて国に帰ればよしとしましょう」
「……待て、何がよしとしましょうだ。そんなことをしてタダですむものか」
サヘルが頭痛を堪える顔で反論したが、トゥマイイは意に介さなかった。
「婚約式を建前に集合するのは権力闘争大好きな草原派と森林派の重鎮たちですよ。武力行使も辞さない連中が揉め事起こして鼠に配慮なんかしてくれますか?」
「あー、それは潰される一択ッスね」
ハキがやたらと真剣に頷いた。渋い顔をしていたサヘルも、この少人数で列強種族相手に抵抗など出来ないと判断し、彼らは脱出計画に取りかかった。
「こんな無茶な婚約を強行するんだ、式に何らかの抗議をする奴が出てきたっておかしくない。いや、むしろそっちを期待して大がかりな罠を作っているかもな」
「罠?」
驚いたようにヤジドが言うと、声が大きいとサヘルが注意した。黙って聞いていたトゥマイイが彼に賛同する。
「確か、国王陛下に我が国から婚約者を差し出せと要求を突きつけたのはングルウェ公でしたっけ」
「えー、あの悪食豚公爵、いつから列強種族のパワーゲームに首突っ込んだんスか」
呆れたようにハキが言い、側近たちは苦々しげに笑った。
「問題は、猫族をこんな馬鹿げた場に引っ張り出したのが誰かだ」
「確かに、我々と違い列強の一角をなす一族が見世物になりにくるとは思えんな」
「仲介は狼公爵で犬族は静観、参列する列強種族の派閥が婚約式ではっきりする訳ですね。ヤジド、まだ来てない大物は?」
トゥマイイに尋ねられ、腕組みしながら屈強な護衛(モルモット比)は答えた。
「…水牛に象くらいか。猿族は最初から関わらないと明言していたな」
いずれも強大な種族だ。真体に変化して暴れられたらモルモットなど一瞬で踏み潰されかねない。サヘルが決意したように顔を上げた。
「婚約式は明後日。それまでに脱出ルートを見つけるんだ。出来れば複数。念のため遠縁に根回しをしておいたから明日には接触できると思う」
しっかりと安全策を用意していたリーダーに、他の者は感心した目を向けた。彼は少し微妙な表情で続けた。
「それと、殿下には悟られるなよ。本番までにパニックを起こされたら計画が台無しだ」
「一服盛っときますか?」
「最後の手段にしろ」
王子の乳兄弟の物騒な提案は却下され、彼らはこっそりと城の各場所に散っていった。
夜中にアユブは目を覚ました。後頭部が妙にずきずきするのを感じ、どこでぶつけたのかと不思議だったが思い出せない。記憶にあるのは猫の王女ニェリの獰猛な笑顔だった。鼠の王子は身震いした。
こんな無茶な婚約が現実的でないことくらい、彼にも分かる。それでも列強種族に圧力をかけられればモルモット王国には承諾する道しかなかったことも。
大きすぎる寝台から這い出てアユブは窓の前に来た。椅子を持ってきて足場にし、そっと窓を開ける。涼しい夜風がカーテンを揺らし、部屋に流れ込んだ。
窓の外を覗き込むと、城の周囲はあちこちに篝火が焚かれ兵士が警備に当たっている。残念ながら庭に降りた時点で見つかってこの部屋に逆戻りになってしまうだろう。
「……なら、上は…」
さすがに屋根には火も警備兵も見えなかった。アユブは身軽に壁を伝い登った。この程度ならヒトの姿でも軽くこなせる。
大した時間もかけずに鼠の王子はンドラ城の屋根に上がった。城の周囲に広がる緑豊かなサバンナは夜に黒く沈み、星を映す川や湖が対照的に輝いている。
幻想的な光景に見とれた後で、アユブは首をかしげた。
「何で、こんな何もない所に大きな城があるんだろ?」
無意識の独り言に答える者がいた。
「ここは列強種族の緩衝地帯。不戦の約定を結び、重大な会議を行う場所だ」
「え? うわっ!」
驚きのあまり、アユブは屋根から転がり落ちかけた。それをしなやかな指がつまみ上げるように助けてくれた。
「まさか私以外にここで散歩をする者がいるとは思わなかったよ、婿殿」
彼を屋根の上に下ろしてくれたのは猫の王女ニェリだった。寝間着らしい白い薄物をまとった彼女は下ろした長い赤毛を風に揺らして笑った。
昼間の事を思い出し後ずさるアユブに、王女は片手をヒラヒラさせた。
「ああ、怖がらなくていい。夕餉はちゃんと食べたから」
世界一安心できない慰めに鼠の王子は顔を引きつらせた。それを気にすることもなくニェリは空を見上げた。降るような星の中に半分になった大月と細い爪のような小月が離れて掛かっている。
普通、王族同士の慶事であるなら二つの月が満月となる重祥月を選ぶのが慣例だ。バラバラな月に自分の扱いの軽さを思い知らされる気分のアユブだった。
「……どうでもいいということか」
小さな呟きに彼は顔を上げた。ニェリの表情はよく分からないが、苦々しげな声が彼女の不快さを感じさせた。
二人の間に沈黙が流れた。そこに離れた場所から何かの音が聞こえた。水音のようだ。
「……川? 湖かな」
きょろきょろしていると、アユブはいきなりニェリに抱えられた。猫の王女は反動も着けずに跳躍し、軽々と城の別棟の屋根へ移動した。
「え? 何?」
視界が急に目まぐるしく移動したかと思うと、鼠の王子は自分が湖を見渡せる位置の屋根にいることを知った。
「……わあ…」
湖は月と星の光を受けて輝いていた。時折小さな魚が飛び跳ねては湖面の光を揺らめかせる。
アユブが我を忘れてうっとりと見とれていると、突如水面に現れた水棲獣が鋭い歯が並ぶ口で魚を捕らえ、大きな水しぶきを上げて水中に潜った。
「どこも厳しそうだな」
ニェリがぽつりと言った。彼女は屋根に座り込んでいるため、見上げるだけだった金色の瞳がアユブのすぐ側にある。月より星より鮮やかな黄金色に思わず見とれていると、不意に猫の王女は身を伏せた。アユブの頭を片手で押さえ、小声で注意する。
「静かに」
何事かと思いながらおとなしく従った王子の耳に、誰かの声が聞こえた。
「……では、あのお方たちには」
「首尾良く事が進めばお前も拝謁できる。この世界の真の支配者にな。哀れな獣どもはせいぜい殺し合えばいい」
その言葉に、アユブは背中に冷たいものが駆け抜けるのを感じた。ニェリは静かに耳をすましている。
「とにかく、婚約式をしくじるなよ」
「それはお任せを。厄介な連中は全て呼び寄せておりますので」
おもねるような声がしたあと、彼らは移動してしまったようだった。ほっと息を吐いたアユブはニェリを仰ぎ見た。
「今のは…」
月明かりが照らず彼女の横顔は酷く厳しかった。しばらくして、猫の王女は鼠の王子を抱えて元の場所に移動した。
「ここで何が起きるのか、君は知ってるの?」
部屋に戻ろうとするニェリにアユブは必死で問いかけた。無視して立ち去りかけた猫の王女はふと足を止めた。
「…真体を持たない者に気をつけなさい」
それだけを言い残すと、彼女は廊下の暗闇に吸い込まれるように姿を消した。アユブは呆然と立ち尽くし、やがてとぼとぼと自分の部屋へと歩いた。
「はあ? こっちが徹夜で逃げ道確保してたってのに、のん気に猫と逢い引きっスか」
昨夜のことを黙っていられなくなったアユブは乳兄弟のハキに打ち明けたのだが、返ってきた反応は辛辣だった。
「そんなんじゃなくて、たまたま屋根で一緒になったんだよ」
「何スか、その色気のない場所は」
呆れたようにハキが顔をしかめていると、他の側近たちが部屋に入ってきた。
「何を騒いでるんだ」
「いや、殿下が昨夜は猫とねんごろに」
「なってない! 変な奴らが密談してたし訳の分からない忠告されたし」
「忠告?」
興味を示したサヘルにアユブは昨夜見聞きしたことを説明した。
「真体を持たない者?」
「真祖の加護がないということか?」
「それではヒト形のみの抜け殻ですよ」
「でも、ニェリ王女は確かにそう言ったんだ」
側近たちは揃って考え込んだ。そして早々にお手上げ状態になった。
「ダメだ、材料が少なすぎる」
「大体、加護無しの抜け殻なんて本当にいるのか?」
「情報源があの王女じゃねえ…」
次々に否定され、アユブは言葉に押しつけられるように俯いた。それでも彼は必死で抗弁した。
「王女がそんな嘘をついて何の得があるんだよ」
だが、周囲の反応は薄かった。
「申し訳ありません、殿下。我々はあやふやな疑問より、明日を生き抜くことが優先なのです」
サヘルにそう言われると、アユブは黙るしかなかった。
「つーワケで、部屋でおとなしくしててくださいよ」
ほとんど軟禁状態で部屋に閉じ込められ、鼠族の王子は途方に暮れた。
――せっかくニェリ姫が教えてくれたのに……。
どこにも行けない状態で、自然と聴覚が研ぎ澄まされた。外の廊下や庭で慌ただしく歩き回る足音がいくつも聞こえる。やたらと大きな足音は大型種のものだろうか。それに混じって誰かの話し声がした。
「明日は忙しくなりますねえ、何しろ前代未聞の婚約式ですし…」
露骨な媚びへつらいを隠そうともしない粘っこい物言いが、昨夜の記憶と重なった。
――…あの時の!
思わず壁に身を寄せたが声は遠ざかっていく。
――せめて、誰なのか突き止めてニェリ姫に知らせないと。
その一心でアユブは行動を起こした。旅行用の地味な埃よけを被り目立つ毛色をフードで隠し窓を開ける。そして警備兵に見つからないように壁をよじ登った。声のした方へと素早く移動し、少しだけ開いていた窓から中に入り廊下に出た。
だが、声はやんでいた。
「どこかの部屋に入ったのかな…」
両側にずらりと扉が並ぶのを見て途方に暮れたが、地道に微かな物音を拾い上げることにした。ふと、アユブは一つの部屋の前で立ち止まった。中から数人の声がする。その中に例の声が混じっていた。鼠の王子はドアにへばりついた。必死で室内の会話を探ろうとしていると、突然誰かに肩を掴まれた。と思うと彼は宙吊りになった。
「行儀の悪いネズミがいたぞ」
大柄な男が片手でつまみ上げたアユブを目の前に持ってきて笑った。鋭い牙が覗く口に小さな王子は全身を震わせた。
「…羆大公。あの、これは……」
じたばたするうちにフードがずれて三色の髪が露わになってしまった。羆大公ジェラニ・ドゥブの目が鋭く光る。
「地下に放り込んでおけ」
褐色の髪の大公は言い訳を聞くそぶりすら見せず、部下にアユブを放り投げた。小さな鼠族が連れ去られるのを見届けて部屋に入ると、扉は音もなく閉じられた。
予想外の来客を知らされ、ニェリは眉をひそめた。
「鼠族が? アユブ王子ではなく?」
「その側近です、姫様」
侍女のアヤナも困惑を隠せていない。ニェリはひとまず客間に通すよう命じた。
客間で彼女を待っていたのは王子の側にいた青年たちだった。リーダー格のサヘルが丁寧にお辞儀をした。
「突然の訪問をお詫びします、王女殿下。アユブ殿下がこちらにおられないでしょうか」
「アユブ王子は昨夜以来お目に掛かってないが」
「……そうでしたか」
苦渋を滲ませるサヘルの様子に、ニェリは立ち入った質問をした。
「王子が何か?」
「……実は、お姿が見えないのです。部屋から消えてしまって」
侍女たちと顔を見合わせるニェリの様子に、悄然としながらアユブの側近たちは退出した。
「どう思う?」
ニェリに問われ、後方に控えていた侍女のハシナが間延びした声で答えた。
「逃げたんじゃないですかぁ?」
「あんな小さな鼠が単独で、列強種族がウロウロする中を?」
別の侍女カミリは懐疑的だった。その隣で侍女仲間のネアが心配そうに呟いた。
「何かに巻き込まれたのでなければいいですけど」
筆頭侍女のアヤナは会話に加わらず、窓の外を気にしていた。それに気付いたニェリが呼びかけた。
「何か?」
「先ほどの者たちが庭で奇妙なことを…」
窓に近寄れば、サヘルたちが石で地面を叩いている。
「おまじないですかねぇ」
のんびりとハシナが首をかしげ、猫族の女性たちは返答に窮した。
「これで周辺の同族には伝わったはずだが」
石を放りだし、サヘルが疲労困憊の声を出した。他の側近たちも似たり寄ったりの表情だ。
「間に合いますかねえ」
ヤジドが空を見上げて不安げに言った。太陽は既に傾いている。明日までにアユブが見つからなければ婚約式が大変なことになるのは間違いない。
「そのための非常招集だ」
もう打てる手立てはやりつくしたとサヘルは周囲を見回した。夕陽が城とサバンナを赤く染め上げ、不吉なほど美しい光景を作り出していた。
城の地下室に閉じ込められたアユブはわめき疲れて床に座り込んだ。
「……あとちょっとだったのに…」
秘密の会合をしていた者を探り当てていれば、陰謀の芽を摘むことが出来たかも知れなかったのだ。自分の迂闊さをアユブは思いきり呪った。冷たい床にごろりと転がると急激に空腹が襲ってきた。
「お腹すいた…、力が出ない……」
身体が小さな鼠族は一食でも欠けると栄養失調に陥る恐れがある。ここで餓死なんてあんまりだと涙がこみ上げてきた時、床に微かな振動を感じだ。
「……これって…」
緊急事態に仲間を呼ぶ鼠族の符丁だ。部屋の隅にある漆喰のかけらを見つけ、アユブも床を叩いた。腕が疲れてきた頃、異変は訪れた。
部屋の石壁が動き始めたかと思うと、がらがらと崩れ落ちたのだ。仰天するアユブに、壁の奥から親しげな声がかけられた。
「久しぶりじゃのう、坊ン」
「ハミディおじさん!」
モグラの統領が愛用のスコップ片手に豪快に笑った。
「サヘル坊から連絡受けたんじゃが、また厄介ごとになっとんか?」
「それより、今…」
言いかけてアユブはふらふらと崩れ落ちた。空腹が限界に達したようだ。ハミディ・フーコは心得た様子で王子に乾パンを手渡した。
「ほれ、まず食べてからじゃ」
勢いよく乾パンを囓り尽くし、ようやくひと息ついたアユブはいきさつを説明した。モグラの統領は義憤に駆られたようだった。
「はあ? 何じゃ、そいつら。鼠族を舐めくさって」
「とにかく、ここを出てニェリ王女に伝えないと……って、おじさん、今は夜? 昼?」
「さっきお日さんが出とったな」
「大変だ」
婚約式当日なのだと知ったアユブは焦ったが、ここからどうやって猫の王女の元に行けばいいのか分からない。うろたえているとハミディが彼の肩を乱暴に叩いた。
「心配せんでええで、坊ン。地下は儂らのテリトリーじゃ。どこだって連れてったるわ」
「ありがとう、おじさん」
そこに、ハミディの配下が駆けつけ彼に囁いた。モグラの統領の顔が険しくなる。
「坊ン、うちの若いモンがヤバそうな話を聞きつけたで」
彼から内容を聞かされたアユブは目眩を覚えた。
「……そんな、じゃ、最初から」
「気に入らん奴を皆殺しにしてここに火ぃつけて証拠隠滅一丁あがりやな」
「僕たちは何の関係もない。脅されて連れてこられただけなのに」
「どうする?」
ハミディに問われ、アユブは顔を上げた。
「助けたい。サヘルたちや、ニェリたちも」
「猫の連中も助けるんかい」
意外そうな彼に、鼠の王子は頷いた。
「ニェリは多分こうなることが分かってて、僕に気をつけろと言ってくれたんだ」
困ったように無精髭を掻いていたハミディはにやりと笑うとアユブの背中を叩いた。
「まあ、頑張るのはええこっちゃ。坊ン、このけったくそ悪い城をどうする?」
鼠の王子は彼に作戦を告げ、モグラの統領は大きく頷くとカンテラ付きのヘルメットを被り直した。
「よっしゃ。おい、突貫工事や!」
穴の中で待機していた工夫たちから歓声が上がった。早速猛烈な勢いで穴を掘り始める彼らを見ながら、アユブは間に合うことをひたすら祈った。
城の東翼にある聖堂には神聖な朝日が差し込んでいた。ガラスを通した光が天井画を照らし、大きなシャンデリアをきらめかせる。猫の王女と鼠の王子という異色の取り合わせの婚約式は、列強種族のほとんどが参列する豪華な顔ぶれとなっていた。
王女の控え室にノックの音がした。主席侍女のアヤナが扉を開けると、愛想笑いを浮かべた小男が揉み手をしていた。ベールを被り椅子に座る王女を見て大げさに息を呑む。
「おお、これはお美しい。ニェリ殿下、お支度の方は…」
ウエディングドレスほど豪華な装いではないが、いつもの原色の衣装とはうって変わった白一色のドレスが王女の褐色の肌を引き立てていた。
相好を崩す進行役バラカ・ポーポを侍女は素っ気なくあしらった。
「姫様は最後の仕上げがありますので」
更に追従を言おうとした男の前でドアが閉められた。苛立たしげにアヤナは呟いた。
「二枚舌のおべっか使いが」
他の侍女たちはそれぞれの表情で賛同し、気掛かりそうに小声で言った。
「あちらの王子の方は見つかったのでしょうか」
「側近の者が朝から走り回ってましたが」
侍女たちの憶測に、王女は沈黙を貫いた。
近未来の花婿側の控え室は重い空気が流れていた。正装した白黒茶の髪の少年がぼそりと呟いた。
「……無理っスよ」
「喋るな」
「いや、黙っててもバレるっしょ」
アユブに変装した乳兄弟のハキが、鬱陶しそうに前髪を掻き上げた。塗りたくられた白粉で皮膚呼吸も出来ないとぼやく彼に、サヘルが言い聞かせた。
「ハミディ叔父から合流したと連絡があったんだ。時間を稼いで間に合わせるしかない」
「モグラの旦那、どこ掘りまくってんだか」
深刻な沈黙が訪れた時、何か細かいものが落ちる音がした。
「……砂?」
どこからと彼らが控え室を見回すうち、介添人が声をかけた。
「あー、アユブ殿下、ご準備はよろしいでしょうか」
「わ、わかった」
焦りながら返答し、サヘルは仲間を振り返った。
「覚悟を決めろ。これで押し通すしかないんだ」
思い思いの諦念の表情で、モルモット王国一行は聖堂へと移動した。
奇妙な婚約式を見守る各種族ははっきりと二分していた。草原派の猫族、野牛族、象族。森林派の羆族、豚族、山羊族、犬族……。今は街を作り城で暮らしていても、かつての生息地の名を取った派閥は利害関係で結束し、空席越しに睨み合っている。
「それでは、これより神聖な婚約式を行う。ニェリ・マルキア、アユブ・キパニャ、これへ」
鶏の首長、サディキ・キファランガが自慢の美声で朗々と読み上げ、二人の入場を促した。それを合図に聖堂後方の二つの扉が同時に開く。それぞれの共の者に囲まれるようにして両者が祭壇の前へと歩いた。猫一族に比べて鼠側はかなりの早足で、それでも着いていくのが精一杯なのに小さな笑いがあちこちから漏れた。
祭壇に二人が揃った時、鼠たちは肩で息をしていた。猫の王女はそれに気付かぬ様子で静かに立っている。
サヘルはアユブに偽装したハキの横に並び、キリキリと胃が痛むのを堪えていた。慣習に従いニェリとアユブ(仮)は衝立に囲われ、その顔は参列者からはよく見えない。だが、誓約書にサインをし改めて婚約者として対面した時に誤魔化せるかどうか。
「では、サインを」
アユブ役のハキが、渋々ペンを手に取る。書き損じて時間稼ぎするかどうかを迷っていると、突然参列者席で一人が立ち上がった。
「待て! そいつは本当にアユブ・キパニャなのか?」
「な、何を…」
思わずどもるサヘルに目もくれず、声を上げた羆大公ジェラニ・ドゥブがずかずかと祭壇に近寄った。
「異議があるなら後で…」
制止しようとするキファランガを片手ではね除け、褐色の髪の大公は衝立を蹴り飛ばした。固まるハキを掴もうとした時、彼の毛深い腕が切り裂かれた。驚く鼠たちが攻撃者に目を向けると、猫の王女が爪に付着した血を振り払っていた。
「貴様、何者だ?」
詰め寄られた王女は、間延びした声を出した。
「あらぁ、バレちゃったー」
ベールを投げ捨てたのはニェリの侍女ハシナだった。
「猫族まで身代わりを使うとはな」
「私も急用だったのだ」
嘲りの声に答えたのは後方の扉からだった。そこには赤い髪と黄金の瞳を持つ猫族の王女ニェリが立っていた。身軽な黒い短ズボンと袖なしの上着といういでたちの彼女は何かを引きずっていた。それを無造作に通路に放り出すと、列席者から驚きの声が上がった。
「……これは、羆大公?」
「まさか、では奴は?」
真体となった褐色の羆は息絶えていた。ニェリはヒト形の羆大公と対峙した。
「あなたのワゴンから嗅ぎ慣れない臭いがした。どの種族とも違う臭いだ。調べてみたら見たことの無い金属の箱にこれが隠されていた。熊族の優れた嗅覚に驕り、他の種族を侮ったのが間違いだったな」
猫の王女の追求に羆大公を名乗っていた者は薄笑いを浮かべた。次の瞬間、彼の周囲が発光し、聖堂内の者は目を覆った。彼らの前には見たことの無い男性が立っていた。
薄灰色の長髪と灰色の瞳、青白い肌。何より、彼からは真体をうかがわせるどんな臭いもしなかった。
男の真正面にいるニェリが呟いた。
「加護無しの抜け殻か」
その言葉に周囲はどよめいた。
「真体がないだと?」
「まさか、真祖の加護がない者が生きていけるはずが…」
灰色の男は薄笑いを消さなかった。その目は冷酷に周囲の種族全てを蔑んでいた。
「猫も存外鋭いものだな。獣にしてはだが」
その言葉が消える前に、猫の王女が一瞬で間を詰めた。だが、彼女の爪が届く直前に割って入った者がいた。周囲の誰もが驚愕の顔をする中、ニェリはひとり口角を引き上げた。
「裏切るならお前だと思っていたよ、コウモリ」
いつも列強種族の間をへこへこしながら渡り歩いていた男――蝙蝠男爵バラカ・ポーポが、常の卑屈さをかなぐり捨てた尊大な態度で立っていた。ニェリは彼を詰問した。
「猫族と鼠族との婚約などとあからさまな茶番を計画して各列強種族を呼び寄せ、草原派と森林派の決着をつけると煽って共倒れでも期待したか」
「いい勘だが、私は偶然などに頼らない主義でね」
蝙蝠男爵は片手を上げた。各種族は吊られるように天井を見上げた。そこにはシャンデリアに隠れて無数のコウモリがへばりついていた。続いて聖堂の最上部の窓ガラスが次々と割れていった。外から流れ込んできた空気には煙と煤の臭いが混じっていた。ニェリは顔色を変えた。
「火? 松明か。計画が露見した時は我々を聖堂ごと焼き払う訳か」
バラカ・ポーポは狂ったように笑い出した。
「どうだ? ここが火に包まれれば脱出できるのは我が眷属のみだぞ」
彼の言葉が合図であるかのように、最上部以外の窓が次々と外から板で打ち付けられた。猫の王女は奥歯を噛みしめた。
そこに、場違いな声がした。
「大丈夫だよ、ニェリ姫」
天窓から顔を覗かせたのは行方不明になっていた鼠の王子だった。
「…アユブ?」
「殿下?」
アユブはすぐに顔を引っ込めると真体に変化した。彼の背後には夥しい数の鼠たちが集合している。
「よしっ、囓り倒せ!」
鼠たちは一斉に聖堂の軒を支える梁を囓り始めた。見る間に細くなった木材は屋根を支えきれず落下した。
「うわっ!」
その下で松明を投げ込もうとしていた蝙蝠族が下敷きになる。三毛のモルモットに率いられた鼠たちは次々と移動し、分散し、木材を囓った。
アユブの頭の中には、ハミディ・フーコの言葉が浮かんでいた。
『ええか、坊ン。どんだけご立派なお城でもな、基礎がガタガタになりゃ積み木と一緒よ。崩壊ポイントを教えるから頭にたたき込んどけよ』
外から悲鳴と怒声が続いたかと思うと、突然物音が途絶えた。さっきまで優位を確信していた蝙蝠男爵は今や顔色を失っている。
「……こ、これは、こんなはずでは…」
必死に真体を持たない男に縋り付くと、男は彼の肩に手を置いた。
「一度だけチャンスを与えてやる。殲滅しろ」
彼が嵌めていた指輪から細い針が飛び出し、バラカ・ポーポの首に刺さった。男は天井の蝙蝠たちを集め、同様の処置を施した。
その効果は劇的だった。
「おおおおおおーーーー!!!」
突如として貧相な小男が巨大化した。羆より大きなヒト形は頭部と足が蝙蝠に変わり、背中には禍々しい黒い翼が生えた。男爵の背後にいる蝙蝠たちも同様の姿に変わり、彼らの手は鎌のような爪が伸びていた。
「大変だ」
天窓から中の様子を見ていたアユブは予想外のことにおろおろするばかりだった。だが強大な種族たちは違った。
「真祖の魂を売ったバケモノが!」
「我らに勝てると思うなよ!」
怒りの声と共に列強種族は次々と真体をあらわにした。ニェリはちらりと天窓のアユブを見上げ、そして決意したように侍女たちに視線を送った。彼女たちは一斉に真体に変わった。虎、黒豹、チーター、ジャガーが異形の蝙蝠たちに襲いかかる。
ニェリは黄金色の目を閉じた。その目が再び開かれた時、彼女は雌獅子へと変化していた。アユブは黒い目を見開いた。
「ニェリはライオンだったんだ。でも……」
黄金色のライオンには雌が持ち得ないはずのたてがみがあったのだ。バラカ・ポーポはその姿に納得したような声を出した。
「……そうか、シンバ王朝にたてがみ付きの異形の姫が生まれたと聞いたが、お前か」
雌ライオンはたてがみを震わせて咆吼した。飛びかかってきた蝙蝠の攻撃を避け、強靱な前足で引き倒すと喉笛に食らいつく。
他の者も列強の名に恥じない戦いぶりを見せた。水牛は蝙蝠の爪を太い角で受け、首を振ってへし折った。狼と犬族は集団で追い込み効率よくとどめを刺している。
ハラハラしながらアユブが見ていると、外で鼠たちが騒ぐ声がした。
壁を伝い城の庭園を見ると、いつの間にか加護無し男が抜け出ていた。彼は棒のような物を取り出すと、聖堂に向けた。そして庭園に轟音が響いた。
「何だ!?」
聖堂にも音が響き、次いで窓が破壊され火球が祭壇を直撃した。祭壇が爆発し、蝙蝠も列強種族もお構いなく吹き飛ばした。彼らはそのままの勢いで壁に叩きつけられるかと思ったが、一瞬早く壁が崩れ落ちた。
「こっちに!」
小さなモルモットが真体を保てずヒト形に戻った負傷者を誘導した。異形の蝙蝠たちは呆気なくバラバラになっている。
「敵味方関係無しか、大した主だな」
ニェリが皮肉げに言うと、蝙蝠男爵は逆上した。
「うるさい! お前たちさえ葬れば、あのお方は一族に加えてくださるとおっしゃったのだ! 二度と馬鹿にされない地位に引き上げてくださると!」
その叫びに呼応するように、バラカ・ポーポは更に変化した。巨大化した身体には血管が浮き上がり、目は爛々と赤く光っている。
さすがに一旦間合いを取り、ニェリは攻撃の機会を探った。
「列強種族など滅べ!!」
振り下ろされる鎌爪は威力もスピードも数段上がっていた。雌ライオンは敏捷に跳躍して回避する。そこに、他の蝙蝠が彼女に仲間の死骸を投げつけた。着地体勢が乱れた所に鎌爪が襲う。
「ニェリ!」
アユブは悲鳴を上げた。雌ライオンは右肩を切り裂かれ転倒した。すぐに起き上がったが傷は深い。
どうしようとうろたえるアユブの元に、側近たちがモルモットの姿で集まった。
「殿下!」
鼠の王子は大きく息を吸い込み、聖堂内を見回した。そして、ある物に目を留めた。
「着いてきて!」
彼は側近と配下の鼠たちを従え天井へと駆けた。目指すはシャンデリアを固定している金具付近だ。
「みんな、中心以外を全部囓りとって!」
鼠たちは集団で天井の木材を囓った。やがて固定具は次々とはじけ飛んだ。落下するシャンデリアに三毛のモルモットが飛び乗った。
「殿下!」
呼び止める声はアユブの耳に届かなかった。
蝙蝠男爵は傷ついた雌獅子をなぶるように攻撃を続けた。ニェリは同じ手を食わないように他の蝙蝠たちの動向も注意しなければならない。優位を笠に着たバラカ・ポーポは再度仲間と連携を取ろうとした。そこに大型猫族が一斉攻撃を掛けた。足や翼を切り裂き機動力を削り取る作戦に、蝙蝠は次々と倒れていく。
「くそっ、お遊びはこれまでだ!」
蝙蝠男爵が限界まで殺傷能力を高め、猫の王女は迎撃態勢を取った。そこに、頭上から声がした。
「ニェリ!」
彼らが見たのは、きらびやかな振り子と化したシャンデリアが大きく円を描いて向かってくる光景だった。。ライオンは咄嗟に低い姿勢を取ったが、巨大化した蝙蝠男爵は両腕で防がなければならなかった。シャンデリアに乗っていたモルモットを腹いせに弾き飛ばす。小さな鼠族は呆気なく壁に叩きつけられヒト形に戻った。
その無駄な動作を雌ライオンは見逃さなかった。大きく跳躍したニェリは蝙蝠に飛びかかり、落下速度を加えた体重で押さえ込んだ。黒い羽根を引き裂き、強靱な顎で喉元に食らいつく。バラカ・ポーポは必死で抵抗したが、それも頸動脈を噛み千切られるまでだった。
ヒト形とも真祖の蝙蝠ともかけ離れた姿で瓦礫の中に倒れた男爵は、血の泡を吹きながら言った。
「……残念、だ…、真実を、知った、お前…の、絶望、を見ら、れ、ない、の……が……」
彼の目から光が消えるのを見届け、ニェリはヒト形に戻った。適当な布地をまとい、血が流れる右肩を止血する。そして壁際で伸びている鼠の王子を見つけると、そっと抱え上げた。
「殿下!」
聖堂の外でヒト形に戻りアユブを探し回っていた側近たちは、猫の王女が抱えている者を見て固まった。
「大丈夫、気絶しているだけだ」
王子を仲間に引き渡し、ニェリは鼠たちの前で跪いた。
「今回は鼠族に助けられた。感謝する」
彼女の背後で侍女たちも同様に跪き、気付けば列強種族全てが彼らに謝意を示していた。サヘルたちは思いも寄らない状況にきょろきょろするばかりだった。
感動的な場面の背後でいきなり聖堂が崩れ落ちた。サヘルたちの目の前の地面に穴が開き、モグラの統領が顔を出した。
「無事か、坊ン。おお、サヘル坊もおるな」
「…ハミディ叔父」
間の悪い出現にサヘルは間の抜けた声を出し、やがて笑い声が庭園に広がっていった。
「この程度か」
聖堂での結着を湖畔で確認した灰色の男は不快そうに呟いた。草原と湖、そして古城を見渡し忌々しげに独りごちる。
「少し目を離した隙に獣が跋扈する世界に成り果てるとはな。前任者は何を考えていたのだ」
彼は手首の腕輪に触れた。その周囲に光の輪が浮き上がり、大きく光った時に男の姿は消えていた。
予想もしなかった結末を迎えた婚約式の翌日、ンドラ城は各種族の出発準備に賑わっていた。
草原派と森林派は一応の和解をし、謎の加護無しを調べることで一致した。そして列強種族は続々と領地へ戻っていった。鼠族は豚公爵のワゴンに同乗させてもらえることになった。
「いやいや、火あぶりから救ってくれたお礼だよ。あのまま焼き殺されていたらと思うとぞっとする」
ングルウェ公爵の感謝が消えないうちにとアユブたちは厚意を受け取ることにしたのだ。
それぞれのワゴンが荷役獣に曳かれていく光景を、猫の王女ニェリは城の屋根から眺めていた。
「やっぱりここだった」
そこにやってきたのは鼠の王子アユブだった。彼は包帯が巻かれたニェリの肩を見て顔を曇らせた。
「まだ痛い?」
「どうということはない。それより驚いただろう。私にたてがみがあることに」
ニェリの隣に座りながら、アユブは頷いた。猫の王女は草原を眺めながら語った。
「ライオンの王家は女系血統だが、統治は王が行う。王は外部から迎えるため、時に玉座が長く空くことがある。そんな時、ごくまれにたてがみを持つ王女が王族を守る」
初めて聞く事情にアユブは黒い瞳を瞬かせた。
「そうなんだ」
続くニェリの声はどこか自嘲的だった。
「だが、それも王が現れるまでだ。王を迎えれば異形と忌み嫌われる存在だからな」
彼女らしくない苦い述懐に、雄ライオンとは違う優雅な飾り毛のようなたてがみが目に浮かんだ。鼠の王子は思わず叫んでいた。
「そんなことない! ニェリは強くて綺麗だ!」
懸命な訴えに、猫の王女は微笑んだ。
「…ありがとう」
初めて聞く優しい声に、アユブはどきまぎしながら質問した。
「あの、結局、僕たちの婚約ってどうなったんだろ」
「ま、そもそもが無理な茶番だからな。契約のサインもしてないし、白紙に戻るだろうから安心すればいい」
「うん……、あのね、その、……もう会えないのかな」
必死で言葉を紡ぐ鼠の王子の顎に、猫の王女は指を掛け獰猛に笑った。
「食べて欲しいならそう言えばいいのに」
牙を覗かせながらの笑みは凶悪に美しく、アユブは一気に真体になった。
「ちっ…、ちがちがちがちがちが違う~~~~~~~!!!!」
短い足で全速力で逃げいてくモルモットに、ニェリは笑い転げた。それを窓から聞いていた侍女は首を振った。
「悪い癖ですよ、姫様」
モルモットの姿でアユブは一台のワゴンに飛び込んだ。奥の荷物の間に潜り込み食べられませんようにと懸命に祈る。周囲の毛布は不思議と安心できる臭いがするのに彼は気付いた。身体の震えが止まり、ヒト形になったアユブはいつしかうとうとしていた。
「よし、出発だ!」
豚公爵のワゴンが荷役獣に曳かれて動き出した。かなりの重量なのに大型獣は苦も無く走り出す。
大きく息をついてサヘルが言った。
「とにかく、これで国に帰れるな」
「国王陛下にどう報告しますか?」
「他の種族からも公式に感謝状が来るらしいぞ」
「あのー…」
和気藹々の会話に、ハキが申し訳なさそうに割って入った。
「頭数が足りないんスけど……」
彼らは顔を見合わせた。ここにいない鼠族は一人しかいない
「殿下~~~~~!!」
絶叫がワゴンを駆け巡った。
狂騒状態になる者がいれば、呆れかえる者もいた。
「……姫様」
「どうしてここに…」
荷役獣が曳く豪華なワゴンの中、猫族の侍女たちは毛布の間で熟睡している鼠の王子に困惑しきりだった。ニェリは仕方ないと彼女たちに指示を出した。
「風ツバメでモルモット王国に王子は無事だと伝達を。引き返す時間は無いからな」
「では、このまま」
「猿族の長トゥムビリに謁見を求める。加護無しの情報をくれたのはあの一族だし、詳しい話を聞きたい」
「分かりました」
侍女たちが去った後、ニェリは眠るアユブの側に跪き、三色の髪にそっと触れた。
「手の掛かる婿殿だ」
宿営の支度をしていたハシミがその姿を眺めて首をかしげた。
「何だか姫様、嬉しそう」
サバンナを夕日が染める中、猫族の大型ワゴンは猿族の領地へと走り続けた。
閲覧してくださって有難うございます。