兄妹(きょうだい)
黒い部屋。
真っ黒い部屋だ。
暗いわけではない。
自分の体も、目の前に座る美しい女性も、彼女が座る椅子も、脇に置かれた小さなテーブルも――ハッキリと見える。
それ以外は何も見えない。
黒一色。
黒い部屋だ……。
目の前の女が、口元に薄い笑みを浮かべた。
「貴方の望みを、伺いましょう」
「……ここは? あなたは……?」
「死者の書。今、貴方が読んでいる本よ」
「なら、ならば……! 死者を蘇らせられると聞いた!」
「誰かの復活をお望みなのかしら?」
「妹を、エフィーを蘇らせてくれ!」
「では――私と契約を交わし、対価を支払いなさい」
「契約……対価……?」
「ええ。命を奪うも戻すも対価が必要よ」
「何を払えばいい?」
「戻す命に、見合った価値のあるものを頂くわ」
「エフィーは私の全てだ。換えられるような物はない……! 私に払える物なら何でも持っていってくれ!」
「……」
「だから、だから……エフィーを……エフィーを……」
女は目を細め、じっとアランを見つめた。
「そう言う人は多いけど……。本物ね。貴方のような人間は珍しいわ」
「エフィーが戻るのなら、何だって支払う! 私の命だと言うのであれば――」
「それは当然よ。だって貴方の命は、オマケなんでしょう?」
「……見合った価値……そうか……」
「理解が早くて助かるわ。なら、それでは足りない事も分かっているわね」
女は更に目を細め、ブツブツと呟いた。
「……命……人生……まだ足りないわね……」
何事か呟き続ける女の口元を、アランはじっと見つめた。
滲み出た汗が、頬を撫でる……その僅かな間が――異様に長く感じられた。極限まで密度を増した時間が、重くアランへのしかかった。
ふと――薄く開いていた女の唇が、大きく動いた。
「愛、笑顔。ね……」
女は席を立ち、アランへ歩み寄った。
「契約を交わしましょう」
彼を見下ろし、女は淡々と告げた。
「対価は三つ。一つは妹を失ってからの人生全て」
「……」
「これで命を半分だけ戻すわ」
「半分……?」
「ええ、不完全な命よ。もう半分は、残り二つの対価が支払われ次第戻してあげる」
「その……、二つとは?」
「貴方の命。そして、貴方に向けられる妹の笑顔」
「笑顔……?」
「貴方が最も貴び、それを得るためなら何事も厭わない。妹の愛……その象徴たる妹の笑顔」
女の瞳が、冷たい光を帯びた――
「妹に憎まれ、殺されること」
「……」
「三年あげるわ」
「……それを過ぎたら?」
「契約は無効。妹は土に帰り、全てを失った貴方だけが残される」
「……」
目を瞑り……深い、大きな呼吸に、アランは覚悟を滲ませた。
「エフィーに直接殺されなければならないのか?」
「貴方の死に、彼女の意志が介在していればいいわ」
「……」
「今ならまだ止められるわよ。このまま本を閉じなさい。ただし、もう二度と開く事は出来ないわ」
「契約を」
アランは目を開き、真っ直ぐに女を見つめた。
「刺そうが切り刻もうが、彼女が死ぬ事はないわ」
「半分か……」
「ええ」
女は薄い笑みを浮かべ、手を伸ばした。
――気が付くと、自室の前に立っていた。
まだ貧しい暮らしをしていた頃の、エフィーが生きていた頃の、あの家だ。
『妹を失ってからの人生全て』
女の声が甦った。
「そいう事か……」
エフィーの部屋に残る彼女の匂い、漂う強い気配……。
「エフィー……」
呟いたアランは、ハッと玄関を振り返り窓に駆け寄った――
薄暗くなった道を、俯いてこちらへ歩くエフィーの姿があった。
「エフィー……エフィー!」
目を見開き、無意識に扉に手を伸ばした――
今すぐ駆け寄って、抱きしめたかった。
頬擦りしたかった。
はにかんだ顔を見たかった。
悲しげな顔の理由を尋ねたかった。
ノブに手をかけた、その時――窓にあの女の顔が映った。
「……!」
我に返り、アランは手を引き戻した。
(やらなければ……)
――ガチャリ、と玄関が開いた。
「ただいま……途中で――」
「遅かったな。何をしていたんだ?」
「ちょっと途中で居眠りしちゃって……」
アランはエフィーを睨み付け、舌打ちを漏らして自室へ入った。
「兄さん……。ごめんなさい。あの木の所で休んでたら眠ってしまって……」
微かに押される扉を背で押さえ、頬を伝った涙が次々と床を打った。
(本当に……本当に生きている。本当に……本当に……!)
エフィーの元へ行こうとする言葉達を喉へ押し戻し、砕ける程に歯を食い縛った。
(エフィー……必ず、必ず、お前を救ってみせる……!!)
※
引き戻される手を見送り――震える唇から、ぽろぽろと悲痛な呻きが転げ落ちた。
「兄さん……。何で……何で……」
止めどなく溢れ出す涙が、胸元をじわりと濡らした。
「私なんか放って置けば良いのに……何で……。
おまけは私の方よ……兄さんが居なければ、私は生きてすらいなかった……」
「それで、エフィー。貴方は何を望むのかしら?」
「兄さんの重荷になるのなら……私はこのまま死んでいた方がいい……」
俯いたまま首を振るエフィーの背へ回り込み、女は呆れたように尋ねた。
「貴方……、ちゃんと聞いていなかったのかしら?」
「……?」
肩に手を添え、耳元でそっと囁いた。
「貴方の物語りと言ったかしら?」
「……死者の……物語り」
女の手が視界を遮り、視覚だけが兄の元へ戻った。
「そんな……まさか……、いや……ダメ! ダメよ!」
暗い部屋の中、血溜まりに横たわる兄……開いた瞳孔が、じっと何処かを見つめていた。
「死んだわよ。お兄さん」
冷めた囁きが、耳を貫いた。
「どうして……兄さん! 兄さん!!」
「例え貴方が刺されても、死ぬことはなかったのにね。とんだ無駄死にね」
視界を遮っていた手を外し、女は尋ねた。
「それで、貴方はどうするのかしら?」
「兄さんを……兄さんを生き返らせて……!」
睨み付けるエフィーを覗き込み、女は薄い笑みを浮かべた。
「契約を交わし、対価を支払いなさい」
「……何を払えばいいの?」
女は再び手をかざし、エフィーの視界を奪った。
兄の近くに……事切れた男が見えた。兄を刺した男だ。
「お兄さんを殺した男よ。仮にこの男を生き返らせるとしたら……貴方は何を払ってくれるのかしら?」
敵意を剥き出すエフィー見つめ、女は楽しげに笑った。
「フフフ……髪の毛一本でも貰い過ぎね」
「全てよ。兄さん以外のものなら何でも持っていって! だから……だから……兄さんを……!」
女は目を細め、じっとエフィーを見つめた。
「本当に、よく似た兄妹ね……」
――
――!
――さん!
――兄さん!
エフィー?
「兄さん!」
目を開くと、涙を溢すエフィーの顔があった。
「エフィー……」
「兄さん……」
力強く抱き締めるエフィーの背に手を回し、アランはハッと彼女を押し退けた。
「放せ!!」
しかし、エフィーの手は吸い付く様にアランを絡め取り、体を引き寄せた。
「放せ!!」
「もういいの! 終わったの!!」
「何を言っている!? 放せ!!」
声を荒げたアランの耳を、エフィーの言葉が貫いた――
「私も契約したの!!」
「契約……?」
動きを止めたアランに額を合わせ、そっと頭を撫でた。
「もう大丈夫。ずっと、ずっと一緒に――」
◆
黒い部屋で一人、テーブルに伏した女は腕の隙間に顔を埋めた。
瞳の中に、抱き合った兄妹の姿を見つめ――そっと瞼を閉じた。
「随分と勝手な真似をしてくれたな」
――瞼の裏に広がる、深い闇の底から声が響いた。
「……」
「よもや、契約の対象である命と契約を交わすとはな……」
「だからどうするべきかと聞いたじゃない。相手が契約を望む以上、私に拒否する事はできないのだから」
「招き入れておいて、よくもぬけぬけと……」
「……」
「兄の契約はそのまま、妹にも兄と同じ契約を……。どちらかが相手を殺すまで、永遠の時を彷徨えだと?」
「あの二人の契約を成立させることは不可能よ。どちらを優先させるか、本人達に委ねただけよ」
「ならば何故期限を切らなかった? 共に永遠の時を過ごせば結論が出るとでも?」
「……」
「忘れたわけではあるまいな? 数えるのは、成立した契約のみだ」
「……」
「それとも……、あの二人に己を重ねたか?」
「随分とおしゃべりになったのね。好きに解釈したら良いじゃない」
「……フン、まあ良い。好きにするが良い。そういう契約だ」
「……」
「千の契約……。道は長いな――」
〈兄妹・完〉
2018/09:再編集 2019/8/19:再編集 2021/02/23:微修正 2022/04/23微修正