戦渦
「――二日後に一度顔を出してくれ。新しい袋を渡す」
その声に送られ、ヒッグスの元を辞した時には日が傾き始めていた。
いつもはここで空の袋を受け取るのだが……。
「ちょっと手違いがあってな。今は渡せる袋がない」
ヒッグスはそう言った。
しかし、空袋は何時もの場所にちゃんと積まれていた。
マルクは訝しく思いつつも、自分には分からない事情があるのだろうと深くは考えなかった。
去り際に見たヒッグスの顔を思い浮かべ、マルクはぼんやりと路地を歩いた。
ヒッグスは、何時ものヒッグスだった。何もかも見透かすような鋭い瞳と、たとえ銃を突き付けられても微塵も動じないであろうどっしりとした居住まい――
酒を飲みながら身の上を語った……あれが本当の彼なのだろうか?
そんな事を思い廻らせていたマルクは、不意に飛んだ鋭い声で我に返った。
「マルク!」
「……デリック」
振り返ると、鋭い視線を送るデリックの姿があった。
何時ものように無視してあしらおうとしたマルクだったが……デリックの様子も、何時もとは何処か違った。
「……なんだ?」
足を止め、思わず返事を返していた。
デリックは一度も目を逸らさず、じっとマルクを見据えて歩み寄った。
「ヒッグスの所か?」
「ああ……」
「最近、ジルの所へは顔を出していないみたいだな」
デリックは暗に、最近上納金の不足がない事を言っているのだろう。
「だったらなんだ?」
憮然と返したマルクへ、デリックの口から思いもよらない名が飛び出した。
「ユーゴはどうしてる?」
「ユーゴ……?」
「……」
「……ユーゴがどうかしたのか?」
探るように尋ねるマルクをじっと見つめ、デリックはふと顔を和らげて首をふった。
「いや、忘れてくれ」
「なんだよ……、ハッキリしろよ」
「……昨日、線路の向こうに居た」
「ユーゴが? まさか」
「ちゃんと戻っているのならいい」
そう言うと、デリックはバツが悪そうに言葉を続けた。
「最近、向こうで金が貰えるとかって話を持ちかけている奴が居るらしくてな。……すまん」
「……」
露骨に顔を顰めたマルクだったが、ハッと聞き返した。
「まさかユーゴが……」
「お前が知らないのなら多分違う。あまりきつく責めないでやってくれ」
そう言うと、デリックは通りがかった一団をやり過ごしてマルクのポケットへ数枚の紙幣をねじ込んだ。
「なんだよこれ……なんのつもり――」
突き返そうとするマルクの腕を掴み、デリックは顔を寄せて囁いた。
「七日後にここは戦場になる。今すぐ町を出ろ」
「……」
「いいな?」
ヒッグスが唐突に語った身の上、彼の頼み……何故、袋を渡さなかったのか――
デリックの言葉で、ようやくその意図を理解した。
去って行くデリックの背を呆然と見送り、我に返ったマルクは踵を返して駆け出した――
「アイカ!」
「マルク……どうしたの?」
配達の途中だったアイカは、突如現れたマルクに腕を掴まれ、引きずられるように歩いた。
「ちょっと――どうしたのよ?」
「すぐに町を出る」
「すぐって……行き先は? それにまだお金も十分に――」
マルクは人気のない細い路地へとアイカを引きずり込み、周囲を窺うと顔を寄せて囁いた。
「七日後に侵攻が始まる。巻き込まれる前に出るんだ。明日の昼、貨物車に潜り込んでリバーウッドの町へ向かう」
「……間違いないの?」
マルクは、探るように目を覗くアイカをじっと見据えた。
「ああ……。すぐに皆を呼び戻すんだ」
「……これをお願い! 私は町の中を、マルクは外を見てきて!」
抱えていた荷物を押し付けるように渡し、路地を飛び出したアイカに続き、マルクも路地を飛び出した。
◆
――一夜明け、日が暮れるとデリックは再びヒッグスの元を訪れた。
マルクが訪れるものとは反対の扉から部屋へ入り、集まっていた面々を訝しげに見渡した。
どれもレジスタンスの中核を担う者達だ。その全員が集まっていたわけではないが……何れにせよ、こうして一同に会す事など滅多にない顔ぶれだ。
「こりゃ……どういう事だ?」
ヒッグスに促され、そっと後ろ手に扉を閉めてデリックもその一団へと混じった。
「ここに集まってもらったのは、絶対に信用できると言い切れる者だけだ」
そう前置きし、ヒッグスは集まった面々を鋭く見渡した。
「夜明けに作戦を決行する」
どよめいた面々を制し、言葉を続けた。
「……昨日、国境で動きがあった。北の基地も慌ただしく動いている。
半信半疑だったが……こちらの動きが漏れていると見て間違いない。直前まで決して誰にも漏らすな。特に、一昨日七日後と伝えた者とその周辺に警戒しろ――」
路地に止めた車へ乗り込み、デリックはタバコに火を点けた。
「野暮用はお済みで?」
待ちぼうけを食わされ、助手席で待っていたオスカーが嫌味っぽく尋ねた。
「……オスカー」
「はい……?」
「作戦に加わっていない者達の退避を始めろ」
「それはどういう……」
「夜明けに決行だ」
「え……?」
デリックはこの手の冗談は言わない。だが、つい先日七日後と聞かされたばかりだ。
「本当なんですか……?」
「ああ。夜明け前にレジスタンスが駐留部隊に攻撃を仕掛ける。手筈通りにやれ」
「待って下さい、それは連合軍の――」
「そうだ。向こうからの指示だ。敵を欺くにはってやつだ。国境に迫っている部隊は陽動だ。本命はお隣から来る」
「隣? まさか、同盟国ですよ」
「話がついたらしい。作戦の発動と同時に同盟の破棄を宣言するそうだ。もう部隊は入国済みだ」
淡々と答えるデリックとは対照的に、オスカーは俄に色を失った。
「まさか……そんなこと……」
呆然としたままのオスカーへ、デリックは声を荒げた。
「何をしている! 早く行け!」
我に返り、彼はすぐさまデリックに向き直った。
「け、警部も――」
「何度も言わせるな!」
デリックは銃を抜き、オスカーに押し当てた。
「時間がないんだ……。早く行け」
「……」
押し当てられた銃に力が篭り、デリックの瞳には強い決意が漂っていた。
「……分かりました」
車を降りたオスカーへ、デリックはふと微笑みかけた。
「後は頼むぞ。その時が来たら……コルネオによろしくな」
「警部、気が変わったら――」
最後まで聞かず、車はオスカーを残して荒々しく走り去った。
◆
――その夜、デリックは路地に身を潜め、通りを見つめていた。
ジリジリと燃えるタバコが赤々と時計を照らした。
「……」
夜明けまであと数時間。目を戻し、疎らに見える人影に視線を走らせた。どれも駐留部隊の兵士ばかりだ。
もっとも、市民がこんな時間に外出する事は禁じられている。そういった者達を、デリックは捕まえ、時に撃ち殺した。
間もなく始まる戦闘を思い描き――そこに自らの姿を描き加えた。
あの兵士達と共に、同志の放った銃弾に倒れる――
「それも悪くねぇかな……」
薄い笑みを浮かべ、再び時計に目を落とした。
「あいつらはもう国境を越えた頃か……」
何処か寂しげに呟いた。
その時、駆け抜けた気配を振り返り、我が目を疑った――
裏路地を駆けるマルクは不意に腕を捕まれ、ギョッと振り返った。
「デリック……」
「何故ここに居る!? 町を出たんじゃないのか!?」
「デリック、ユーゴを見てないか!?」
「ユーゴ……?」
「昨日から戻ってないんだ! 何処かで見かけなかったか!?」
その時――接近するけたたましいエンジンの唸りが二人会話に割り込んだ。
通りを数台のトラックが駆け抜け、デリックはそれを追うように路地を飛び出した。
「なんてこった……」
デリックに続き通りを窺ったマルクは、眼前の光景に言葉を失った。
制止する兵士を撥ね飛ばし、車列は止まる事なく駆け抜けて行く――
最後尾を走るトラックが停車したかと思うと、荷台から武装した男達が次々と飛び降りた。男達は駆けつけて来る兵士達へ銃を向け、瞬く間に激しい銃撃戦が始まった。
周囲の建物からも次々と銃声が鳴り響き、着の身着のままに逃げる兵士達へ銃弾が降り注いだ。
「クソッ!」
デリックはマルクの腕を掴み素早く路地へ引き返した。
「なんだよこれ……まだ先じゃなかったのかよ!?」
「予定が変わったんだ!」
喚くマルクを力任せに引き寄せ、デリックは胸ぐらを掴んで声を荒げた。
「皆を連れてすぐに逃げろ! とにかく今は逃げろ!!」
その時、現れたレジスタンスの一団が二人に銃を向けた――
しかし、狙いは二人の向こう――通りを駆ける駐留部隊の兵士達だ。
咄嗟に左右の路地へ身を隠した二人の間を次々と銃弾が駆け抜け、これに応じた兵士達と激しい銃撃戦が始まった。
「行け!! ユーゴは必ず送り届ける!! 早く行け!!」
マルクは歯を鳴らし、向かいの路地から叫ぶデリックへ頷いた。
「北側へは行くな!! 絶対に地下を通るな!!」
マルクの背を追った叫びは――立て続けに響いた爆音にかき消され、追い付く事はなかった……。
「ベル! アイカ!」
マンホールを開こうとしていた二人の元へマルクが駆け寄った。
「どうなってんだよ!? まだ先じゃなかったのか!?」
「俺に聞くな!!」
「いいから二人とも手伝って!!」
言い争う二人へ、アイカは半ば裏返った声で叫んだ。
――ようやく蓋を開いたその時、通りがかった兵士の一団が叫んだ。
「居たぞ!」
言うが先か、彼らは躊躇なく銃を向けた――
マンホールに近かったベルは咄嗟に中へ飛び込み、一歩遠かったマルクとアイカは脇の路地へ転がり込んだ。
ばら撒かれた銃弾が火花を散らし、口惜しげな唸りが二人を包んだ。
「後で合流する!! 皆を連れて先に行け!!」
力の限りにそう叫び、マルクはアイカの手を取って駆け出した――
レジスタンス達はそれと分かる格好をしているわけではない。見た目は市民と何ら変わらず、見分ける術を持たない兵士達は目についた市民へ無差別に銃を向けた。
銃声、爆音、怒号、悲鳴――各地で一斉に巻き起こったそれらは町を包み、地下へも降り注いだ。
子供らの集まる地下の一室は、今にも破裂してしまいそうな緊張に包まれていた。
住み慣れたこの空間が、身に馴染んだこの暗さが、揺れるランタンの灯りが、とても心細かった。
頭上から響く音に耳を済まし、身を寄せ合った。
ふと――駆けてくる足音が響いた。咄嗟に灯りを吹き消し、闇へ同化するように息を潜めた――
現れたのは、ユーゴを探しに出ていたベルだった。
「みんな無事か!?」
かざしたランタンの向こうに子供らの姿を認め、ベルはホッと胸を撫で下ろした。
「ベル!」
一斉に駆け寄った子供らを受け止め、直ぐに彼らを促した。
「逃げるぞ! 遅れるなよ!!」
「……ユーゴは見つかったの?」
アルの問いに、ベルは即座に返事が出来なかった。事実を言うべきか否か……だが、その一瞬の迷いが、結果的に事実を伝えた。
「置いて行くの……?」
ベルは膝をついて子供達を見回した。
「これ以上もたもたしていられないんだ。ユーゴは必ず迎えに行く。だから、今は従ってくれ」
――ランタンの灯りを頼りにベルは走った。時折子供らを振り返り、人数を確かめた。
しかし、彼は何処へ向かえば良いのか分からなかった。どっちらへ向かっても頭上で響く銃声と爆音は付てきた。
「何処に向かえばいいんだよ!」そう叫びたくなるのを堪え、ベルは地下をひた走った――
ふと角を曲がったその時、浴びせられた光に目が眩んだ。
「止めろ!! 撃つな!!」
咄嗟に叫んだその声に、聞き覚えのある声が応えた。
「……ベルか?」
「ネイト……?」
ホッとする間もなく、銃を手に駆け寄ったネイトがベルに掴みかかった。
「何してんだ!? 町を出たんじゃないのか!?」
しかし、ベルが言葉を返すよりも早く、近づいてくる別の足音を捉えたネイトは銃を構えてベルを促した。
「行け! 急げ!!」
促されるまま、駆け出したベルは通路を塞ぐように積まれた土嚢の向こうへ次々と子供らを手渡した。
最後に土嚢をを乗り越えたベルへ、側に居た男が懐中電灯を手渡した。
「持っていけ。使い方は分かるな?」
頷き返すと、男は言葉を続けた。
「知ってると思うが、北側――」
その時、立て続けに銃声が響き、土嚢を越えたネイトが滑り込んだ。
一帯は瞬く間に反響する銃声に包まれ――舞い散る火花と発火炎が、視界に映るものをコマ送りのように切り取った。
「行け!! 走れ!!」
その声に押され、ベルは子供らを連れて駆け出した。
一方、マルクとアイカは――
「ここもダメだ……」
マンホールに取り付いていたマルクの声に絶望的な響きが混じった。
飛び交う銃弾をかい潜り、二人は地下へ降りる道を探していた。
しかし、二人が取り付いた蓋はびくとも動かず、更には地下へ降りる兵士達を目にし、焦りと緊張は頂点に達していた。
「そんな……この間まで何ともなかったのに……」
「多分……レジスタンスが塞いだんだ」
その時、何かに気が付いたマルクはハッと周囲を見回し、建物沿いに僅に口を開けた排水口へ駆け寄った。
小さな鉄格子に顔を押し付け、力の限りに叫んだ。
「ベル!!」
先ほどマンホールに取り付いていた時、微かにベルの声を聞いた気がしたのだ。
「ベル!!」
「ベルがいたの!?」
「声が聞こえた!」
アイカも格子に顔を押し付け、力の限りに叫んだ。
「ベル!!」
程なく、二人の呼びかけに応えるように声が聞こえ、格子を見上げるベルに続き子供らが姿を見せた。
「マルク!」
「アイカ!」
格子に駆け寄る皆の姿を目にし、マルクとアイカはホッと胸を撫で下ろした。
「みんな無事か?」
「大丈夫だ」
「入り口が塞がれてて入れないんだ」
「こっちも出るに出れない。内側から溶接されてる」
「クソッ……」
「俺達はこのまま北へ向かう。国境を背に進めばいくらか安全なはずだ」
そう言って、ベルはまくし立てるように続けた。
「基地の近くから川辺に出られたはずだ。どさくさに紛れて川を渡って、隣へ行こう」
「分かった。俺達も北へ向かう。一先ず川で合流しよう。渡るかどうかは様子を見てからだ」
そう返し、ベルをじっと見据えて付け加えた。
「もしもの時は……皆を頼む」
ゆっくりと頷いたベルの瞳に、強い決意と覚悟を見たマルクは、ふと表情を和らげた。
「北側は崩れやすい。気を付けろよ」
話が纏まると、アイカが子供らに呼びかけた。
「いい? ベルの言う事を聞いて、しっかり付いて行くのよ」
子供らに優しく微笑みかけ、二人は川を目指して駆け出した――
迫る敵を迎え撃つべく、国境へ向け基地を発った部隊へレジスタンス達が攻撃を加え、町中が戦場と化していた。
見慣れた風景は一変し、炎と銃弾が二人の行く手を阻んだ。加えて、足の鈍る二人を嘲笑うように、白み始めた空は身を潜める闇を溶かしてゆく――
もう皆は基地の近くへ辿り着いているはずだ……。
基地へ向かう僅かな距離が、時間と共に引き伸ばされて行くようで……二人は歯を鳴らし逸る心を抑えた。
――その時、空が嘶いた。
頭上に落ちるかと思われたそれは、二人の眼前に悪夢を産み落とした。
北側で幾つもの爆炎が上がり、地揺れと轟音を撒き散らした。
「そんな……」
「なんで……国境はこっちじゃないだろ……」
降り注ぐ砲弾が地を抉り、宙を舞う土砂と瓦礫が二人の心に絶望を注いだ。
地を伝い腹の底で暴れる衝撃が、巻き上がる黒い煙と赤黒い炎が、皆の断末魔のように思えた……。
だが……立ち尽くすより他に、二人は為す術を持たなかった。
……いつしか、二人は見つめ合っていた。言葉はなく、互いの瞳に浮かぶ覚悟を見つめた――
※
同じ頃――
突入部隊を率いたヒッグスとハンクは、銃撃戦を制して総督の邸に踏み込んでいた。
ヒッグスは、一階の一室に集められていた使用人達を前に尋ねた。
「奴は何処だ?」
その問に、彼らはただ首を振るばかりだった。
「他を見てくる。ここを頼む」
側に居た手下を数名残し、ヒッグスが背を向けた――その時、四十絡みのメイドが追いすがるように彼を追って駆け出した。
「待って下さい!」
銃を向ける手下を制し、ヒッグスは彼女を部屋の外へ連れ出した。
「グレンダか?」
「はい。あの、お嬢様は……?」
彼女が、デリックに情報を流していたその人だ。
「こっちが聞きたい。奴は何処だ?」
「……分かりません。日暮に集められて、それかずっとあの部屋に……」
「奴も、娘も居ない」
「……」
互いの言に嘘が無い事を探るように、じっと視線を交わす二人へ、階段から身を乗り出したハンクの声が割り込んだ。
「ヒッグス、こっちだ」
――そこは、寝室の隣に設けられた一室だった。扉はクローゼットの奥に隠されていた。
扉を囲うように集まった面々をかき分け、現れたヒッグスへ別の男が声をかけた。
「中から声が聞こえた」
頷き返し、扉を打ち破ろうと構えたジルの肩を掴んだ。
「殺すなよ。消えた連中の行方を聞き出さなければならない」
「片目を抉った程度じゃ死なんさ。それに、どのみち死ぬしかない奴だ。連中も生きちゃいまい」
「ダメだ。堪えてくれ」
鋭くジルを制し、ヒッグスは一歩下がって銃を構えた。
打ち下ろされた銃床が鍵を壊し、一斉に室内へ雪崩れ込んだ――
しかし、そこに期待した人物の姿は無かった。
次々と銃を下ろし、立ち尽くした。だが、落胆や逃がした事を悔やむ声はなかった。
予想だにしなかった異様な光景に、皆言葉を失っていた――
そこには、一家の団欒があった。
テーブルを彩る料理の数々、美しい立ち姿の給事達。
料理が並ぶテーブルを挟み、向かい合わせに座る身なりの良い幼い少年と少女。間に座る母が、二人へ微笑みかけていた。
……ただ、父が座るべき椅子は空いていた。
先頭に立つジルは、ゆっくりと彼らへ歩み寄った。
テーブルを彩る料理は、蝶を呼ぶ花のように――湯気と共に芳しい香りを漂わせてもなんら不思議はなかった。
だが、歩み寄ったジルにそれは届かない。何故なら、それらはみな作り物だからだ。精巧に作られてはいるが……食べ物ですらない。そして――
ジルは手を伸ばし、指先で少年の頬をそっと撫でた。
「ユーゴ……」
柔らかな感触に瑞々しい弾力――くるりと目を動かし、はにかんだ笑顔を向ける……そう思えた。
しかし、ユーゴはじっと動かない。柔らかな頬の感触とは裏腹に、氷のように冷たかった。
「お嬢様……」
立ち尽くす者達をかき分け、顔を出したグレンダは扉にすがるように崩れ落ちた。
一つだけ空いていた椅子が、大きな音と共に弾き飛ばされた。
「クソッ……!」
ヒッグスは顔を歪ませ、蹴り飛ばした椅子を忌々しげに睨み付けた。
北から届く轟音が部屋を包み、微かな地揺れを感じた。
その時――脱け殻となった少女とユーゴの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
一つ、また一つと、瞼の裏からとめどなく流れ出た。
涙を拭うように、ジルはユーゴの頬をそっと撫でた……。
「……魂は。まだここに居るのか……?」
響き続ける爆音の隙間に、ジルの呟きが滑り込んだ――
※
北を目指すマルクとアイカは、銃弾の飛び交う通りを駆け抜け砲火の中へ飛び込んだ。
誰もが、この砲火から逃れようと必死だった。鉢合わせ兵士達も、最早彼らに銃を向ける事はなかった。砲火の中心を目指す二人に背を向け、走り去った。
砲弾は容赦なく降り注ぎ、地を抉り周囲の建造物を突き崩した。触れる物全てを、砂にでも変えているように思えた。
揺れる地面に足を取られ、爆風によろめきながらも二人は駆け続けた。
最早……誰も生きてはいまい。
口にこそ出さないが、二人の覚悟は同じだった。
だが、あの悪夢の下に皆が居る。それを知っている以上、それが過ぎ去るのを待つなどということはできなかった
例え死しても、皆の元へ……。
一歩でも近くに、一秒でも長く――
本能にも似たその衝動が、二人を突き動かしていた。
例えマルク一人、アイカ一人だったとしても、それは変わらなかっただろう。互いの瞳にそれを見た二人は、言葉にする間も惜しむように走り続けた。
もしも、この場にデリックが居合わせていたら……足を撃ってでも止めただろう……。
――崩れた建物の隙間へ滑り込み、僅に残る壁に背を預けて息を整えた。
マルクは機を窺い、再び駆け出そうと身構え――ふとアイカを振り返った。
「アイカ……?」
真後ろに居るとばかり思っていた彼女の姿はそこには無く……距離を空け、苦し気な顔で壁に背をもたせていた。アイカは背を擦り付ける様に、ずるりと蹲り弱々しく呟いた。
「ゴメン……マルク……」
アイカの腹部から、ボタボタと血が滴った――
「アイカ……!」
駆け寄ったマルクを、アイカは突き飛ばすように押し戻した。
「行って! お願い……」
「置いてなんて行けるか!」
マルクは肩に手を回し、彼女を引きずって走った。
アイカの手は冷たく、既に多くの体温が失われていた。冷えきった手を握り、マルクは声をかけ続けた。
「もう少し! もう少しだ!」
まだ形の残る建物の陰へ逃れ、アイカを横たえて傷口を改めた。
しかし……手の施しようはなく、手をあてがい溢れ落ちる命を塞き止めようと傷口を押さえた。
撃たれたのか……爆風にやられたのか……一体何時から堪えていたのか……飛び散った血の縁は乾き始めていた。
「………行きたかっ……たな……」
青白い唇を震わせ、アイカは呟いた。
「みんなで……。新しい……町で……」
小刻みに体を震わせ、アイカはうわ言のように呟き続けた。
「行けるさ。……皆で行くんだ」
「……私は。いつか……マルクの……子を産んで……」
アイカの震えは酷くなり、焦点の定まらない瞳を泳がせた。
「マルク……何処……マルク……」
「ここに居る!」
アイカの手を取った――その時、彼女の瞳が何かを捉えたように動き、震えがピタリと治まった。
「……ユー……ゴ」
「ユーゴ……?」
「……っと……たの……?」
アイカの視線の先には――炎と瓦礫、巻き上がる土煙しかなかった。
「……皆の……所に……」
微かに動くアイカの唇から読み取れたのはそれだけだった。
握った砂が逃げるように、彼女の体から――彼女が霧散して行くのを見届けた。
「ああ。行こう」
アイカの手をそっと胸に置き、マルクは頷いた――
アイカの亡骸を抱き、マルクは歩いた。
堂々と、もう隠れる必要はなかった。
「さぁ、来い! ここに落とせ!」
爆風に飛ばされた瓦礫が頬をかすめ、血が滴った。
「俺はここだ! ここに落とせ!」
目指すべき場所はもうすぐそこだ。
止めどなく流れ、頬を濡らしているのは血なのか、涙なのか、もうマルクには分からなかった。
「ここだ! 俺は……俺も、皆の所に連れて行ってくれ……!!」
その言葉が届いたのか……爆風に巻かれたマルクの体が、木の葉のように宙を舞った――
◆
――目を開くと、瓦礫の中に倒れてた。
瓦礫と、燻る炎。黒い煙を吐き続ける車や戦車……。
日は高く登り、町からは歓声が響いていた。
立ち上がったマルクの目に、横たわるアイカの姿が映った。
「アイカ……」
全身が痛むが、体は動いた。
そっと抱き起こしたアイカの顔は、土と煤で汚れていた。しかし、その表情はとても安らかだった。
そっとアイカの顔を拭い、彼女を抱き上げて歩き始めた。
――時折すれ違う住人や、敗残兵を探す兵士達は、少女の亡骸を抱いて歩く少年に目を向けるが――それ以上の関心は向けなかった。
彼らにとって、それは戦火に見舞われた町の一風景でしかない。
この風景の中に居る誰もが、何かしらの犠牲を払い、払わされた。それが物であるのか、命であるのかは分からない。だが、この風景に在る者達は、皆同じく、同じ戦火に飲まれたのだ。
マルクの姿は、その一人でしかないのだ。
――足下には、破壊された地下の様子がくっきりと浮き上がっていた。
線を引いたように陥没した地面……一際深く抉られたそこも、地下に空間があった事を窺わせる……。
それを辿るマルクは――ふと足を止めた。
崩れ落ち、瓦礫に埋もれたマンホール。辛うじて形を止めたそれから、半身を突き出したベルの姿があった。
「ベル……」
そっと頬に触れると、アイカと同じ感触がした――
座り尽くしたマルクの頭上を、日はゆっくりと流れた。
やがて――地平から顔を突き出し、赤々と彼の横顔を覗き見た。
――ふと、一人の老人が横切った。
肩に届く白髪は乱れ、煤で汚れた出で立ちは、同じくこの戦火に飲まれた者であることを窺わせた。
盲目なのか、白く濁った瞳を不規則に動かし、杖を頼りにゆっくりと足を動かした。それでいて、老人は真っ直ぐにマルクの元へ向かっていた。
「マルク」
まるで見えているかのように、老人は目前で足を止めて呼びかけた。しかし、返事はなかった。
マルクの瞳は、耳は、そこにある物を映し、流れる音も拾っている。
……ただそれだけだ。彼の意識へ踏み込む事はない。
老人は膝をつき、アイカとベルの頬をそっと撫でた。
光を失った両眼から幾筋もの雫を溢し、節くれた指を優しく――労るようにそっと動かした。
静かに祷りを捧げ、老人はマルクを胸に押し抱くように抱きしめた――
2022/04/20微修正