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千尋の杜  作者: 深水千世
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出会い

 僕が小学生だった頃の話だ。


 夏休みになると決まって、隣県にある祖父の家へ行かなければならなかった。それは僕にとって半分楽しみで、半分は憂鬱な年中行事だった。


 祖父母に会えるのは嬉しかった。彼らはいつも歓迎してくれて、そこで楽しむ数日間は心躍るものだった。けれど、祖父母に会うと真っ先に、必ずあることを強いられたのだ。


「千尋、神社にお参りしておいで」


 祖父は近所にある神社の宮司だった。毎年、必ず僕に神社にお参りするように言うのだが、僕はとても小心者で、神社が怖くて仕方なかった。名前なんて知らない、神職も祖父一人という規模の小さな神社だ。けれど当時はとても大きく見えた。


 鎮守の杜が落とす影のひんやりとした冷たさ。木漏れ日が踊る長い苔むした石段。ちょろちょろと水音がする手水舎と湧き水のある池。

 境内に足を踏み入れると、どんなに暑い夏の日でも一気に涼しく感じられた。それはそれは空恐ろしいほどに。鳥居は境界線であり、その向こうは季節も時間の流れも変わってしまう異世界に思えた。


 僕には、行ったふりをして時間を潰し「お参りしてきました」なんて嘘をつく知恵もなかったから、毎度びくびくしながら石段を一段ずつ登ったものだ。

 帰りは一目散に駆け下りた。何度勢いあまって転びかけたかわからない。息をきらし必死に石段から離れると、決まって恐る恐る振り返る。何か得体の知れないものがあとをついてくるんじゃないかという不安を振り払いたくて。

 『幽霊の正体見たり枯れ尾花』というように、実際には怪奇現象も見たことがない。ただ、石段の両脇に茂る草木が風に揺れているだけだ。それでも僕は葉がこすれる音に安堵する一方で、陰を抱いてこんもりと茂る杜に身震いしたものだった。


 あれは四年生の夏だった。


 いつものように祖父からお参りをすすめられ、とぼとぼと神社に向かった。

 おかしいものだ。学校にだって行きたくないと思ったことがないのに、たかだか神社にお参りするだけでこんなに憂鬱になるなんて。


 幾重にも響く蝉の声を聞きながら鳥居をくぐった僕は、ふと眉間に皺を寄せた。手水舎の裏手にある池のほとりに、小さな女の子がいたからだ。


 その池は湧き水がこんこんと噴き出していて、澄み切っている。けれど、僕は怖くて水辺に立ったこともない。水面をのぞき込んだら最後、見えない何かに掴まれて水の中に引きずり込まれそうだと本気で信じていたからだ。


 ただでさえ怖いと思う池のほとりに、見慣れぬ女の子が立っている。人見知りの僕は緊張しながら参道を忍び足で進んだ。


 女の子は僕と同じくらいの年齢に見えた。柔らかそうな髪をツインテールにしていて、白いブラウスと赤いスカートが印象的だ。


 僕に背を向けて池をぼんやりと見つめていたが、すぐにハッとこちらを向いた。その拍子に、僕の歩みが止まった。ついでに思考も止まって、恐怖なんて真っ白になって脳みその中で溶けてしまった。その女の子は、可愛かったんだ。


「こんにちは」


 彼女はどう見ても小学生なのに、それにしては大人びて、どことなく乾いた笑みを浮かべた。


「こ、こんにちは」


 蚊の鳴くような声でやっとそれだけ言うと、ごくりと生唾を飲み込んだ。


「この池ってお魚いないね。鯉でもいればいいのに。つまんない」


 そう呟く彼女の白い肌に、木漏れ日が踊る。

 神社にお化けって出るのかな? そう疑うほど、儚げな横顔だったのをよく覚えている。


「君、この辺りの子?」


 歩み寄ってくる彼女に、僕は大きく首を横に振った。


「違うよ。夏休みの間だけ、こっちに来てる。明後日には帰るの」


「なんだ、そうなの。せっかく友達になれると思ったのに」


 残念そうに言うと、彼女は僕をみつめた。その口調や目つきは、僕を舞い上がらせるのに充分だった。

 こんなに綺麗な子が僕なんかと友達になりたいのか。そう思うと、頭にぞぞっと血液が駆け登るのを感じた。


「なれるよ。また明日も来るから!」


 咄嗟に口にしてから内心「しまった」と思った。神社への恐怖をすっかり忘れてしまっていたことに気づいたのだ。

 その浮き沈みする僕の感情は、顔に出ていたのかもしれない。彼女はぷっと噴き出して「ありがとう」と、微笑んだ。


「私ね、チヒロっていうの。君は?」


 それを聞いたときの僕の驚きと嬉しさを、なんと言い表せばいいだろう。


「ぼ、僕も千尋!」


「本当に? 嬉しい、同じ名前ね!」


 あの子はまるでどんぐりのような目を輝かせ、頬を染めた。

 それから僕たちは拝殿に腰をかけ、長いことおしゃべりをした。どうやら彼女はつい先日、この土地に越してきたらしい。可愛らしい唇が、こう言った。


「私ね、お父さんはいないけど、おじいちゃんとおばあちゃんができたの」


 きょとんとした。当時、僕は誰にでもお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんがいて当たり前だと信じていたからだ。


「石段を降りて左にある、大きな青い瓦屋根の家よ」


 あぁ、と僕は頷いた。確かに、神社のそばにひときわ大きい青い屋根の屋敷がある。


「お母さんと一緒に来たんだけど、さっき、私を置いて行っちゃった」


「え? どこに?」


「知らない。でも、おじいちゃんたちとお留守番よろしくねって」


「どこに行ったかわからないの?」


「うん。でもいつものことだもの。私、お留守番は得意よ」


 小さな胸を張っているが、その目は強がっているのが当時の僕にもわかった。


「そうかぁ」


 こういうときに気の利いたことも言えない自分が情けなかった。


 そして、じゃんけんを繰り返し「グリコ」「チョコレート」「パイナップル」と進み、家路につくことになった。いつもだったら駆け足で逃げ帰る石段なのに、何故かこのときばかりは名残惜しくて、グーしか出さない僕がいた。


 石段を降りきったとき、彼女は左へ、僕は右へ行かねばならなかった。


「じゃあ、またね」


「明日、ここで」


 そう約束を交わし、にっこり微笑みあう。

 そのとき、聞き慣れた声がした。


「千尋!」


 二人とも同じ名前なものだから、一斉に振り返った。小走りに駆け寄ってくる僕の母の姿が見えた。


「遅いから心配したわよ」


 そう言ってから、女の子に「あら、こんにちは」と優しく声をかけた。


「千尋のお友達?」


 その途端、チヒロは無言で脱兎のごとく駆け出した。


「まぁ、なぁに、あの子。挨拶もしないで」


 気分を害した母に、僕は慌てて弁解する。


「お母さん、違うの。あの子、可哀想なんだよ」


 彼女から聞いた話を聞かせると、母は「ふぅん」と少し唸り、僕の手を取った。


「千尋はあの子と友達なのね」


「うん。明日も遊ぶ約束をしたよ」


 母は、にっこり微笑む。


「そう。お友達ができてよかったね」


 このとき、母のあたたかい手を握った僕の胸の奥に沸き起こったのは、女の子への同情だったんだと思う。母のぬくもりがない暮らしなんて、僕には想像できなかったのだから。


 この話は、夕食のときに母から祖父に伝えられた。すると、祖父が瓶ビールを手酌しながら「あぁ」と顔をしかめる。


「ほら、すぐそこの青い屋根の家。川端さんとこの孫娘だ」


「え? あのお宅、お孫さんがいらっしゃったの?」


 驚く母に、祖父が深いため息を漏らして瓶を置く。


「あそこの一人娘が隣の県の市議会議員と不倫してな。手切れ金もらって暮らしてたんだけど、金が底をつきて戻ってきたらしい」


「まぁ、それでお父さんがいないなんて……」


 祖父は哀れみを浮かべた目をしている。


「それがよ、今朝になって娘が、孫を置きざりにしていなくなってよ。おまけに家の金を持ち出して逃げたんだと。川端さんの奥さんが泣いてるのが外まで聞こえてきたわ。もう帰ってこないだろうよ」


 今思えば、なんとも情報の早いことだ。祖父が神職などしているから相談でも受けたのか、それとも田舎独特のネットワークの賜物なのか、今でもわからない。だが、あの女の子は終わりのない留守番を課せられたのだということはなんとなくわかった。

 思わず俯いていると、祖母が祖父を叱りつける。


「なんですか、あなた。千尋の前でそんな話」


 祖父がハッとして、気まずそうに頭をかいた。


「すまんな、千尋。今のは忘れるんだぞ」


 僕は素直に「うん」と頷いたものの、あとで『不倫』やら『手切れ金』という言葉の意味を辞書で引こうと決意しながら、箸をすすめる。


 その隣で母親がため息を漏らした。


「可哀想に。千尋ね、そのお孫さんと今日、お友達になったらしいの」


「えぇ?」


 怪訝そうな顔をしたのは祖母だった。その声に、僕はむっとして祖母を睨む。


「あの子、とってもいい子だよ。僕と同じ、チヒロっていうの」


「んまぁ、やだやだ。あんな恥かきっ子と同じだなんて」


 まるで毛虫でも見るような顔で言った祖母に、祖父が「言いすぎだ」とたしなめる。しかし、勝ち気な祖母はこう言い捨てた。


「何が言いすぎですか、みっともないには違いないでしょう」


 僕は立ち上がり、思いっきり箸をテーブルにたたきつけた。


「ばあちゃんのバカ! そんなこと言うばあちゃんのほうがよっぽど嫌だ!」


 僕が反抗的な態度を示したのは、これが初めてだったと思う。祖母は顔を真っ赤にして何も言えずにわなわな震えていたし、祖父は箸を持ったまま呆気にとられていた。隣に両親もいたが、どんな顔をしているのか怖くて見れなかった。

 引っ込みがつかなくなった僕は、部屋に駆け込んで布団にくるまってしまったのだった。


 その夜、布団の中でいつしかうとうとしていた僕を揺り起こしたのは、父だった。


「千尋、風呂に行こう」


「……うん」


 僕は目をしばしばさせて、父に連れられて風呂に行った。少し開いたドアの隙間から、居間に母と祖父がいるのが見えた。


「ばあちゃんは?」


「お前にあんなこと言われたから、がっかりして寝ちゃったよ」


 しょんぼりした僕の頭を、父は乱暴に撫でる。


「ばあちゃんはな、口が悪いけど、気は悪くないんだ」


「本当? だったら僕、あの子と遊んでいい? 約束したんだ」


 父は脱衣所で僕の服を脱がせながら、「もちろん」と力強く答える。


「約束したなら、守らなくちゃいけないね。だけど、千尋もばあちゃんにひどいことを言ったんだから、明日、謝れるね?」


「うん」


 やがて、湯船の中で父はこう言った。


「なぁ、千尋。いろんな人がいて、自分が思っているより、この世界は知らないうちに動いているもんさ。いつかお前もわかるんだろうけど、わからないうちが幸せなのかもな」


 その声にはなんともやりきれない響きがあったのだった。

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