ねずみの潜水艦
とある星。
とある時。
とある地。
たくさんの人たちが戦っていました。
海には装甲で体を固めた戦艦たちが、もくもくと煙を吐きながら、両手で抱えられないほどの大きな砲弾を、とても大きな大砲で、とても遠くにまで飛ばして撃ちあっています。
陸には先込め銃がぱん、ぱんと掌の雷のような音を弾けさせては、白い煙に包まれて兵隊たちを隠してしまい、たくさんの命を飲み込んでいました。
アイスホライゾン湾。
そこは万年氷で閉ざされた、戦いの熱気だけが凍える氷原を溶かし現れる霧深い海です。決着を先延ばしにしてしまったものたちが流れ着く海域でありました。
そして、そこにいるのは一匹のねずみです。
彼の名前はキャプテン・ラット。
可潜水艦プッシュパイク号の小さな船長です。
体重はりんご二つぶんで、立派な帽子を特別にかぶることを許されたとても高貴なねずみです。
高貴なねずみキャプテン・ラット、彼は食料庫の食べ物を無断で食べることはありません。また『二本足の友たち』に噛みついて病気をうつすこともありません。
彼がその手に銃を持つこともおそらくはですがないでしょう。戦いは二本足の友たちのお仕事なのですから。
では、キャプテン・ラットはどうしてプッシュパイク号に乗っているのでしょうか?もし彼女が沈められてしまえば、キャプテン・ラットもまた冷たい水の底に沈んでしまうというのに。
「キャプテン!ウォールオブレッド号発見!」
丸い頭の水夫が大声で叫びました。
ウォールオブレッド号、それはプッシュパイク号のライバルの蒸気装甲戦列艦の名前です。真っ赤な彼女の体が、白い霧を赤く染めています。
戦いが始まろうとしています。
戦いの熱気が遮る氷を溶かしてしまいました。
これこそが、キャプテン・ラットの理由です。彼はただその命をかけてでも、二つの宿敵同士の戦いの瞬間を見届けたいだけなのです。
戦いを覗くというのはとても危ないことです。命を賭けることです。それでもキャプテン・ラットはいるのです。
二本足の友たちが忙しなく動き始めました。プッシュパイク号、彼女の心臓である蒸気機関にたくさんの石炭を食べさせます。大砲には弾をつめます。
戦いの始まりです。
キャプテン・ラットはいつもと変わらない特等席、窓の側に作って貰った特別な小屋から外を見ていました。
死ぬときは同じ。
キャプテン・ラットは戦いを見届けるためにここにいるのですから。それは敗北もまた覚悟していました。キャプテン・ラットの戦いではありません。しかし、彼の命を二本足の友たちに預けているのです。
「機関全速一杯、衝角支援砲撃ー!」
キャプテン・ラットは愛飲している葡萄酒を片手に、小さな体を揺らす騒がしさに身をゆだねました。
進め。
進め。
進め。
さざなみ高く、海を突き割り進め、プッシュパイク号。勝利とは生きること、敗北とは死ぬことです。
分厚い鉄の鎧に囲まれていても、沈むときにはあっけないものです。それでも沈むことは考えません。沈まないとも思っていません。
ただ揺れに身を任せてしまう。
それだけのことなのです。
ぐわわわん。
不気味な、鉄をぶつけられて、でも弾いた装甲の震える音が何度も続きました。背中がむずむずする変な感覚です。
こちらが大砲を撃ちます。
あちらが大砲を撃ちます。
それでも装甲は分厚くて、プッシュパイク号の中へと爆発する大砲の弾は飛び込んできませんでした。彼女が、キャプテン・ラットと二本足の友たちを守ってくれているのです。
いくつもの水柱が竜のように舞い上がります。優しい竜ではありません。その竜たちの体を作っているのは、二本足の友たちを何人もバラバラに吹き飛ばしてしまう大砲の弾なのです。
プッシュパイク号とウォールオブレッド号は撃ち合いながら近づいていきます。お互いの装甲はとても頑丈で、大砲の弾が全部弾かれてしまうからです。
でも、だからって沈められないわけではありません。彼女たちの船首には、衝角というとても頑丈で、体当たりで突き刺すための武器があるからです。
しかもプッシュパイク号には、何本も、何本もの棒が突き出していて、その先には機雷という爆弾が一つずつつけられています。
分厚い装甲。
石の壁も崩す鉄の大砲。
でも最後の決め手は、とても古い戦いかたです。騎兵たちが長い槍を持ち走っていた時代と同じことでした。
大声が響き渡っています。でもずっと鳴り続いていた、雷のような砲声は消えました。
冷や汗が手の裏を濡らし、手近なものを掴んで体がぴくりとも動かないように踏ん張っているからです。それはたぶんウォールオブレッド号も同じでした。
体当たりは、頭からお尻まで吹っ飛ばされてしまう、とても強い衝撃であるものだからです。
危ない!
いえ、このままで良いのです。
二隻の彼女たちは正面から猛然と突き進み、いささかの迷いもなく相手へと迫ります。
キャプテン・ラットの目には、ウォールオブレッド号が動く鉄の島のように見えていました。霧の雲を切り裂き、霧の雲を引きながら、真っ赤な島が迫ります。とても大きく、迫力です。
時間が静かになります。
波を切る音も。
蒸気機関の喧騒も。
忙しない二足歩行の友たちも。
大砲の弾の音も。
全てです。
キャプテン・ラットは帽子を被り直します。
……静寂は、いつまでも続きました。
キャプテン・ラットは見ていました。
プッシュパイク号とウォールオブレッド号は紙一重のぎりぎりで、お互いの衝角と横腹を擦らせるだけで避けきっていたからです。
ぎゃりぎゃりと金属が擦れ、火花が起きるたびに荒れる波が洗い消しました。霧から現れた彼女は、また霧の先へと消えていきます。
どうやら今日も引き分けで終わったようです。何度もキャプテン・ラットが見てきた戦いと同じでした。
しかし、また遠くないうちに戦うでしょう。宿敵とは運命であり、そういうものなのです。
「キャプテン・ラット、お疲れ様」
二本足の友たちが、キャプテン・ラットに堅いパンの切れ端を一つ渡してくれました。
キャプテン・ラットにとってプッシュパイク号とウォールオブレッド号の戦いを見届けることはとても大切なことです。
例え二本足の友たちが、足も顔もない幽霊たちであってもかまいません。ずっと一緒にいたのですから。
昔と比べれば、少しだけ姿形が変わっていますけれどね。キャプテン・ラットが彼女と彼らから離れることは、今しばらくはないでしょう。
だって、戦いが終わったときには必ず、食べ物をわけて貰えるのですから。