天使
ベルはハッと身を起こし、周囲を見回した。
「アル! ロニー!」
倒れていた二人を脇に抱え、駆け出したベルは――いくらも進まずに足を止めた。
少し離れた場所にベスとクロエが倒れている。振り返ると、燃え盛る瓦礫がトンネルを埋めていた。
「……」
道を塞ぐ瓦礫の炎が、ゆらゆらと二人の姿を照らした――
「ベル……」
不意に聞こえた声をハッと振り返った。
「ユーゴ! 一体何処に――」
言いかけて、もう一度瓦礫を振り返った。
「……そうか」
――ベルは、全てを悟った。
「すまねえな……もう少し、上手くやれると思ってたんだけどな……」
そう言って、抱えていたアルとロニーを下ろした。
「僕らは……死んじゃったの?」
そう尋ねるロニーへ、ユーゴは穏やかに頷いた。
「そっか……」
妙に落ち着いた様子のアルとロニーは、それを不思議そうに見つめるベルの手をギュッと握り締めた。
「僕はアルマが居てくれたから……」
チラとアルマを振り返り、ユーゴは二人と顔を見合わせて微笑んだ。
じっと子供達を見つめていたベルは――二人の手を握り返し、膝をついてユーゴと向き合った。
「その娘は?」
穏やか笑みを浮かべ、そっと尋ねた。
「アルマっていうんだ。僕のお友達」
「初めまして。アルマと申します」
堅苦しい大人を真似をしているような、背伸びをしたアルマをベルは楽しげに見つめた。
「ベルだ。こっちはアルとロニー、ユーゴの兄だ」
その時、ロニーの体がふわりと浮き上がった。
全てを理解したように――三人は空を見上げ、ベルとアルの体も浮き上がった。
「そっか……行かなきゃいけないんだ……」
ベルは、浮き上がる様子のないユーゴとアルマに手を伸ばした。
「ユーゴ、アルマ」
――ふと、ユーゴは思った。このままベルの手を取って、一緒に……。
しかしその思いを押しのけ、芽生えた決心が心を満たした。
それに応えるように、無意識に力のこもる手をアルマが握り返した。
「大丈夫。僕らはやる事があるんだ」
「そか……」
ベルは頷き、気を失っているベスとクロエに目を向けた。
「ベス! クロエ! 起きろ!!」
どんな結末を迎えようとも、全てを見届ける。二人は心を決めた。
大きく手を振り、星々の中へ消えてゆく三人を見送った――直後、いつの間にか隣に居たベスがぺたんと座り込んだ。
『ベス! 立って!!』
虚ろな瞳で、ベスは行く手を塞ぐ瓦礫を茫然と見つめていた。
『ベス!! 逃げて!!』
不意に、ベスは瓦礫の中へ手を伸ばし、潰れかかった懐中電灯を掴み取った。
すくりと立ち上がり、クロエを起こすと同時に手を取って猛然と駆け出した。
「クロエ! 立って!」
揺れる地面に足をとられたクロエを引き起こし、彼女を庇いながら駆け続けた。
頭上では大きな爆発音が絶え間なく響き続け、崩落した天井から入り込んだ炎が、二人を追い立てるように煙を吐き出した。
鬼気迫るベスの顔に、クロエは恐怖すら感じた。だが、固く握られた手から伝うベスの震えが、どういう訳か彼女を安心させた。
やがて……瓦礫に行く手を阻まれ、二人は踵を返した。その時――一際大きな揺れが襲い、崩れ落ちた天井に退路を塞がれてしまった。
閉じ込められた二人の足下に、瓦礫の隙間から煙が立ち込めた――
ベスは道を塞ぐ瓦礫を掘った。指先に滲む血など意に介さず――土を掘り岩を押し退け、コンクリートの欠片を掘り、塊を押し退けた。煙に咽せながら、時折不安定に揺らぐ灯りを頼りにベスは掘り続けた。
――押したコンクリートがすとん奥へ抜け、小さな穴へ通じた。土管の一部のようなそこから、吹き込む微かな風を感じた。新鮮な――外の空気だ。
だがこの空間の空気を入れ替えるには及ばない。まして二人が入れるような穴ではない。
振り返ると――煙の中にクロエが倒れていた。
「クロエ! 起き――」
ベスは立ち上がろうとして――ぐらりとよろめいた。すぐそこに、死が迫っていた。
歯を鳴らし、クロエを穴へ引きずった。クロエにベニーちゃんと懐中電灯を抱かせ、穴に押し込めた。自分でも不思議なほど、これっぽっちの迷いもなくそう動いていた。
痺れる手足に鞭を打ち、朦朧とする意識と頭痛の中で、穴を埋め隙間に覆いかぶさった――
やがて……身を起こしたベスは、ぼんやりと自分の手を見つめた。
「あれ……? あたし……」
傷一つない、綺麗な手だった。
さっきまであれほど痛かったのに――痛みは嘘のように消えていた。それだけではない。頭痛も、息苦しさも、恐怖も……まるで夢から覚めたように無くなっていた。
「ベス……」
顔を上げると、ユーゴが立っていた。
「あっ……ユーゴ! 探してたんだよ!」
そう言って、思い出したように周囲を見回した。
「そうだ……逃げないと! あのね、穴を掘ったの、でも一人しか入れなくて――」
立ち上がろうとするベスを、ユーゴは優しく抱き締めた。
「もう大丈夫」
「ユーゴ、早く逃げないと!」
「大丈夫。もう終わったんだよ」
「……本当に? もう逃げなくていいの?」
「うん」
その時、ユーゴの隣に立つ女の子に気が付いた。
「だあれ? ユーゴのお友達?」
「うん。アルマっていうんだ」
「初めまして。アルマと申します」
大人びた挨拶をする彼女が気に入ったのか、ベスは声を弾ませた。
「あたしベス。こっちはベニーちゃん」
いつの間にか手元に現れていたベニーちゃんも、汚れやほつれのない綺麗な姿をしていた。
その時、ベスの体がふわりと浮き上がった。
「あ……。行かなきゃいけないんだ……」
空を見上げ、ベスは呟いた。
「大丈夫。僕らもすぐに行くから。皆も向こうで待ってる」
「うん。じゃあ後でね!」
ベスを見送り、ユーゴは蹲った。しかし、込み上げる涙を押し返してすぐに立ち上がった――
※
アイカは、朦朧とする意識の中で、霞んで行くマルクの声に耳を澄ませた。四肢の感覚は消え、開いているはずの瞳には濃い闇が広がっていた。
あらゆる感覚が遠退き、意識が途切れ――
「ユーゴ?」
「アイカ……ごめんなさい」
ユーゴを見た瞬間、彼女は全てを悟った。
「ずっと……居たの?」
「何にも出来なかった……」
アイカは、今にも泣き崩れてしまいそうなユーゴを優しく抱き寄せた。何時ものように、キュッと胸に抱きしめた――
「ごめんね。気が付けなくて……」
「僕がちゃんと帰ってれば……ごめんなさい」
しゃくり上げるユーゴを優しく撫で、側に佇むアルマを見つめた。
「お友達?」
「うん……」
「初めまして。アルマと申し――」
「いらっしゃい」っと、最後まで聞かず、アイカはアルマも抱き寄せた。
二人を胸に抱き、アルマに尋ねた。
「お名前は?」
「アルマ……」
「私はアイカ。会えてうれしいわ」
アルマの瞳に、じわりと涙が滲んだ。
「私も……」
アイカを抱き返す腕に、キュッと力がこもった。
やがて――
アイカの体がふわりと浮き上がった。
「もうみんな町を出たのかしら……?」
「……うん」
「あなた達は大丈夫なの?」
「うん。大丈夫」
ハッキリとそう答えた二人を見つめ、アイカは目を細めた。
「そう……。じゃあ、私も皆の所に行くね」
そう言うと、浮き上がった体を目一杯伸ばしてマルクの頬に手を添えた。
「マルク……いつか、きっと――」
◆
――引き戻される女の手を見つめ、マルクは呻いた。
「何だよ……」
「……」
「何なんだよ!!」
堪え難い震えが、絶え間なく全身を駆けた。広がる波紋のように、頭の先へ、足の先へ……腹の奥から、次々と――
「俺達が何をした!? なんで……何で俺達が……! 皆が死ななくちゃならないんだ!? 何で皆が! ユーゴが殺されなくちゃならないんだ……!!」
体を縛る見ない縄を引き千切るように、身を乗り出して叫び続けた。
「外の事情なんて関係無い!! 好きにすればいい!! ずっとそうだったじゃないか……! こんな時ばかり俺達を巻き込むな!!」
腹で蠢くものを押さえるように、マルクは踞った。
「ユーゴ……アル、ロニー、ベス……クロエ、ベル……アイカ……」
擦れた声で、苦し気に吐き出した。
「……何で、何で……俺だけ生きているんだ……」
僅かな沈黙の後、じっとマルクを見下ろす女の声が響いた。
「特に――」
「意味はないわ」
相変わらず、無機質な声だった。
「生も、死も、ただそうあるだけ。そこに意味も意思も無い。ただ、受け入れるだけよ」
顔を上げた先で――ガラス細工のように澄み切った、美しい瞳が自分を見下ろしていた。
見栄も、意地も、建前も――心を鎧う全てを貫き、その奥へ差し込んで来るような、冷たい眼差しだった――
「それを出来ない者が、この本を開く」
挑みかかる様に見上げるマルクへ、女は淡々と続けた。
「誰かの復活を? それとも復讐かしら?」
「……」
「貴方の望みを、伺いましょう」
丸裸にされた心を覗かれているような気がして……マルクは思わず目を伏せて絞り出すように呟いた。
「……一人……だけなのか?」
「ええ。命を戻すも、奪うも、どちらか一つだけよ」
「……」
皆の顔が、記憶が――走馬灯のように駆け巡った。呼吸は乱れ、食い縛った歯が悲鳴を上げた――
「マルク!」
声と同時に、マルクの頬に小さな手が触れた。
「……ユー……ゴ」
顔を上げると、そこにはユーゴが立っていた。
「ごめんなさい……。僕がマルクの言うことを聞かなかったから……」
考えるよりも早く、マルクは手を伸ばした。幻覚でも何でもよかった。
しかし、伸ばした腕は確かにユーゴを抱きしめた。
「すまない……すまないユーゴ! 絶対に、お前達を守ると決めたのに……。守れると思っていた……すまない。すまない……」
その時、涙で滲む視界にアルマの姿が映った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……私のせいで……」
マルクは手を伸ばし、ユーゴと共にアルマを抱きしめた。
「……お前のせいじゃない」
この小さな二人が……不憫で、愛おしくて……こみ上げる想いが殺到し、喉が詰まった。
しかし、とめどなく込み上げる想いを、マルクついに言葉に変える事は出来なかった。次々と頬を伝い、胸に抱く二人へ注いだ。
やがて――
ユーゴとアルマは、そっと体を離した。
「もう行かないと……」
「そっか……」
マルクは二人の手を握り、ふと顔を取り繕った。
「ところで……ユーゴ。この美人を……紹介してくれないのか?」
二人は顔を見合せ、何処か照れ臭そうにクスクスと微笑んだ。
「アルマっていうんだ。僕のお友達」
「アルマと申します」
「マルクだ」
マルクは、真っ直ぐにアルマを見つめて微笑んだ。
「アルマ。ユーゴをよろしくな」
「はい」
顔を戻したマルクへ、ユーゴは思いがけない事を告げた。
「あのね、マルク。クロエは生きてるよ」
「本当か……?」
「うん。ベスが守ったんだよ」
誇らしげにそう言い、じっとマルクを見つめた。
「お願い、マルク。クロエを助けてあげて」
「……ああ。今度こそ……今度こそ、絶対に守ってみせる」
にっこりと微笑み返したユーゴとアルマの姿は、瞬いた間に消えていた――
「ユーゴ? アルマ? ユー……」
呆然と視線を漂わせ……拳を打ち付けた。
「……こんな」
絶え間なく湧き出す思いは、言葉になるよりも早く次々と姿を変え――行き場を失ったそれが、耐え難い熱と震えとなり全身を駆けた。
「こんな……! こんな事!!」
理不尽を、不条理を――
涙で洗い流そうとしているかのように、マルクの慟哭が響き続けた。
◆
――やがて。
立ち上がったマルクは顔を拭い、ぽつりと呟いた。
「……行かないと。クロエが待ってる」
「そう……。一度閉じれば、もう二度とこの本を開く事はできないわ」
「……」
「良いのね?」
無言で背を向け、歩み出したマルクへ――女は静かに語りかけた。
「生も、死も、理不尽よね……」
思わず――マルクは足を止めた。
「平等は言葉の上にしかなくて……でも、それが本当に在るかのように振る舞う。生も、死も、そこに意味が、意思が在るかのように振る舞う。理不尽で、不条理で……」
振り返ったそこには――ガラス細工のように美しく、脆く、暖かい――人間らしい瞳がマルクを見つめていた。
「でも――それに抗う貴方の心は、確かに在る。確かな意思が、意味がある。私はそう信じているわ」
そっと、マルクは本を閉じた。
去り際に見せたのは笑みか、泣いていたのか――はきとは分からなかった。
黒い部屋で一人、女は天を仰いだ。
「私にも、まだ残っていたのね……」
頬を伝った滴へ指を伸ばし、その感触を噛み締めるように手の中へ握り込んだ。
「願わくば――」
瞳を閉じ、天に瞬く無数の世界へ呟いた。
「彼らの魂が、再び巡り会わん事を……」
そう祈らずにはいられなかった――
――ふと、
椅子に誰かが座った。
「ようこそ」
女の声が響いた。
抑揚のない、無機質な声だった。
その瞳はガラス細工のように美しく――心の奥へ差し込むような、冷たい眼差し――
マルクが去り際に見たものは、もう何処にも無かった。
「お待ちして居りましたわ。デリック警部」
2022/04/22微修正